風速8メートル

「出た?」

「まだ! ただいま時速21キロ!」

 自転車の後輪に跨った香夏子は右手を修一の腰に回したまま、左手に握りしめたスマホを鼻先に突き出した。明るい画面に目が眩んだ。



 *   *   *   *   *



「あさって晴れるかな?」

 香夏子がそのセリフを口にするのは、今日だけで三回目だった。ちなみに、昨日は五回言った。

「予報だと快晴だから大丈夫だよ」

 修一がそのセリフを口にするのは、昨日からあわせて八回目だ。


 香夏子は昔から花火大会が好きだった。高校生になった今でもだ。曰く、様々な条件が揃って初めて打ち上げられ、数秒で消える。まさに、これこそが芸術だと。


「花火大会って晴れればいいってものじゃないのよ?」

 いつもはそこで「楽しみだなー」と言って終わる会話が違う展開を見せたので、修一は思わずテレビ画面から目を外した。

「と、言うと?」

「風よ、かぜ」

「風?」

 香夏子が言うには、条例で風速8メートルを超えると花火大会は開催できないらしかった。

「風速8メートルってどのくらい?」と修一が尋ねる。

「秒速だから、一秒間で8メートル進む速さ」

「……速いね」

 修一は秒速8メートルと思われるスピードで視線を左から右に滑らせてから言った。


 香夏子はそこで何の前触れもなく立ち上がると、リビングの窓を大きく開け放った。片田舎の宵を満たす虫の声が流れ込んだ。

「エアコン付けてるんだから開けないでよ」

 修一の声は聞こえているはずだが、香夏子は微動だにしなかった。やがて諦めたように窓を閉めると「風はないわ」と言った。

「え?」

「無風。いまは何メートルくらいかなと思ったんだけど」

 その言葉を聞いた修一がハッとしたような表情を浮かべると、天井を見上げながらぶつぶつ呟き始めた。

8×3=24ハチサンニジュウシ8×6=48ハチロクシジュウハチ……」

「どうしたの?」

「28.8だ! 時速28.8キロ」

「え?」

「たぶん自転車なら出せる。やってみよう」



 *   *   *   *   *



「どう!?」

「19キロ……ちょっと落ちてるわよ」

「くそっ」

 修一が肩で息をしながら必死にペダルを漕ぐ。が、時速28.8キロにはなかなか達しなかった。

「ねぇ、修。この先って」

 修一が足を止める。タイヤは惰性で回り続ける。

「ちくしょう……自力で出したかったんだけど」

 ほどなく、まっすぐに伸びていた道が視界から消える。自転車が前のめりに傾く。修一の足は止まったままだったが、自転車は徐々に加速を始める。長い下り坂だった。

「23キロ……25……27、28!」

「どう!?」

 修一がブレーキを軽く握り、スピードを調整する。正面から吹きつける風が、ゴオゴオと耳元で音を立てた。修一の腰を抱えていた手が離れる。

「気持ちいいー!」

 香夏子が両手を上げて叫んだ。




 坂道を下ったら上らないと元居た場所には戻れないわけで、修一はハンドルを握った腕を伸ばし、地面を見つめながら必死に自転車を押した。

「姉ちゃん、ちょっと……後ろ……押してる?」

 息も絶え絶えに香夏子に尋ねる。

「押してるわよ」

 ほとんど手を添えているだけの香夏子が言う。

「意味……あったのかな?」

「修がやろうって言ったんじゃない。風速8メートルがかなり強風だってことはわかった」

「なら……よかった」


「ねぇ、修」

「なに?」

「いま、ふと思い出したんだけど、あんた幼稚園のころ自転車のことなんて呼んでたか覚えてる?」

「自転車のこと?」

 汗の滲んだ修一の背中を応援するように、虫の声が湿った空気に反響する。

「そう」

「覚えてない」

 ふふふっと、香夏子が思い出し笑いを漏らす。

「にこぐるま」

「え?」

「にこぐるま。タイヤが二個ある車だからって、そう呼んでたのよ」

「ほんとに?」

「うん。可愛らしいわよね」

「いまでも可愛いらしいだろ?」

「憎たらしいの間違いじゃなくて?」


「姉ちゃん」

「うん?」

「花火大会、誰と行くんだよ? 彼氏?」

「な、なによ。誰だっていいじゃない。ほら、あと少しよ」

 そう言うと、香夏子は自転車の後ろをぐいっと力強く押した。



 眩しい月が兄妹の会話にやさしく耳を傾けていた。


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にこぐるま Nico @Nicolulu

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