お迎えの時

まーさまーさ

お迎えの時

 いつまでこの雨は降り続くのだろう。しかし、どんなに、イライラしてみても、一行に止む気配のない梅雨の長雨は、今日も朝から絶え間なくシンシンと降って、里子の住む住宅街は、まるで薄いグレーのベールに包まれているようだった。夕方になってからも、厚い雲は、青空を見せてなるものかと、隙間なく立ち込めていて、太陽という存在をこの世から消し去ってしまったかの様だった。


 飛行機でこの雲のうえに上がることができさえすれば、何処までも続く青空を、胸一杯に吸い込むことができるのかな、と里子は右手で指している傘の先から、空を眺めていた。

 里見の問いかけに、アヤは頭を揺らす動きを止めて、足元の水溜りに目を落とした。雨粒が落ちるたび、水溜りには波紋がいくつも繰り返し沸き起こっては消えていく。アヤは、突然思いついた様に、里子の左腕を抱きかかえた。里子が想像するより、ずっと強い力で、自分の体をギュと密着させた。里子は勢いに押されて、後ろに半歩ほどよろめきそうになったが、アヤの束ねた髪を見つめ、背中に手を回すと、自分の方へ引き寄せた。すると、アヤの腕の力は、少しだけ緩んだような気がした。結局アヤが、傘の質問に答えることはなかった。


 里子は、アヤをゆっくり、体から離した。見上げるアヤに、小さく笑顔を投げかけた。アヤもそれに答えるように、頬を上げて笑顔になった。里子は、小さくキラキラと光っている娘の目を見つめた。


「あのね、アヤ。お母さんに『おつかれ』は、おかしいでしょ? そう思わない」


 里子の問いに、アヤは真顔になった。笑顔消す事で返事をしたようだった。


「それって、仕事してる人が使ったりするものよ。まるでパ・・・」


 里子は、出掛かってしまった言葉を一瞬どう取り扱おうか悩んだ。しかし、「ここまでなら」と、勝手に見切りをつけて続けた。


「パパが会社の人と言ってたみたいでしょ。分かる? ママには、『お待たせしました』とか、『迎えに来てくれてありがとう』って、言って欲しいなぁ。ね、そんなに難しくないでしょ、アヤ」

 里子の手を握ったままアヤは俯いていた。里子は、フゥと小さく息を吐き出すと、アヤに「歩こう」と促すように、手を引いた。アヤも小さな歩幅で、里子の横に付いて歩き始めた。「雨止まないね」アヤは独り言のようにポツリとこぼした。梅雨の長雨はまだまだ止む気配がなく、家々の輪郭を一層曖昧なものにしていた。

 アヤは、ずぶ濡れになってしまった靴をひどく気持ち悪がって、玄関につくやいなや、右足をブルブルさせて、靴を放り出した。「こらこら」と、里子がその靴を並べる。アヤはもう片方は、丁寧に手をかけて脱いだ。そしてドタドタと音を出して廊下を抜けて、リビングに向かった。里子は、アヤの靴を揃えて置くと、気持ち悪い履き心地になっている自分の靴を手で握ってグイッと脱いだ。


 里子は、台所に向かいながら、「宿題先に済ませなさいよ」と、リビングにいるアヤに言った。「うん」という返事がしたような気がしたが、それをかき消すように、テレビから、やたら明るいアニメのキャラクターの声が流れてきた。


 里子は、食事の準備を済ませると、BGM代わりにつけていたテレビの音量を下げた。丁度夕方のニュースの時間で、しきりに話をしていたベテランニュースキャスターは、口パクになった。

 それから、自分の部屋にいるアヤを呼んだ。勉強部屋から「はーい」と、返事がするとアヤは、目をこすりながら食卓のテーブルにやってきた。小学生となると一人で席にちゃんと座れるし、食事の準備もできる。里子は娘が大きくなったなと、実感していた。

