理想郷
仁藤 世音
新しい暮らし
これはきっと夢……だと思う。堅い土とジャングルジムしかない公園なんて奇妙じゃないか。ましてここはマンションの目の前、憩いの場であるべきココがこんなにも寂しいだなんて。だが前をキリッと歩く母はそんなこと気にも留めていない様だ。その後ろを跳ねるように軽快に歩く妹もそう。私が気にしすぎなんだろう、無駄な考察はせずに公園を横断した。
今日から新居での生活だ。マンション最上階の部屋にはまだ段ボールの山が築かれ、それを三人で整理するところから始まった。その最中妹から聞いたところによれば、表のあの公園には真夜中に幽霊が出るそうだ。ナントカさんの霊を不運にも見つけてしまったら、それだけで祟られてしまうんだとか。具体的な祟りはわからないが「差出人のないお手紙」を貰うことになる、と言う非常に漠然とした話だった。
その夜、一人、静かに、公園を目指した。オカルトに惹かれるのは人の性というもので、信じてもいないくせに公園の前にいった。白い外套に蛾が群がる光景は、私に心霊とは別な嫌悪を抱かせた。バチッ! バチっ! っと神風アタックをしているのが妙に耳障りで、不愉快で。堪らず公園に目を下ろした。
……違和感。明確な違和感。そう、何か……あ! それだ、滑り台。白く照らし出された滑り台。さっきは無かった。
・
・・
・・・
ってはずはない。さっきは見落としたんだろう。
今ジャングルジムは闇夜に隠され、滑り台だけがスポットライトを浴びている。当然のごとく私はそこに近づいた。金属のそれに触れる、と静電気がヂクッと刺さり思わず手を引っ込める。まるで滑り台が悪いとばかりにしばし睨んでいると、何かが滑り降りるような音がした。見ていた限りではそんなこと無いのだが。
不審に思って少し距離を取った。するとかなりうっすらとだが、子どもような人影が何度も登っては滑り、上っては滑りを繰り返しているのを確認した。
目的のものに都合よくも、(いや、都合悪くも)出会えてしまったと確信した。それに会いに来たくせに、そうと分かると逃げ出していた。未知の恐怖に抗う術など、私は持っていない。
◆ ◆ ◆
翌朝、私は着替えた。制服に着替えた。学生服に、着替えた。妙にしっくりくる。嬉しいような、悲しいような、複雑な感情が押し寄せたがその理由を考える間も母は与えず、追い出されるように妹共々部屋を出た。下のロビーに着いて、妹に続いて外へ出ようとしたら管理人風のおじさんに呼び止められた。急いでいるのに……。何かと思えば私宛の「手紙」だと言う。引っ越し2日目に何を馬鹿なと思いながら受け取り眺めると、そこには差出人の名前が無かった。
心底ぞっとした。
事は昨夜のあの瞬間から滑り出し、今手元に形を取って表れたのだ。それもなんと二通! 悪夢、悪夢だ。
しかし、遅刻はそれでも許されない。私は急いで駐輪場から自転車を持ち出した。妹の姿はもうない。とんだ薄情ものめ、兄を待ってくれたっても善かろうに。
いざ学校へ向かおうとする私に、息つく間もなく次の試練が現れた。長い長い下り階段が現れたのだ。これを、この私が把握していないだなんて……。このマンションは一体どれだけ高い土地にあるのだ!? いやいや、このままだと遅刻してしまう。妹に置いて行かれたのは予想外につらい事態だったということか。まだ小さいと思っていたのに、私よりよほどしっかりしている。あぁ、迂回路が見えない分からない!
