望我-山郷決戦終結-


 朝陽は昇った。既に蔓延はびこって良い場所ではなく、天照アマテラスの神気は再び霊魔どもを〈幽世〉へと押し戻そうと、師走の冷たい光で此処ここ山郷さんごうの地を白く染め上げる。


 瓦解する亡者の津波。黒灰と瘴気が綯交ないまぜになった粉が冬の風に舞う。


 消え逝くことを拒んだ霊魔たちは、蓮の葉の上で重なり合う水玉のように互いを喰らい合い、を増すことでその存在を残していた。


 結果として強力な個体がいくつか残り――それを、


「椿! 僕に任せろッ! 君は、君が彼女を倒すんだッ!」


 朝霞あさか神鷹じんようが一手に引き受け、その背の向こう側には、


「つーさん、つーさん! つーさん! つーさん!!」


 貌を覆った手の、指の隙間から激情を燈した瞳を覗かせる山郷初雨うめの姿。それに相対する百鬼なきり椿つばき


「……〈そそぎ〉。神鷹は」


(ふん。決意が事実を凌駕しておる。)


 それは、つまり。


(見誤るなよ、当世とうぜ。)


「解っている」


 この場にいて為すことを。


 百鬼椿は間違わない――間違えることが


 動かない左腕。右手に大刀、口に脇差。


 温度の無い瞳は、たおすべきの挙動を、我執がしゅう無き昆虫のように測っている。


 それが、


「つーさん、ねぇ! あーしを! あーしをよッッ!」


 どうしてこんなにも、堕ちた血液を沸騰させるのか。破綻した山郷初雨には理解できない。


 ぐらり、と椿の体が倒れるように揺れる――瞬間、その姿が掻き消えた。


「ひ、あッ!?」


 一息で間合いを食い尽くされる。百鬼家への揶揄やゆではなく真性のヒトでなくなった本能が全身に怖気を走らせ、半ば自動的に〈周防様すおうさま〉を振らせる。


 咬み合う刃金はがねと刃金。下がった状態から飛び上がった〈雪〉の切っ先は、防がなければ首を跳ねていた。由来不明の胸の高鳴りが、次には怒りとなって血流を時速三〇〇キロで巡らせる。


 背から伸びたこの、ヒトならざる六腕は激情で稼動する。


 届きたい。奪いたい。優しく触れて欲しい。逃がしたくない。抱きしめて。わたしのものになって。許せない。


 放たれ伸びる腕は、突き刺す白帯のように椿へ向かう。大刀の圧が増したと認識した瞬間、初雨は信じられないものを見た。


 空中で風車のように廻り、腕をかわしながら、銜えた脇差で通り過ぎざまに白腕を切断される痛み。喉笛に咬み付き、捻り切る狼の狩りを幻視する。


「つーさん! ねえ、どうして!? 痛い事しないでよ!」


 着地。懇願のように叩きつけられる〈周防様〉と白腕のつい。左腕を除いた三肢で土を踏みしめる椿の姿はいよいよ獣じみて、その叫びに意味を求めない。超下段からの踏み込み。


 ――パァン、と。花火のような気前の良い乾いた音が山郷の朝に響き渡る。


「…………え?」


 衝撃で真横を向いた初雨は、ジンジンと熱に痛む頬に生身の左手で触れた。思考に生まれる空白。視覚で得る情報を、脳が処理を行わない。


 今が命の取り合いである事も忘れて、平時のように瞳を何度も瞬かせてしまう。


 張られた? 頬を? どうやって?


 信じられない。それ以外がないと知っていながらその事実を認められない。得物を手にしていない椿の腕は。その、動かないはずの左腕を振って、初雨の頬を張ったのだ。


 そしてその意識の間隙を見逃す百鬼椿ではない。


 痛みで現実に引き戻される。解ける白腕。熱源は肩。右腕を落とされたと知ったのは、血液が零れた後だった。


「……いつまでも駄々」


 椿の震える左腕が持ち上がり、銜えた脇差の柄を掴んだ。


ねてンじゃあねェよ、ウメ公」


「は、っ……はっ、ホント、人外じゃん、つーさん」


 常人なら霊魔に堕ちる量の瘴気に侵され腕の一本。それも、この闘いの中で自由を取り戻している――これが、百鬼ひとでなしの本質。


〈夕京五家〉を筆頭とし、花守の家系が求めてまない霊力の多寡たかも、連綿と伝える剣術の秘奥さえも埒の外。


 ただ一体でも多く魔を狩る。一秒でも永く魔を討ち続ける。そのためだけに積み重ねられた。〈幽世〉へと堕ちた地で尚も闘い続ける、他家の追随を赦さない程の、。平安の世より只々管ただひたすらにそれだけを求め続けた血の為したが、そのきばを山郷初雨の首筋に当てている。


