第伍話〈百鬼の椿〉

律すれば恋い願ふ


 西洋式の扉は訪ねる時に拳の裏で三回、叩くのが礼儀らしい。ならってコンコンコン、と三回。扉の向こうに気配はあれど、返事は返ってこなかった。


 ――空白に思う。果たして訪ねて、では何をしようとしていたのだろう。


「……あわわっ」


 途端に恥ずかしくなってしまい、扉に背を向ける。報告することなど何もなくて、手ぶらのままに来てしまい、それが叶えばそれで良かったのだ、とこの段になって自分の浅ましさに死にたくなる。これはもののたとえで、死などはとても選べない。選んでは、いけない。ああだめだ、考えがぐるぐると回っている――


 胸に手を当て深呼吸。一回、二回。いつもの動作。三回もすれば落ち着きを取り戻せる。


(構わん、入ってよいぞ。)


「――!?」


 その三回目は、息を吸い込んで止まってしまった。誰何すいかも無しに許可される入室。振り返り、隔てる扉を見つめてしまう。この取っ手は、たしかと言っただろうか。


 止まった息を吐き出し、意を決して扉を開ける。


 榎坂えのざか区、花霞かすみ邸。現在わたしたちの本拠地であり、多くの花守たちが暮らしている場所。その一室。西洋仕立てのこの部屋の扉を自分で開けるのは……思い返せば、初めてだった。


「……失礼します」


 冷たい空気がするりと、開いた扉から逃げ出して行く。


 果たして、訪ねた部屋には主の姿はなく。開け放たれた窓、冬の夜風が窓布かーてんを揺らしていた。


「……椿つばきさま?」


 居ると当たり前に考えていた百鬼なきり椿の姿はない。


 見回せど決して広くなどない部屋だ、隠れん坊などするお方でもない。


 壁に掛かった隊服の上着と外套インバネス珈琲こーひーと、いつも嗜んでいる紙巻煙草たばこの残り香が、確かに少し前まで此処に居た、と思わせる。


 狐につままれた気分で無作法にもきょろきょろとしていると、再び声がかけられた。――気づくのが遅すぎる。入室を許可した声は、椿さまのそれではなかったということに。


当世とうぜなら外しておるよ、りつ殿。)


 あれは時折、独りになりたがるから、と。


 ……声は頭に直接。隊服と同じく部屋の壁に佇む、椿さまがいつもいている二本の内の一本。


そそぎさま……! これは失礼を致しました」


 思わずひれ伏し頭を下げる。刀霊〈雪〉。百鬼家当主、椿の愛刀。そうでなくとも普段から耳にしないそのの神気。他意も稚気ちきも感じさせないのに、どうしてか――そのに、似ている、と共通点を見つけてしまう。


(……おもてを上げられよ、律殿。畳ならまだしも、板張りの床など膝を痛めようぞ。)


「は、はい……」


 けれど正座から立ち上がることも、かと言って足を崩すことも何故だかできない。


 微妙な空気が場に流れる。ややあって、雪さまは諭すようなやわらかさで、再び口を開いた。


(先も言ったが当世は外している。用向きなら後で伝えるが。)


「い、いえ。その、申し訳ありません……これといった用があったわけでは、」


 ないのです。


 呼吸三つ分の間。


(……お主も苦労をするなぁ。あれは決して鈍くなどは無いが、乙女の懸想けそうを、やがて消え入る金木犀きんもくせいの香り程度とあなどっている節があるのは否めまい。)


「――――っ」


 けそう、と胸の内を明確に口に出されて顔を覆ってしまう。熱い。


甲斐性かいしょう無しのあるじに代わり、非礼を詫びよう。ついては少々話してやろう。当世は己のことも、百鬼の何たるかもまだ、お主にさして教えてもないのだろう? 律。)


「は、はい。……それは、はい。わたしも多くを、聞きはしませんでしたので」


 百鬼律。それが今のわたしの名前だ。上から数えて、二番目に大事なもの。


 桜路町おうじちょう奪還の直前、わたしは旧家――といってもそこでも養子だったが――の九瀬くぜ家から椿さまの手で百鬼へと迎え入れられた。理由は今でもはっきりと実感できない。あの方はただ、『気に食わないからだ』と言っていた。


 あれから二月あまり。日々の巡回や霊魔の討伐を一緒にしながら、けれど彼の多くを未だ、知らない。


 それは渡りに舟のように魅力的で、同時に当事者のいないまま聞くのは後ろめたい提案だった。


(なに、気に病むこともあるまいて。当世とうせいの椿の怠慢だ、寧ろ我が後であれに詫びを貰う程度にはな。)


 といっても、鼻で笑って終わらすだろうが、と。


「そ、それでは……お願いいたします」


 結局。わたしはその魅力に抗えなかった。


(少し長くなる。飲み物でも持ってくるが良いて……お主の分だけで構わんぞ?)


 どうしてか、刀に憑いた神霊でありながら、その主である椿さまよりも余程……ひとのあたたかさ、というものを感じさせた。


「はい。……では、一旦失礼致します」


 立ち上がり、開けたばかりの扉をまた開け、廊下に出る。


 /


 考える事は多かったはずなのに、何一つ思い浮かばないまま。気付けば忠告を無視して、急須きゅうすと二人分の湯飲みを盆に載せて戻ったわたしに、雪さまは苦笑した――気がした。


(楽にせよ。どこに座っても当世は気にしなかろう……床はやめるように。)


 先に釘を刺され、やはり部屋を見回し……洋寝具べっどなどどうしても選べないので、椅子に座ることになった。


(そうさな――では、)


 神気の高まりを感じる。瞬きの後、


『……先ずは、ナキリのあらましから始めよう』


 この部屋は広くない、と改めて思う。


 おおきなおおきなおおかみが、少し窮屈そうに顕現していた。


 その、ヒトと比べて大きすぎる頭に、髪飾りのようにヒト用の狐面を着けている――これが、雪さま。


「あ、あの……そういえば、椿さまは何処へ?」


 答えは下方。


『……屋根の上。つばきは空を見るのが、好きだから』


 そんな雪さまに背を預け床に座る、精緻せいちでうつくしい人形のような、童女の霊。


「……薄氷うすらいさま?」


 童女――薄氷さまはこくり、と頷いた。


 ……だから窓が開いたままだったのか、と。早くもうつつから逃げ出しがちなわたしの頭は、そんなことを胡乱うろんに思ったのだった。

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