信号待ち

山後武史

信号待ち

 日本文学の講義を受け終えた俺は、構内の食堂に昼飯を食いに来ていた。カウンター席で日替わり定食を食べていると、隣に洋二がかつ丼を載せたトレイと一緒に座ってきた。

「なあ、信号は青に変わっているのに横断歩道を渡らない理由は何だと思う?」

 洋二が俺に問う。太い眉の上に出来た大きなニキビが目立っていた。まったく意味のわからない俺は、とりあえず聞き返した。

「信号が青でも渡らない……?何かの授業での話か?」

「違う、そうじゃない。ぼくがまともに出席しているわけがないだろう」

 自慢げにバカなことをいう男だが、講義にほとんど出ていないということに関しては嘘ではないことを俺は知っていた。古本屋のアルバイトが楽しくて、大学に来ている暇がないというのが本人の言だ。


「わかったよ、もう少し詳しく話せ、洋二」

「ああ、うん。バイトで店番をしていて特に忙しくない時は、レジで座って買い取った本を読んだりネットショップの方に注文が来ていないかとパソコンをチェックしたりしているんだけどさ」

「そりゃ楽そうだな。時給はいくら?」

「万引き犯と戦ったりクレーマーをなだめたり、楽なだけじゃない。それでいて 時給はけっこう安いんだ」

「万引き犯か。迷惑な話だ」

「近くに小学校もあるから、万引きしやすいなんて噂でも流れて、そこの子供たちが面白半分でやってみる、なんてことも起きたら大変なんだよ」

「確かに」

「商売が商売だから、一つの万引きが大ダメージに繋がる、って話の腰を折らない でよ。今はこの話がしたいんじゃないんだ」

 洋二の顔を見ると軽く睨まれていた。よほどこの話をしたかったらしい。俺は謝罪の意味も込めて、手のひらを上にして差し出し、話の先を促した。


「どこまで話したっけ。そう、忙しくない時はレジで座ってるってとこまでだった。その座った位置からは店先の道路がよく見えるんだけど、ちょうど横断歩道が見えるんだ」

「ふうん」

 洋二の口から横断歩道が出てきた。ここからが先ほどの質問に繋がっていくのだろう。洋二の顔を見ると、小鼻が膨らんでいた。

「そこで毎日決まった時間に、おじいさんが向こうからやってくる。で、信号が青でも赤でも横断歩道の手前でじっと立ち止まってるんだ」

「立ち止まって何かしてるのか?」

「それがよくわからないんだ。通る車を見ているだけと思うんだけど。あ、ちなみに決まった時間というのは、大体10時過ぎくらい。しかも雨の日でも風の日でも来る。多分、毎日じゃないかな」

「それで、どれくらい立ったままなんだ」

 洋二は顎に手をやって、やや上方をにらんだ。

「大体、15分くらいかな。時間を計ったことはないんだけど」

 俺は洋二の話を聞いて気になったことを尋ねてみる。

「渡らないのか、渡れないのか、どっちなんだ?」

「その時間じゃなければ、おじいさんは渡れるんだよ」

「どういうことだ?」

「うちの古本屋の近くに小学校があるって、さっき言ったけど、その小学校へ行く通学路なんだよ、その横断歩道って」

「それで?」

 俺は定食の味噌汁をすすりながら聞いた。洋二はまだ一口もかつ丼に手を付けておらず、ニキビをいじりながら話し続ける。

「たまにバイトでそれぐらいの時間に出ることがあるんだけど、横断歩道に明るめのグリーンのベストを着たお年寄りが立ってるんだ」

 小学生の頃、信号がある道路などに立っている大人たちがいたことを俺は思い出した。確か、通学路で事故などのないよう子供たちを見守っていて、そのほとんどがボランティアの老人たちだった覚えがあった。

「その人が、さっきから言っている爺さんってことか?」

「そうそう。で、信号が青になったら待っていた子供たちを先導して一緒に渡っていくんだよ」

「なんだ、しっかり渡ってるな」

 そう言った俺の顔を見て黙って洋二はうなずき、ようやくかつ丼に箸をつけ始めた。俺は最後に残しておいた漬物を齧った。

 不思議な話ではある。信号が青になっても渡らず、じっと立っている老人の目的とは何だろうか。しかも、渡れないのではなく、渡らないらしい。恐らく徘徊しているというわけでもないのだろう。

