かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインの物語

わく

第1話

1.

 少年の頃の「世界が終わってほしい」気持ちが蛹になり、十数年後に羽化したら、「会社を辞めて逃げたい」気持ちの蝉になった。蝉が空を羽ばたいていくのを眺めながら、僕は東京駅のホームで電車を待っている。

 平日なのに、会社に向かう方向とは真逆の路線の電車に乗る。ただそれだけで、何か特別な存在になった気がして、事前に有給申請をしていたことを思い出して自虐に口元が歪むと共に、何かを期待している自分もいる。今の会社に入社して3年。残業時間が人生の可処分時間を汚染すると共に、使う時間のない給料はただの数字となった。普段の生活は、家とコンビニと会社の三拠点を行き来している。世界から、家とコンビニと会社以外の場所が消え去っても、実感が沸かないのかもしれない。そう感じるくらい、労働をしていると自分の人生の現実感が砂のように指の隙間からこぼれていって、それを拾うためにたまに電車に乗って旅をしている。


「明後日の稲毛浅間神社のお祭り、暇だったら一緒に行かない?何か、夏っぽいじゃん」

「唐突だなー。もうちょい事前に言ってくれればいいのに。18時以降ならいいけど、どこで集まるの?」

「JR稲毛駅の改札はどう?」

「え、やだ。JRから浅間神社まで歩くと遠いじゃん。京成稲毛駅にしてよ」

「え、乗り換えめんどくさ」

「いーじゃん。それで決まりね」

「うーい」


 総武線快速の電車の中で、2日前に海宝さんに送ったLINEのメッセージを読み返す。生まれ故郷の稲毛に行くのは、何ヶ月ぶりだろうか。千葉街道を挟んで、海側の埋立地の工業地帯には団地とロードサイド店舗が並び、丘側には昭和の頃から時が止まった商店街が並んでいる。東京湾沿いの典型的な郊外の街だった。海宝さんは、僕が通っていた埋立地の高校の同級生で、海のように濃い青色のショートカットの女の子だった。


 良い高校、良い大学、良い就職。それが幸せになる道筋だと、うんざりするほど父親に教えられた。あるいは、父親自身も本当は息子に伝えるふりをして、今の生活は幸せに違いないと自分に言い聞かせていたのかもしれない。本人も信じたいから、自分の代わりに息子に伝えることで、自分も信じようとしていたのだろう。中学生の頃の僕は、父親のその考えを特に疑わずに人生のコマを進めていた。僕にとっての青春も、その延長線上だった。高校生の恋愛と青春を描いたアニメやライトノベルに触れすぎて、僕もいつかはヒロインの女の子と恋人になるんじゃないかと、無邪気に考えていた。多くの中学生と同じく、僕も僕の世界の主人公だったのだ。

 小学生の頃から自宅の隣の家に幼馴染の男の子が住んでいた海宝さんも、似たような考えの持ち主だった。普段はお節介で小言を言ってしまう委員長キャラの自分だけど、なんだかんだでいつも一緒にいてくれるこの幼馴染の男の子と、いつかは付き合うんじゃないかな、と。


 そして、二人とも玉砕し、高校時代に青春らしいイベントは何も起こらずに終わった。二人の代わりに、海宝さんが好きだった幼馴染の男の子と、僕が好きだった高校一年の時に神戸から引っ越してきた女の子が付き合い始めた。確かにその予兆はあったのだ。僕は、アニメやライトノベルで見たキャラ同士の関係性を実現することを妄想して、実際の人間が何を考え、何を求めているのか、これっぽっちも見ていなかった。海宝さんも、幼馴染という気安さで男の子と友達にはなれても、それ以上の関係にどうやって発展させればいいのか分からない。自分の気持ちを相手に伝えると今の関係が崩れることが怖くて、必要以上にただの幼馴染アピールを繰り返してしまう。その代わりに会話の節々に好意を匂わせても、相手から気づかれない。もしくは、意図的に無視されてしまうのだった。

 

 結局、僕らは現実というゲームの主人公でもヒロインでもなかった。主人公たちの恋愛が成就して、ゲームクリアしてイベントが何も起こらない街に残り、「ここは稲毛の町です」と言い続けるモブキャラとして生きていくしかなかった。稲毛はここ10年であまり開発もされておらず、僕が小学生の頃から風景があまり変わっていない。