「……で?」


「はっ?」


「は? じゃねェよ。ウメ公オマエ、


 視線は揺るがない。その瞳の主は確信している。


「ナンデ、そんなコト、訊くのさ。あーしは」


莫迦ばかかオマエ。思想一ツで簡単に堕ちる程、ニンゲンってのは強度が低くない。そんなんなら霊境崩壊なんざ無くても、とっくにこの世は幽世に呑まれちまっている」


 ――どれ程その心に隙間があっても、そこに付け入る〈魔〉の存在なくしてこの『裏切り』は在り得ない。弱った身体に病が憑くのと同じで、弱い心に囁いた存在は必ず居る。


 椿は未だその仔細を知り得ないが、山郷三刀の内、次男信次しんじを唆したのは初雨であったとしても。


 この娘が『始まり』だとは、どうしても思えなかった。


 ……どの道、この出血ではもう持たない。それを待たずとも、応える応えないに関わらずこの男は自分の首を落とすだろう。


 その一貫性ブレなさ。それがどうしようも無く厭で、どうしても振り向かせてみたくなったのだ。不意を打てたのは人生でたったの一度。それでさえ腕の一本も満足に奪えなかった。


「…………ばぁーか」


 初雨は笑った。どう足掻いても振り向かせられなかった。この世を売ってまで、届かなかったことが悔しくて、嗚呼だからこそ、こんなにも夢中になれたのだ。まったくシャクだ。この男は最後の最期まで、乙女心というものを意に介しない。


 べ、と出された舌に乗った拒絶の意思。すがめた眼でそのを認めた瞬間、椿は確かに、隙を作った。


 ――今上天皇より花守たちに与えられた自決用の丸薬。決死の戦いに赴く花守が、せめて今際に苦しむことのないように、と痛みを堪えて賜らせた慈愛。


 正に命を賭けた不意打ちは、今度こそ功を成した。僅かにぶれた大刀を避け、胸に飛び込むように一歩を踏み出す。右腕はもうない。伸ばした左腕が甘えるように首に伸びる。


「――――」


 ……でも、どうしてひとは、教わりもしないのに、唇を求めてしまうのだろう。


 触れ合うまでの一寸が、永劫ほどに遠のく。


「……もー。ホント、つーさんはブレないなぁ」


 ――額が胸に触れ、力を失った腕と身体がしな垂れ落ちる。落とした首から零れた血は赤く、椿の顔と身体を染め抜いた。


薄氷うすらい〉はただの一言も発さず、己が意味を成し遂げる。




 /


「…………」


 あと、一体。既に瘴気に浸り、視界すら霞む中で己を奮い立たせる。


『任せろ』と自分で言ったのだ。それを違えては、彼より自分を裏切る結果となる。


 肺が呼吸をせずとも痛む――構うものか。


 既に動ける身体ではないが、幸運にもを屠り尽くした自分を、霊魔は赦さないとばかりに近づいてくれる。


 夜は明けた。後ろの心配などは無用だ。百鬼椿は負けないと、信じているのではない。知っている。


 疑いようのない、外傷の一切ない満身創痍。だが心は今までで一番晴れやかだった。


 止まない耳鳴りの中、明鏡に止水を得る。


 霊魔が間合いに入ったと同時に稼動する、人域を超え、人の練り上げた剣のいただき――美しい。朝陽を浴びた〈無銘むめい〉の刃は、主と同じく魂を汚されているとは思えぬ煌きで塊を二ツに断ち、返す刃が袈裟に落とす。


