桃と暢気と不器用

「あぁ、いまから一緒に戻る」

 父は歩きながらそれだけ言うと、携帯電話を上着の内ポケットにしまった。まるで私がいないみたいに黙って前を向いたまま。


 夏の余韻を残す風が、二人の間をやさしく吹き抜けた。



 病院はいつもの平静を取り戻していた。父がエレベーターのボタンを押す。じきにドアが開き、何人かの患者の後ろから顔なじみの看護師が降りてきた。私の顔を見て厳しい表情を浮かべる。

「あんまり心配させないで」

 そう言って肩口を小突いた。目元のしわが濃くなった。

「ごめんなさい」


 病室に入ると、甘い香りが鼻をくすぐった。ベッドの脇でナイフを握る母の姿があった。

「おかえりなさい。桃、食べる?」

「なにを暢気な」と父が鼻で笑った。

「あら、そう? 岡山からもらったのよ」

 岡山から、というのは姉の旦那の実家だった。

「もう時期は過ぎてるだろ?」

「そう思うんだけど、晩生なのかしらね」

「……食べる」


 しばらくの間、母が桃を切る音だけが規則的に無機質な病室に響いた。「お昼までには戻ります」と書いたメモだけを残して病院から抜け出した私を頭ごなしに咎める人は、この部屋の中にはいなかった。


「それで?」

「え?」

「誰と一緒にいたの?」

 母がいたずらっぽい口調で尋ねた。

「……友だち」

 小声で答えた私のほうをちらりと見やってから、横にいる目撃者に視線を投げかける。

「さぁな」

 父がぶっきらぼうに言った。ふふっという笑い声が聞こえる。

「恋っていいわね」


 それから三人で無言で桃をつついた。時間の狭間に取り残されたような穏やかなひと時だった。


「それ、なに?」

 最後の一切れを爪楊枝に刺したところで、病院に来る道すがらずっと気になっていたことを父に尋ねた。握りしめていた紙袋は、いまは父の足元に置かれていた。

「あ? あぁ、これか。なんでもない。ちょっと便所行ってくる」

 そう言い残して父は席を立った。

「なんでもないことないじゃない?」

 父が出て行ったのを見計らって、母が紙袋を拾い上げる。中から細長い箱を取り出した。

「どれどれ……まぁ」

 表情が緩む。

「なんなの?」

 不思議そうに見つめる私に向かって、母は箱に貼られたラベルを見せた。品名、白桃ロール。おそらく母に先を越され、出しそびれたのだろう。

「あの人、筋金入りの不器用なんだから」



 静かに足元に置いた紙袋と私が抜け出したことについて何も言わない不器用なやさしさに、私は心の中で感謝した。


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