 もしかすると、10年後も、20年後もあまり変わらないのかもしれない。本当にゲームオーバーの後日談の舞台のような町だった。


「あの二人がこのゲームの主人公とヒロインで、僕らはモブキャラなんだよ。僕は『主人公の友人の気安いオタク』で、海宝さんは『かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン』で、ゲームクリア後もイベントが何も起こらないこの街で暮らしていくんだ」と、海宝さんに伝えたことがある。

「アンタ、本当にバカじゃないの!どこが気安いオタクなんだよ!!発想が激重じゃん!!」と、僕の肩をバシバシ叩きながら彼女は爆笑していた。その頃から、何となく気安い異性の友達として、海宝さんと遊ぶようになった。元々、互いに好きだった相手にフラれた仲だから、立場が近かったのだろう。


 高校の天文部しか入れない屋上に幽霊天文部員の特権を使って忍び込み、夜遅くまで部活を続ける野球部員の叫び声を聞きながら、「青春だねー」「そうだねー」と、ゆるい会話をしていた。屋上の床は硬く、生徒が座ることを想定していないからざらざらしている。天文部の天体観測用の銀マットを持ち込んで、二人で座っておしゃべりをしていた。天文部員なのに太陽の黒点観測も木星の衛星写真撮影もしないで、僕は青春を外から観測することしかしなかった。天空の星も地上の青春も、僕にとっては同じくらい遠いものだった。

 海宝さんは僕の妄想を面白がってくれて、二人でよく屋上でおしゃべりをして、下校時間まで暇つぶしをしていた。たまに、あまりにも野球部員の練習の叫び声がうるさかったら、右手をライフルに見立てて、妄想の中で二人で野球部員を銃殺していた。

 当時から妄想癖の強い僕は、よく海宝さんと妄想を共有しては互いの考えを重ね合わせていた。


「もしも、主人公とヒロインの恋愛が成就して、ゲームクリアされた街があるとするじゃん。プレイヤーはゲーム機の電源を落として、もう二度とイベントは起きない。仮に、稲毛がゲームクリア後に放棄された街で、僕と海宝さんがそこに残っていたとしたら、どうやってここから抜け出すのかな?」

「んー。言ってることがよく分からないけど、また、電源を入れればいいんじゃない?それで新しいゲームを始めるの」

「そうじゃなくて、もう電源は落ちちゃってるんだよ!プレイヤーはもう二度とこのゲームをプレイしないの。それで稲毛は何もイベントが起きないのに街はどんどん衰退していって、団地の壁とか歩道橋の手すりとか、どんどんボロボロになって廃墟になってくんだよ。そこに取り残されたら、どうする?」

「あそこの歩道橋の手すりなんて、10年前からボロボロじゃん!とりあえず、飲み物買いに行かない?野球部も、練習終わってるよ」


 大体、僕が妄想を話して、海宝さんが委員長力を発揮してツッコミを入れるスタイルだった。ちなみに、委員長力と書いて「いいんちょうちから」と読む。委員長力が強い青髮ショートカットの女の子は委員長ロードを開いて、大抵、幸せになれなくて死ぬ。さすがにその事実を本人に伝えることは憚られたが、僕の中ではそういう設定だった。幼馴染の委員長キャラなのに学級委員でも生徒会長でもなく、部活にも所属していない海宝さんは結構、暇な人だった。そのことを海宝さんに伝えると、「人を勝手に委員長にするな!」とツッコミながら、左手で軽く殴られた。



2.

 京成稲毛駅の改札で、駅前にある日本茶兼海苔屋の大きな看板を眺めながら「何で、日本茶と海苔は同じ店で売られることが多いんだろう」と考え込んでいたら、海宝さんが到着した。海宝さんは、猫を連想する癖っ毛の青髪のショートカットで、白いTシャツに黒のプリーツスカートを合わせ、茶色の革のサンダルを履いていた。今の彼女は、地元の本屋でアルバイトをしている。革のサンダルということは、バイトが終わった後に帰宅してから駅に向かったのかもしれない。


「ごめん!人が多すぎて、ちょっと遅れたかも。ここから神社行くの、ヤバいね」

「人の流れに沿っていけば大丈夫だよ。ベルトコンベアーに流れてくる大福をイメージしながら進めば、余裕。俺は人間じゃない、俺は大福だ。こんな苦難、サバンナか山崎製パン千葉工場では日常に過ぎない…」