 椿の落ち度は、きっと其処にあった。


 朝霞神鷹の、あまりに目を奪うそのかがやきを、止めるべきだったのに止めなかった。止められなかった。


 仮初かりそめの身体を斬られ、消滅の間際に血飛沫ちしぶきの代わりに風に乗った瘴気を祓うだけの余力も残されていないと、知っていたのに。



 消え去る霊魔の姿。見れば山郷は争いの傷痕生々しくも、霊魔の姿は一匹たりとて残っていなかった。


「神鷹」


「……はは、らしくないよ椿。なんて声、出してるんだい」


 膝から崩れ落ちる。辿り着いた時にはもう猶予など無いほどに――山郷決戦の英雄の誇り高い魂は、その外殻のほぼすべてを剥がされていた。


「……無茶すンなっつったじゃねェか、この莫迦」


「そうだね、僕は、うん。君が居たから、憂いはなかったよ」


 だって、と。掠れた声で笑う。


「――君が居るから、此処でどれだけ戦っても、を召さなくて、いいだろう?」


 。その真実を、朝霞神鷹は知っている。


「だから椿、頼むよ」


「……」


 末期まで主に連れ添った〈無銘〉は、残りの刃生じんせいながらえることより、一刻でも神鷹の生を存えさせる為に自ら瘴気を喰らい、ばきりと折れた。


「……〈無銘〉……」


 友の願いと、刀霊の願い。


「……ったく、どいつもこいつも、余計な役を押し付けやがる」


 深いため息。








 椿は一切の情緒なく、朝霞神鷹の首に大刀を落とした。





 /


 かくて慶永けいえい六年最後にして最大の戦闘、〈山郷決戦〉は幽世を退けて花守たちの勝利の内に幕を閉じる。


 ――その代償と残された爪痕は、あまりに大きい。


 霊脈を堕とし、幽世にくみした者も出してしまった山郷本家主力の三刀はいずれも生きて帰ることはなく。命を落とした花守の数は、霊境崩壊以来の最多を記録した。


〈鬼神〉と並び賞されることになるのはこの日よりも後。全身を返り血で染め、死地から帰還した百鬼椿を迎える者たちは、その姿に歓喜よりも畏怖を覚え。


 彼に背負われ、同じく生還した朝霞神鷹は七日七晩目を覚まさず、そして半ばから砕けた〈無銘〉が暗喩するように、再起不能の身となった。



「百鬼様、どうして……!」


「……深山みやまの」


 事後処理も侭ならぬ状況の中で詰め寄る杏李あんりの慟哭を、椿はそのまま受け止めている。


「どうして、貴方様がご一緒だったのでしょう、なのに、朝霞様が、どうして……! 貴方様は、お強いのではなかったのですか……!」


 普段の淑やかさをかなぐり捨て、胸座むなぐらを掴んで「どうして」を繰り返す杏李を、椿は拒絶しない。


 ――守りたいモノが、きっとこの少女とは決定的に違ってしまっていた。


 朝霞杏李は朝霞神鷹の命を何よりも優先している。


 百鬼椿は、朝霞神鷹の人生を、優先させた。


 そして、あの瞬間に終わらせてくれという神鷹の願いを踏みにじって、生還させたのは、椿の我欲だろう。


 言い訳ひとつせずに非難を受け止め続ける椿に、杏李は悲痛のやり場を求めるように力を込める。椿を責めることの理不尽さは解っていて、それでも止められなくて。


「……百鬼様が、朝霞様の代わりにッ、――――!」


 力任せに開かせてしまった胸襟。そこから見えたモノが、結果として紡がれかけた最低の言葉を喉で留めた。


 決戦前。神鷹に言われた言葉を思い出す。


『杏李、この花霞かすみ邸に暮らす君の方がきっとそれに気づける。もしも、何かの拍子でも良いから椿の首にが見えたら教えてくれ』


「なきり、さま。その首、」


「深山の」


 揺れる杏李の瞳に映る椿の顔は、一度も見た事がない表情だった。


 ……諦念、或いは赦しを乞うような。苦くも儚い、朝陽に溶けてしまうような笑顔。



「神鷹のヤツには、黙っておいてくれないか」



 頼むよ、という言葉を、杏李は拒絶することができなかった。



 /〈山郷決戦〉了。

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