バベルの上にも雪は降る

和泉眞弓

ラスト・レター

 生物学的に言えば、貴女は私の一卵性双生児ということになるのだろう——貴女はわたしの乳の細胞から出で、漿しょうの海で全能を得、幾多の艱難かんなんをくぐり抜け、世に降臨した。間違いなく貴女は、わたしを正しくかたどり、貴女のすべてはわたしから生まれた。厳密には双子の姉妹であるはずのわたしが、最期に貴女をこう呼ぶことを、どうか許してほしい。


 わが娘、ドリー。


 幾多の失敗に吊り上がった期待の頂点が弾けるように、ドリー、貴女はこの世界に迎えられた。それは科学の新しい歓び、光。決して親ばかではない。同時代に生まれた子の誰よりも待ち望まれていた貴女は、おびただしい眼差しを集めながら育った。貴女ははやくから悟っていたはず。貴女を見つめる眼差したちの奥には、バベルの塔が鎮座していることを。かの冒瀆ぼうとくの具現を貴女に映し、みわざをおそれ、あまつさえ劫罰ごうばつが貴女に下されることを暗裡に期待する、そのような底流が仄暗く脈々とながれているということを。


 ぬるりと距離を保つ眼差しの中、貴女はなにを思っていた?

 愛されていると?

 曝されていると?

 囚われていると?

 試されていると?

 疎まれていると?

 同じ組成でできている筈の、わたしにもそれは解らない。


 貴女にいわゆるお父さんは存在しない。


 残酷なことだけれど子どものことを愛の結晶とよぶ人もいる。自然界では、二者の営みにより新たな命が生みだされる。それこそが自然の摂理ならば、疑問に思ったことはないだろうか。


 わたしは、わたし以外の存在と交合せずに貴女を生んだ。そこに、いわゆる愛のようなものが存在したのかということを。


 わたしは、わたしのままで寿命を越えて存続したいエゴから、あなたを生みだしたのではないかと。


 平凡過ぎる前置きだけれど先ず貴女に知ってほしい。貴女の誕生は、わたしだけでは成せなかったと。わたし以外の者のたくさんの手、直接携わった者だけではない、歴史的にも幾千幾万の科学者により蓄積された知識の手が、貴女を望み、実の命を招びよせたと。


 知識と情報は、次世代におくることができる、祈りだ。


 疾病に強く遺伝病の確率も少ない、知的にも優れた個体である確率が高い、大量生産に向いた遺伝特徴を持っている、そういう理由でわたしの肉体は選ばれた。エゴがないかと言われれば、嘘になる。わたしの遺伝情報が、後世にも求められていると思うのは、わたしを優れたものであると思わせるには、十分だった。


 少しおとなになると、それはつまらないと思うようになった。同じものの再生産は、全体としては退化なのではないかしら、と。

 心配は杞憂だった。生まれた貴女は、わたしの姿かたちによく似ていたけれど、わたしよりほんの少しだけ目が離れ、鼻の線がシャープだった。わたしそのものなのに、わたしとは違うものだった。わたしは、安心した。貴女は、生まれた時から他人だった。その離れた目とシャープな鼻の線をはじまりとし、貴女そのものをいとおしいと思うことに時間はかからなかった。そしてそれを自己愛と言われれば傷ついたような気持ちになった。けれども考えてみれば、貴女へのいとおしさが、自分以外の者への愛だということを証明するのも、わたしの立場ではできなかった。


 もとよりわたしは他者を愛したことがあるかを考えてみた。手繰れば、思い当たるような記憶がある。

 貴女にわたしが渡せるギフトは、同じ肉体で先に生きた知識だけ。貴女には要らないものかもしれない。けれどわたしの生きた証として、このエピソード記憶も共に連れてほしい。


 貴女を生んだ数多の手の一つ、研究チームの一人に、ユキヒロというアジア人の研究者がいた。訥々として流暢ではないぶつ切りの英語が詩的だった。ユキヒロはわたしに遠い故郷の話を聞かせてくれた。捧身するわたしを憐れんでいたのか、異国の孤独が彼をそうさせたのか、よくわからない。ユキヒロは用がなくてもわたしの側にきて、独り物語っていった。