「…アンタ、本当に変わってないね」


 稲毛浅間神社の夏祭りは、毎年30万人も来る。昭和レトロと呼ぶには廃れている京成稲毛駅から、浅間神社までの道路は満遍なく人がいて、両脇にあるスーパーボールすくいやじゃがバターなどの屋台に行くのは難しい。とりあえず、神社までは人の流れに沿って歩き、境内の人が少ない場所(僕は、RPGのセーブポイントと呼んでいる)を見つけたら、そこで屋台料理を食べるのがセオリーだ。


「普段は人通りも少ないのに、こんなに人が来るなんてねー。ちょっと人が多いの苦手かも」

「参拝したら、人が少ない場所に避難してみる?ずっとここにいるのもいいけどさ。僕は概念の夏祭りは好きだけど、人は嫌いなんだよね」

「何か、アンタの考えを分かるのがくやしい。うーん、そうしようか」


 海宝さんはこちらを気にしないで、人混みの中を先へ先へと進んでしまう。と思うと、自分が相手を置いてけぼりにしていることに気がついて五秒くらい立ち止まっている。その後、気になる屋台を見つけると、また先へと進んでしまう。彼女の髪は、境内の橙色のぼやけた街灯に照らされてわかりやすい。だから、僕も迷わずに付いていくことができた。

 とりあえず参拝してから移動しよう。そう甘く考えていた僕らは、本殿の前の30メートルほどの行列を見て思わず顔を向き合ってしまった。やはり、夏祭りは青春の必須イベントなのだろう。恐竜の形にすると1000円もらえる型抜きに夢中になっていた小学生たちは列に並んでおらず、10代から20代のカップルが大勢並んでいた。7月とはいえ気温は30℃近く、列に並び始めると人の熱を感じる。


「…どーする?本当に参拝する?」

「とりあえず、ここまで来たからいいんじゃないかな?もう、夏祭りの実績は解除したよ。境内に、小さな稲荷神社があったじゃん。あそこで参拝しよっか」


 かつて、稲毛の海が埋め立てられる前、浅間神社は海沿いにあった。広島の厳島神社のように、浅間神社の一の鳥居も海上に作られていたらしい。だからなのだろう。神社の境内には防風林として松の木が大量に植えられていて、昼間でも鬱蒼としている。高台にある本殿と違い、稲荷神社は松林の付近にあって暗い。夏祭りだというのに、本殿に参拝する人が多くて、稲荷神社の付近に人通りは少なかった。概念の夏祭りは好きでも人が嫌いな僕らは、稲荷神社で参拝した。


「結構、人がいないねー。稲荷神社の裏手の松林に人はいないし、ここでのんびりしようか。ちょっと飲み物と焼きそばでも買ってくるよ」


 境内の駐車場付近の自動販売機に人はいない。あまり儲かっていないように見える焼きそばの屋台で通常サイズを購入し、自動販売機でお茶を買って稲荷神社に戻ってきた。


「あー、人がいない場所って落ち着くねー。世界が中途半端に滅びればいいのに」

 お茶を一口飲んだ海宝さんがそう呟く。少し、胸が高鳴ってしまった。僕は世界の滅亡を望む女の子に弱い。

「そうだねー。さすがに今日くらい暑いと、人混みはきついよ」

「ねえ。ここから本殿を眺めると、高校時代の屋上を思い出さない?甲子園を目指していた野球部の練習の叫び声とか、全国大会を目指していた吹奏楽部の練習の音とか。そういう真っ当な青春を屋上から眺めて、アンタとだらだら喋っていたのを思い出すんだよね」

 海宝さんは、路地裏で餌のドブネズミを見つけた猫のように、何かを期待した目つきで笑う。

「ちょっと暇だし、青春でやりたかったことの告白大会とかしようよ。最高の夏を告白しちゃおうぜ!アンタの妄想は根深そうだし、面白そう」

「二人称が『キミ』の女の子に、『もう、夏も終わっちゃうね…』と切なく呟いてほしかった」

 青春でやりたかったことは常時考えているので、即答してしまった。

「うーわ、何それ…意味分からないんですけど。えーと、君…もう夏も終わっちゃうね…?」

 意味が分からなくても、とりあえず付き合ってくれるのは海宝さんの長所だ。イメージが合っているのか自分でも疑問に思いながら、僕の妄想に付き合ってくれた。

「ダメダメ!今の『君』は漢字でしょ。ダンディな英文学の教授が女子生徒に対して言う『君』じゃん。絶対、ジェントル髭が生えてるし、堅苦しいんだよ。そうじゃなくて、もっと、カタカナの柔らかい感じがいいんだよ。それでいて、平沢進の歌詞の近未来要素は抜きにしてほしい。本当のことなんていつも過去にしかないんだよ」