もはや止むを得ない。目がくらみそうな高さだが一本、階段を縦断するように自転車が通れそうな傾斜が施されている。ここを使うしかない。ブレーキをかけながらせっせか走り下る自分を無様だと思うのは後にしよう。足を取られたら、自転車に引っ張られたら? 大怪我間違いなし。
無心でなんとか下った。ほっと胸を撫でおろしていると、背後に気配を感じた。
今自分が手押しで降りてきた傾斜を、1人の女学生が自転車に乗ったまま勢いよく下って来ていたのだ。よく言えば勇敢な、悪く言えば無鉄砲な行為に口が半開きになる。女学生は私が要したよりも遥かに短時間でそこを駆け降りて、なぜか私の前で止まった。妹の制服と同じ、すなわち私と行先は同じである。気さくにも彼女は私に話しかけてきた。まだ間に合う、急ごう、と。その通りだ。勇気ある自転車さばきに圧倒されているほど私たちに猶予はない。サドルにまたがった私の視界の隅を、黒い幼子の影が横切った。
◆ ◆ ◆
どうにも都合よく、彼女とは同じ学級であった。階は違えどマンションも同じだと言う。これで妹に階段を通らなくてもいい迂回路を聞くなどしなくても良くなったわけだ。私は転校生であったのに、まるで旧友のように級友は接してくれた。ここはなんて温かいのだろうかと幸せな気持ちが溢れてくる。妹もきっと今、似たことを思っているだろう(!)
と、そこでようやく例の手紙を思い出した。あの女学生なら妹がした噂も知っているかと思ったが、そんなのは初耳だという。好奇心にかられた彼女は2通の手紙にも興味を示した。しまったと思い拒絶しようとしたが、あんまり熱心に頼み込むものだから折れてしまった。
1つの便せんは土が付いたりして汚れていた。劣悪な環境で書いたようで、折り目が付いたり水滴でふやけた跡も見られたが、なぜかどうやっても開封できなかった。なのでそれは一旦諦めて、もう一方の純白の便せんに入れられている手紙を開いた。
『血の赤は好き? 病に侵され疎まれ、絶望した顔はどうかな? 手足を縛られて銃口を向けられるのはあり? なし? クンクン息を吸ったら死んじゃうような世界は魅力的でしょ? 怒号にまみれた憎悪の洞穴に住んでみたいと思わない?
ぼ く が 連 れ て っ て あ げ る ね !』
やたら書き慣れた流れるような字だ。心の底から湧き上がる嫌悪に吐き気がする、これは地獄への招待状だ。彼女は私の手からそれを取り上げて、あっという間も無くびりびりに破り捨ててしまった。酷く、怒っているようだ。無言で私を抱き……しめて――なぜ? 彼女は……涙を流している。私とはさっき会ったばかりなのに。他人のためにここまで優しくなれると言うのか? 不思議だ。不思議だ……が、私も……目頭が熱くなった。な……ぜ?
◆ ◆ ◆
オカルトは信じない。彼女は犯人捜しを始めた。私も一緒になって、捜すことになった。マンションのおじさんは手紙について知らなかった。気付いたらそこにあったと、なんて言う。次に彼女は、私の妹のいたずらを疑った。そんなわけはないだろうと思うが、実際他に当てがないからこうなる。
最上階の私の新居には、妹も帰って来ていた。彼女に問い詰められても妹は飄々と否定を繰り返すばかり。母はその様子を静観していて、妹の無実を信じていないかのように映った。私の記憶にある限り、妹はいつだって私のことを想ってくれていた。だからこそ私も、いつだって妹のことを想ってい――。
…………。違和感を覚えた。いや違和感、と、言うより……焦り? 何か足りない。ぽっかりと、足りない。何が足りない……?
その一方で、彼女は諦めたようだ。実に口惜しそうな顔をして、今日は帰ると去っていった。
◆ ◆ ◆
その晩は奇妙だった。母はずっと複雑な顔をしていて、何を聞いてものらりくらり。妹は妹でやたらと私の顔を見ては切なそうな顔をする。何だと言うのだ? 私があの薄気味悪い招待状に導かれ、地獄に行くとでも思っているのか?
この街はある意味天国だ。みんながとても温かい。こんなに居心地がいいと感じたのは人生で初めてだ。どこへだって行くものか。
その後、寝床に入って少し経ってからだ。不意にサイレンが聴こえた。ここは最上階だというのに、あまりにハッキリ聴こえすぎることを不審に思ってカーテンを開けた――
◆ ◆ ◆
出来ることは無かった。私は四方八方が緑と白に光る空間にいた。何もない、概念的空間。そこにぼうっと人影が浮かんだ。滑り台で見たあれと、同じ大きさ。
「幸あれ幸あれ。ぼくの手を取って? そうしたらあなたを可能性の楽園に導いてあげるよ」
そこは、地獄ではないのか?