「そのおじいさんのことをバイト先の人とかは知らないのか?」

 かつ丼を勢いよく口に運んでいた洋二は、口の中のものを水で流し込んだ。

「店長は今の店を開く前は遠いところにいた人だから、そのあたりの土地のことはあまり詳しくないかも。聞いたことはないから聞いてみるけど。まだあの店は開いて1年くらいだから。ぼく自身も隣近所の店の人と交流することもないしね」

 洋二は最後のとんかつの欠片を白飯と一緒に口に放り込んだ。腕時計を見ると、そろそろ昼休みの時間も終わろうとしていた。

「洋二、面白い話だった。そろそろ次の教室へ行かないと」

 俺はトレイを持って立ち上がった。洋二も続く。

「何やってるんだろう、あのおじいさん」

 背後で洋二が小さく呟いた声が、俺の耳まで届いた。

 俺は次の言語学の講義に出るため、教室へ向かおうとしたところで、洋二に今日のスケジュールを尋ねた。

「えっ、今から中国語だよ。去年落としちゃってもう落とせない。さすがにもう 一回新入生と同じ教室は辛いから」

 洋二としては殊勝な心掛けだった。そして俺たちはそこで別れた。


 雨が静かに降る次の日、俺は午前に入れていた講義を自主休講し、噂の横断歩道へと向かった。俺は洋二から聞いた昨日の話が午後の授業中からも気になってきてとにかく本当にそんな老人がいるのかどうかだけでも、天気が悪いのにも関わらず確認せずにはいられなくなった。はっきり言って信じてはいないのだが。洋二の話では、このあたりにその老人がやって来て立っているらしい。時間を確認すると、9時半といったところ。老人の登場を待つには、少し早すぎたかもしれなかった。赤信号だったので、歩道から周囲を見渡すと向こう側に洋二が働いているという古本屋が見えた。そこから少し視線を右に移していくと住宅街の間を真っすぐ抜ける道があり、その突き当たりに小学校の門が見えた。信号は長く、交通量も多い。大型トラックなどもスピードを出して通り過ぎていく。通学や通勤の時間を過ぎていたからなのか、人通りも少なかった。

 まだ少し時間があったので、横断歩道を渡って古本屋を店の外からのぞいてみた。もう開店していたが、洋二は休みのようで、レジには眠そうな顔をした中年の男が座っていた。この男が店長なのだろうか。俺は時間を潰すため古本屋へ入った。


 店内をざっと物色し文庫本を数冊買ったところで、時間を確認すると、10時5分。ちょうど良い頃合いだろうか。店先に出て、道路の向こうへ目を向けた。雨は止んでいた。


 果たして、彼は来ていた。いや、来ていると言った方が正しいだろう。向こう側の歩道を、店先にいる俺から見て右手からゆっくりとした足取りで歩いてくる老人の姿が見えたのだ。白い帽子を被り、茶色のポロシャツに上からジャケットを羽織って、ベージュのスラックスを身に着けていた。洋二にその老人の服装や顔の特徴などを聞かなかったことを今さら後悔した。思わず右手で顔をなでると、生ぬるい手汗が顔に付き、やけに気持ち悪かった。俺は、ジーパンの太もものあたりで乱暴に手を拭った。

 老人が歩いてきたというだけで、噂の本人であるという確証はまだない。どうやって確かめればいいのか。簡単な話だ。信号が変わるのを待ち、変わっても渡らなければ、彼こそが洋二の話していた老人が本当にいたと考えていいだろう。老人は横断歩道の前へ来て、立ち止まる。俺も古本屋の前から動き、老人の反対側に立った。多種多様の車が通り過ぎていき、老人の姿が切れ切れに見えた。いつの間にか老人が煙のように消えてしまうような、起こるはずのない不安を抱えて信号が変わるのを待った。