「牛丼のネギ抜きみたいに、簡単に言うなよ!オタクのコダワリは面倒臭いな!うーん…そうだなー」

 右手の人差し指と親指で顳顬を数秒間掴んでイメージトレーニングした後、海宝さんは立ち上がってスカートについた砂を右手で払った。

「キミ、もう夏も終わっちゃうね…」

「それ!それそれ!今の海宝さんの『キミ』、最高だったよ!」

 思わず、僕は海宝さんに向けて、感謝の念を込めて合掌してしまった。

「は?えーっと、お粗末…さまです?」

 そうして、海宝さんは立ったままぺこりと頭を下げてみせた。

「お粗末なんかじゃないよ!千葉市150万人の中で、一番、二人称の『キミ』が似合うヒロインだよ、海宝さんは!」

「千葉市の人口、100万人くらいじゃん!残り50万人はどこから来たのさ?」

「えっと、東京湾のハマグリとか?」

「ハマグリかよ!」

「ハマグリにもヒロインがいるのかもよ。私達の恋の絆は、潮干狩りによって切り裂かれた的な」

 二人でゲラゲラ笑ってしまった。

 笑い疲れて上空を見上げると、松林の隙間から夜空を切り裂くように飛行機が飛び、成田空港に向かっているのが見えた。蘇我にある製鉄所の明かりが雲に反射して、夜空を朱色に染めていた。僕はこの夜空を見て、子供の頃から稲毛の朱色の夜空を見る度に世界の終末を妄想していたことを思い出した。

 まるで、人類滅亡後の世界で、人間の行動を永遠に模倣し続けるアンドロイドのように、僕らは最高の夏を演じ続けた。それは、架空の青春の共犯者である僕らにとって、シリコン製の人工皮膚の裏側に自虐を貼り付けた冗談のようなものだった。


 最高の夏に関する妄想を話していたら、いつのまにか夜20時を超えていた。

「アンタの話す最高の夏って、この街だと実現できなそうだよね。何で、麦わら帽子に白ワンピースの女の子が、田舎の田んぼのあぜ道を歩いているの?虫に足を刺されちゃうじゃん。毎日、ムヒでも塗ってるの?」

「やっぱり、稲毛の海は埋め立てられているから、偽物の海っぽいよね。海も汚いし、泳ぐのは嫌だし。中途半端に昭和だし。それに比べると、銚子なんてザ・海の田舎という感じじゃない?銚子なら白ワンピースの女の子はいるよ」

「ふーん…ねえ、そういえば、高校の頃に好きな女の子がいたよね。あの子が白ワンピースを着ていたら、やっぱり嬉しかったりするの?」

 普段から現実のことを考えていないから、少し考え込んでしまった。

「…どうなんだろう。僕は、妄想の中のイメージを女の子に向けてしまう。田舎の夏祭りに浴衣姿の女の子と一緒に行くとか、麦わら帽子に白ワンピースの女の子と田んぼのあぜ道を歩くとか。それが実現すると嬉しいんだろうけど、それって僕の妄想だよね。現実にすると、相手に対する申し訳なさがあるんだよ。多分、それは形を変えた自己嫌悪なんだと思う。だから、妄想に留めておくんだよ」

「そういうものかな」

「そういうものだよ」

 ふと、会話が途切れる。クビキリギスの「ジー、ジー」という鳴き声だけが、夜の松林に響いている。遠くから、稲毛音頭のお囃子が聞こえている。もしかすると、今でもカセットテープで再生しているのかもしれない。次の話題を探そうと頭を捻っていると、海宝さんの方から話しかけてきた。

「私があの子だったら、結構楽しいと思うんだけどな。アンタの妄想は、別に性的な要素が濃いわけじゃないでしょ。妄想だから軽いというか、妄想のコスプレみたいな感じだと思う」