「究極の天国であり、究極の地獄でもある。それが可能性」
今を捨ててまで行く価値はない。そう言い放った私の手を、その人影ではない誰かが強く握った。彼女だった。どうしてここへ? そう言った私の声は聞こえていないらしい。彼を奪い去るな、そう、人影にあらん限りの叫びをあげていた。心配いらないのに、あの人影の元へは行かないのに。
アレに背を向け振り返った視線の先に、母と妹がいた。母は思いつめたように目を合わせようとはしない。妹はつかつかと歩み寄り、私と彼女を引きはがして抱きしめてきた。まったくもう、どうしたんだ? どうもヒクヒク泣いている。やっぱりまだ幼いな。小さな体をしっかり抱きしめて、頭を撫でてやった。横で彼女が何かを恐れるように首を横に振った。兄妹愛に不満でもあるのだろうか?
人影は再び問う。
「決断の機会はこれが最後だよ。これが、最後」
なんと言われようが答えはノー。あの招待状の地獄に行くつもりなど到底――。
あまりにも驚いた瞬間、人は声を出せない。今の私のように。妹は……妹は…………! 満身の力を込めて私を人影に突き出した!
なぜ!?
そう問うても、涙を流しながらも笑顔を向けるだけだった。その横で彼女はガクッと倒れこみ、私を眺めている。助けに、迎えにきてはくれないのか……? 私は情けなくも腰が抜けて動けない!
「本当に、いいんだね?」
その鋭い声の確認は私に向かっていなかった。妹も彼女すらも、重々しく頷いた。そんな優しい眼に私を映して、そして見捨てるのか!? 母はこの期に及んでまだ目を逸らす。
「怖がってはいけないよ。いざ可能性の世界へ……!」
ま、待て! なぜ? なぜ!? 最後の最後に母がぎこちない微笑みを向けたのを見て、私の意識は途絶えた。
◆ ◆ ◆
明滅する世界……。右足が痛い。脇腹も、いやもうそこかしこが痛い。強烈に痛くて思わずうめき声を上げた。
「お、奥村大尉! 奇跡だ!!!! みんな、奥村大尉がお目覚めになられたぞ!! あの方を早くお呼びするのだ!!」
歓声が聴こえた。なんてやかましい、安静にさせてほしいものだ。今度こそ目をしっかり開いた。そこは簡素な病院、野戦病院……。
頭の先からつま先まで、記憶が流れた。私は、戦火の中負傷したのだ。そうして仲間に運ばれて、きっと今に至る。今しがた大声を上げた彼が私のそばに来た。
「奥村さま……! 本当に良かった。咲代子さまと恵理さまの後を追って、あなたまで居なくなるんじゃないかって。あなたにまで死なれたら俺たちはもう……」
「蒲……田。はっはは。軍人が何を、弱気なことを」
「奥村さま、もう軍人ではありません。俺もあなたも。戦争は終わったのです」
「そ、そうか。そう……」
とてつもなく安堵した。何かこれを望んでいた気がする。私たちは敗北濃厚だった。終わったということは負けたのだろう。それでも、安心してしまった。
「蒲田、香織と梨花は?」
蒲田の顔が一気に曇った。
「咲代子さまと恵理さまが空襲の犠牲になったことは既に電報でご存知だったと思います。その……犠牲者の中には、香織さんもいたと……」
「そ……んな」
生きる活力が一気に削がれたのを感じた。婚約者を失った。片割れを失った。幼少時代から全てを分かち、これからもそうなることを信じて、疑えなかった。この地獄のような世界に、私は生き残ってしまったというのか。
と、蒲田が手に持った手紙が目についた。それは土に汚れていて、折れていて、初めて見たはずなのに不思議と見覚えがあった。
「それは、なんです?」
「梨花さまがあなたに宛てた手紙です。ここまで辿りついてずっとあなたの看病をしてらっしゃったんですよ。『兄上だけでも絶対に守る!』って、誰よりも懸命に……。今は疲れておやすみになっておられますが、今呼びにやっています。梨花さまが来る前に、どうかこれをお読み下さい。『自分が寝ているうちに目が覚めたら渡してほしい』とおっしゃられていましたので」
「梨花が……」
恭しくそれを受け取り開くと、梨花らしい愛らしい文字でこう、綴られていた。
『 幸兄さまへ
覚えておいでですか? まだ小さかった頃、
梨花より 』
理想郷 仁藤 世音 @REHSF1
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