 そして、信号が青になった。俺はスマートフォンに夢中で信号が変わったことに気付かないふりをして立ったままでいたが、老人も歩き出さなかった。彼が、洋二の話に出てきた老人ということだろうか。俺は、彼の方を何気なく観察しながら、歩き出す。少しづつ距離が縮んでいくが、特に変わった様子は見られない。相変わらず立ち尽くしているという点を除けば、だが。俺が横を通り過ぎる時でも、じっと黙ったまま立っているだけだった。

 俺は足を止めず進む。横断歩道を渡らない老人は存在した。理由はわからない。信号待ちをしている老人は通り過ぎる車に目をやっているように見えたが……。今度洋二に会った時、今日のことを話してやろう。とりあえず午後からの授業に出るために大学へ向かわなければ、と考えて駅の方へ向かう角を曲がった。曲がったのだが、ここでふと一つのことに気付いた。傘を古本屋に忘れていた。


 すぐさま踵を返し、古本屋への道を急いだ。前を見ると例の老人が信号待ちをしていた。俺が横断歩道の前へ到着した時、信号は赤で老人の隣に並んで立った。通り過ぎる車は相変わらず多い。古本屋の方を見ると店先に置かれた傘立てに見慣れた傘がぽつんと一つ置かれたままだった。盗み見るように老人の方を窺ってみると、何か呟いている様子だった。

「15、違う。59、違う。8、違う。違う、違う、違う違う違う……」

 煮えた釜の底から鳴っている音のような低く一定の調子で数字と「違う」を繰り返す声が聞こえてきた。ちょっと理解出来ない状況に嫌な汗が背中を伝う。周りを見回しても誰もいない。声の主が老人であることは間違いないようだ。信号が一刻でも早く変わることを祈るばかりだった。

 やがて自動車用の信号が黄色に変わり、もうすぐ老人のそばから解放されることにほっとし、俺は思わず老人の方をちらりと見てみた。


「ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう」

 老人は虚ろに湿った瞳でこちらをじっと見て、そうつぶやき続けていた。


「悪い、嘘だと思ってたけど本当だったんだな」

「嘘は言ってないよ。本当に確かめに行くところは英輔らしいけど」

 手を合わせて謝るポーズを取る俺に向かって、洋二は苦笑いのような表情で答えた。

 俺が老人の視線から逃げるように去ってから1週間が経っていた。4限目の講義が終わって帰ろうとした時に偶然出会った洋二を誘い、駅前の居酒屋へと2人でやってきていた。まだ開店したばかりで客は少なく静かだった。雑談する店員の声も届いてくる。

 俺たちは適当に好きな酒やつまみを注文してつついていたが、話題はさっそく老人の件になった。

「そういえばバイト先の人に聞いてみるとか言ってたけど、何か聞けたか?」

 そう聞くと、洋二は少し顔を曇らせた。

「何かわかったのか?」

 俺は続けて尋ねた。洋二は自分のジョッキを空けて、テーブルの呼び出しボタンを押しながら話し始めた。

「店長に聞いたら知ってたよ」

 驚いて、ついテーブルの上に身を乗り出してしまった。

「知ってたのか?詳しいことも?」

「うん。店長も最近知ったって話だったかな。まああの辺りに住んでいる人には有名な話らしいけど」

 洋二はそこで話すのを止めてメニューに手を伸ばした。店員が注文を取りにやってきたからだ。洋二は同じ酒と刺身の盛り合わせを頼んでいた。店員が去って、すかさず話の続きを促す。

「それで?」

「あのおじいさんには孫娘がいたんだけど、去年の夏休み目前ってところで轢き逃げに遭って亡くなったらしい」

 適当な相槌を打つことも出来ず、生唾を飲み込んでいた。洋二は続ける。

「わかってると思うけど、事故現場はあの道路」

 それから、ぽつぽつと洋二は語り始めた。


 事故に遭った少女は両親そして祖父と4人で暮らしていた。まだ1年生だった。両親は共働きで朝も早く、少女の面倒は祖父が必然的に見ることとなっていた。祖父は少女を溺愛していた。朝は必ず学校のそばまで送り、信号が青になってこちらに手を振りつつ駆け出していく少女の背中を微笑んで見送っていた。放課後の時間になると、笑顔で手を振りながらこちらへ駆けてくる少女の姿を見るため、少し早めに行って、朝に別れる歩道で待っていた。帰り道は今日学校で勉強したことや楽しかったことを聞くのが祖父の楽しみだった。