「そういうものかな」

「そういうものだよ」

「多分、妄想って、終わってしまった架空のアニメのヒロインに、ずっとこだわっている感じなんだと思う」

「オタクなんだから、次のシーズンのヒロインに乗り換えればいいじゃん」

「…オタクだから、シーズンが終わっても自分の好きなヒロインにうじうじと固執するんだよ」

「あはは…」海宝さんはペットボトルのお茶を飲んで、乾いた笑いを浮かべた。

 ペットボトルのお茶が尽きると、そのまま立ち上がった。

「ねえ、京成の稲毛駅まで、手をつないで帰ろうよ。夏なんだし、青春っぽいじゃん」

「え、いいけど」

「いいじゃん。駅についたら、どうせ今年の夏も終わるんだしさ。夏の終わりまで、手をつなごう」

「夏の終わりまでか…何かいいね」


 こうして、海宝さんと手をつないで、京成稲毛駅まで歩いた。二人でつないだ手を前後に振りながら、歩く。歩く。たまに前方から真っ直ぐに人が来ると、一度手を離して、再び手をつなぐ。おそらく、僕は海宝さんと手をつないだことよりも、「女の子」という概念と手をつないだことに胸が高鳴ってしまっていたのだろう。脳内が干からびて何も妄想ができず、一言も喋らずに駅に着いた。

 その後、彼女とは二度と連絡が取れなくなった。



3.

 大抵の人は、自分の愚かさをインクにして物語を綴る。その物語を後悔と呼ぶ。この時の僕も、その一人だった。けれども、海宝さんは別の物語を綴ろうとしていたのだろう。そして、この時の僕は「最高の夏」という自分の物語に夢中で、そのことに気がつかなかった。多分、彼女はゲームクリア後に放棄されたモブキャラの街で、一緒に新しいゲームを始める相手が欲しかったんだと思う。


 こんな話を祖父から聞いたことがある。祖父は房総半島の中央に位置する村の出身で、父が生まれて物心ついた頃に稲毛に引っ越してきた。秋の彼岸の季節、先祖の墓参りをするために祖父の故郷に赴くと、国道から菩提寺の墓地に向かう脇道の付近に、死を連想する赤々しい彼岸花が咲いていた。脇道の他のイネ科の雑草と比べると、彼岸花の色は際立って見えた。

「爺ちゃんのまた爺ちゃんから聞いた話なんだけどな。その頃の村では、彼岸花のことを偽夏の花と呼んでいたらしいんだよ」

 小学校低学年の孫の僕に話しかける祖父の主語は、いつでも「爺ちゃん」だった。

「今なら、蝉にいろんな種類がいるだろ。アブラゼミやツクツクボウシ、ヒグラシとかな。その頃の村では、蝉は一種類しかいなかった。蝉の幼虫は地下深くに潜っているだろ?それで、夏になると地上に出て来る。けれども、猛暑や冷夏によって、蝉が夏だと感じたタイミングが異なる。それで、羽化して地上に現れた時に、夏のどの時期かによって鳴き声が異なる…村ではそう思われていたんだよ」

「ヒグラシもそうなの?」

「ヒグラシは夏の終わりの蝉だ。相手を見つけようとしても、ほとんどの蝉はもう相手を見つけている。だから、悲しそうに鳴くんだよ。もっと悲惨な運命をたどる蝉もいる。地中深くに籠もって何年も夏を待ち続ける蝉の幼虫は、たまに偽の夏の夢を見る。蝉は夢の中で羽化して木に登り、大声で鳴いて相手を見つけ、子孫を残して一生を終える。そういう夢から覚めて、もう彼岸だから自分以外の仲間は死に絶えていると思い込んだ蝉が絶望し、地上に出ずに一生を終える。そういう悲惨な蝉から生えてきたのが、赤々しい彼岸花らしい。爺ちゃんの故郷では、彼岸花の地下には蝉がいると思われていたんだ。だから、彼岸花を偽夏の花と呼んでいたんだ」


 祖父は、自分でホラ話を話し始めると、途中から自分で信じてしまう性格なので、どこまで本当の話だったのかは分からない。けれども、この話は妙に僕の心の中にくすぶり続けたのだった。物語と物語が出会うためには、タイミングがある。同じ夏の夢を見て、同じゲームを始めて、同じ結末を迎える。


 これは、「かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインの物語」だ。もしかすると未来にありえたかもしれない、過去にしか存在しない物語。

 部屋干ししてある下着を避けて窓を開けると、夏の青空に浮かぶ大入道雲に向かって一匹の蝉が力無く飛んでいるのが見えた。あの時、東京駅のホームで見た蝉と同じなのだろうか。それとも、あの時の蝉は既に死に、新しい蝉が飛んでいるのだろうか。それは、きっと…。

 きっと、僕は永遠に最高の夏を求め続けて、救われないのだろう。今はまだそういう気分だ。

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