 いつもの席にアヤは座ると、目を見開いた。アヤの好きなクリームコロッケを今日はメインにしてみたのだ。里子は目論み道理だと、アヤの満足げな表情を楽しんだ。


「うまそー! 腹減ってたから、ほんとうまそー」


 アヤはその勢いのまま、手に取った箸をうすく湯気の上がっているクリームコロッケの衣に突き刺し、口に運び、モグモグとおにぎりの様に食べ始めた。


「アヤ、ちょっと待ちなさい!」


 思わずついて出た事もあり、里子の声は、自然と大きくなっていた。


「頂きます、もなく、それは何! あと、うまそーって女の子なのに。いけないでしょ。腹減ったもダメ。そんなパパみたいな言い方は、やめて頂戴。それに第一。第一、アヤのパパは、もう関係ないの・・・」


 里子はそこまで言うと、声を飲み込むように、話を終わらせた。それから、「いただきます」と急いで付け加え、雑に箸を手に取ると、自分が駆け足のように準備した食卓のオカズを一望した。

 クリームコロッケは、付け合せのレタスのお陰で、狐色がより際立っていた。お味噌汁からは、ゆっくりと静かに湯気が立っている。思い付きで作った糸こんにゃくとほうれん草、厚揚げで作ったおひたしは、脇役にしては十分な存在感だ。「なにから、食べようかな」里子が、迷っていると「う、う、う」と、呻くような押し殺した声が、微かに耳に届いた。里子は、声の方へ、目を向けた。アヤが椅子の上で、凍りついたようになっていた。しかし、口元だけは違った。アヤは歯を食いしばり、唇を横一文字にさせていた。箸は揃えたまま右手の中にナイフのように握られて、天井を向いていた。


「なに、どうしたの」里子は慌てた。


「・・・ぱい」絞り出すようにアヤの口から単語が溢れた。


「なに?」


「おっ、おっ。おっ、ぱい。おっ・・ぱい」


「えっ」


「おっぱい、おっぱい、おっぱいぃ」


 アヤは、堰を切ったように声をあげた。口からは、噛み砕かれたクリームコロッケが、ポロポロと溢れ出した。透き通った大粒の雫が、目尻に溜まっていく。すぐに限界まで満ちると、目と下まつげと境を越え、頬を伝い、小川のせせらぎの様に流れ始めた。


 里子は慌てて席を立ち、アヤの傍に急いだ。その間も「おっぱい、おっぱい」と、赤ちゃんがせがむ様に、アヤはコロッケを溢しながら繰り返し繰り返し、ドンドンと声を大きくしていった。


 里子は、アヤを両腕でしっかり抱きかかえ、包み込むように、アヤに体を寄せた。アヤも、それに呼応して、里子にしっかりとしがみつき、「おぅ、おぅ」と、声を上げて泣き出した。アヤの持つ箸が、里子の左腕に食い込む。「イタッ」しかし、里子がアヤを離すことはなかった。むしろもっと腕に力を込めて、アヤの小さな小さな嗚咽に応えた。


「アヤ、大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ・・・」

 

 里子の声が静かにアヤの背中に降り注いだ。アヤは、声を出すのをやめ、箸をパッと手放すと、またしっかりと里子に抱きついた。パラパラと乾いた床板に落ちる音が響いた。


 里子に、アヤの小さな体から湧き上がった、緩やかな熱が伝わってきた。


 二人のそばで口パクをしていたニュース番組は、お天気情報のコーナーに変わっていた。クリーム色のふわりとしたフリルが胸元についたブラウスに、黄色のタイトめなスカートを履いたお天気お姉さんが、「明日は梅雨には珍しく、穏やかに晴れます。貴重な晴れ間になるでしょうと」にこやかな笑顔で、口をパクパクさせて伝えていた。


                     おわり

    


    

    

    

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お迎えの時 まーさまーさ @okawa_m

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