 ある日、祖父は体調を崩し、少女は初めて一人で登校することになった。最初は渋っていた少女だったが、祖父の粘り強い説得で決意を固めた。時刻はすでに9時を大きく過ぎていた。隣に祖父はおらず通行人の少ない通学路が少女にはどう見えたのか答えはもう知ることはできない。

 せめて放課後は迎えに行ってやりたかった祖父は大人しく横になり、体調の回復に努めていた時、少女が事故に遭ったという連絡を受けて家を飛び出した。祖父が少女のもとに駆け付けると、少女は朦朧とした意識の中、口元に耳を近づけて懸命に聞き取ろうとする祖父に一言、二言何かを呟いた。そして少女の一生は幕を閉じた。不運なことに目撃者はいなかった。それ以来、祖父は横断歩道の前に姿を現すようになった。


 語り終えた洋二は黙って枝豆をむしむしやり始めた。俺は今の話を反芻して、あの時の老人の行動の意味を考えていた。

「こういうわけで、あまり楽しい話でもないんだ」

 少しの沈黙の後、洋二は話しかけてくる。俺は洋二の顔を見たが返事を返さなかった。

「まあ、何も言えなくなるよな……。僕も初めはそんな感じだったよ」

 俺はまとまりつつある考えを話し始めることにした。

「洋二、俺はあの爺さんの横に立って信号を待ってたんだ」

 うっかり傘を忘れたことがきっかけだったことは伏せておく。

「うん、それで?」

「爺さん、信号待ちをしている時はぶつぶつ何かの数字と、ちがうちがう、って呟いてたんだ」

「数字と……?」

「そう、数字と“ちがう”という言葉だけを繰り返していた」

「どういう意味なんだろう」

 俺は思い切って言ってみる。

「その数字は走っている車のナンバープレートを指すと思う」

「ナンバープレート? でもあれは2つの数字がセットじゃん。おじいさんは1つの数字しか言ってなかったんだろ」

 洋二は最後のからあげを自分の皿に移しながら言った。

「その通り。でも、数字を1つにする方法はあるだろ」

 洋二はにきびをいじり始めた。洋二の何かを考える時の癖だ。俺はグラスを傾けて洋二の答えを待つ。やがて洋二は答えを出した。

「まさか、引き算ってこと?」

 俺は口角を上げて洋二を見る。ナンバープレートの数字の並びは、2種類の数字とその間に横たわる一本の線。見方によっては引き算だ。

「そう思う。それから、なぜ引き算をしていたか。俺の考えでは、爺さんと少女はいつも一緒に登下校していて、まだ1年生だったっていうし行き帰りの途中で算数の話も出てくるだろう。通り過ぎる車を見て、計算する遊びを2人でしていたんじゃないか」

 洋二は、驚いたような呆けたような、変な表情をしていた。

「仮に引き算をしていたとして、それが何だっていうのさ。孫娘を失った心の穴を埋めるためにやってるとか?」

「それもあるかもしれない。ただ少女は亡くなる前に爺さんに何か言ったんだろ。きっとその時、自分を轢いて逃げてった車のナンバープレートの式の答えを、最後の力を振り絞って伝えた。そして、あの事故現場で、爺さんがその答えに合う車を探し続けてるんだ」

 2人の間に沈黙が下りる。腕時計に目を落とすと、19時ごろ。居酒屋にも客が入り始め、周りが騒がしくなっていた。洋二は重々しくため息をついた。

「その想像が本当であればいいと僕は思う。おじいさんの日々が平穏に戻る日を祈るよ」

 洋二のあまりに真剣な声に俺は少し怯む。

「いや、こんなの思いつきを話しただけだからな」

「そうだとしても、女の子が亡くなって犯人は逃走している。事実としておじいさんは毎日あそこにやってくる。僕が過ごす日常の中に、悲しみに暮れる人が少しでも報われる可能性のあるストーリーがあるのなら、それを信じたい」

 洋二は照れ笑いのような表情でこちらを見ていた。洋二の変な雰囲気が伝染したのか、俺も妙な恥ずかしさに全身がむず痒くなる。それを振り払うように俺はグラスに残った酒を一気に干した。

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