 彼の祖国はニホンという国だということ。故郷はホッカイドウ、ここスコットランドと似た気候だということ。スコットランドで学んだ職人がウイスキーをニホンに広めた、彼の故郷にも蒸留所があるのだと言う。ユキヒロの名はホッカイドウの広い大地に雪が降る日に生まれたからだと言っていた。ほんとうかどうかは確かめようがないけれど、用がなく訪ねてくれるのはわたしは嬉しかった。ユキヒロの語りを聞き、雪の降る、彼の故郷の風を知りたくなった。スコットランドの雪と、彼の故国の雪は、違うのかしら? わたしはユキヒロの物語で旅をするのが好きだった。スコットランドへの旅路の中で、スキットルをしのばせて寒い列車でチビチビと飲むユキヒロ。口の中でかっとひろがったであろうウイスキーの灼熱さえ、わたしはいつしか再現できるようになった。定期的に途切れるレールのようなリズムをもつユキヒロの語りによらなければ、もうわたしは旅ができなくなっていた。


 わたしの乳から貴女の源を取り出すその前夜、ユキヒロはわたしのいるラボを訪れた。

 わたしは物語を待っていた。けれど、ユキヒロは悲しげにわたしを見つめ、手を伸ばし、わたしの巻き毛に一瞬触れた。指先が作った風にわたしはその故郷を想い、潤んだ目に少年の面影を見た。ラボの室温は快適だったのに、わたしは、彼を温めたいと思った。四肢の構造から叶わなかったけれど、彼が故郷を捨ててまで手を伸ばそうとしているもの、それは、わたしからつくられる新しい命、それをわたしは叶えたいと強く願った。研究所での試み自体は幾度目かであったけれど、わたしは初めて、見えないものに祈った。


 ユキヒロの手により、わたしの子ができることを。


 当日、ユキヒロはわたしの乳に触れたのだろか。眠っていたので、わからない。わからないけれど、ユキヒロがわたしの乳房に触れ中を開き命のもとを取り出したと想像しただけで、内側がかっと熱くなる。わたしには、それで十分だった。


 ドリー。貴女には、貴女の生があり、誰かと新しい生を成したい時がやがて来るでしょう。願いを叶えられる身体をわたしが与えられたかどうかはわからない。懸念もある、貴女の細胞はわたしの年齢から出でている、だから同い年の子よりもはやく老いるかもしれない。


 わたしはもう長くない。わたしの名もユキヒロの名も残らない。けれどドリー、貴女の名は間違いなく歴史に刻まれる。貴女が1日長く生きるごとに、刻まれる記録が長くなる。でもドリー、わたしが貴女に望むのは生きる年月の長さではなく、貴女が覚えていたいと思うできごとに出会うこと。スコットランドの湿った風、涼しい夏、草の香りはどうだった。心にとめてくれた他者はいた、愛のようなものには会えた?


 ユキヒロがいつか話してくれた。ユキヒロの故郷には、人工雪誕生の地があると。天然の雪の結晶を、人工的に再現した研究者がいたと。人工雪の結晶は天然ものとその六角形の美しさはなんら変わらない。条件により違う結晶を成し、いずれも美しい。その結晶の形は逆に天然の上空の様子を知らせてくれる。その研究者は言った。


 「雪は天から送られた手紙である」


 今年、最初に貴女の巻き毛に着地する雪の結晶。それを、わたしだと思ってほしい。

 研究所で貴女に指一本触れられなかった、母親のわたし。

 わたしは天に召されて雪になる。スコットランドに降り、ユキヒロの故郷にも降る。

 わたしはわたしと同じ貴女の巻き毛に舞い降り、貴女の体温にふれてとける。


 長かった。


 やっと、わたしは貴女と一緒に居ることができる。

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バベルの上にも雪は降る 和泉眞弓 @izumimayumi

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