望我-山郷決戦終結-
朝陽は昇った。既に
瓦解する亡者の津波。黒灰と瘴気が
消え逝くことを拒んだ霊魔たちは、蓮の葉の上で重なり合う水玉のように互いを喰らい合い、濃度を増すことでその存在を残していた。
結果として強力な個体がいくつか残り――それを、
「椿! 僕に任せろッ! 君は、君が彼女を倒すんだッ!」
「つーさん、つーさん! つーさん! つーさん!!」
貌を覆った手の、指の隙間から激情を燈した瞳を覗かせる山郷
「……〈
(ふん。決意が事実を凌駕しておる。)
それは、つまり。
(見誤るなよ、
「解っている」
この場に
百鬼椿は間違わない――間違えることができない。
動かない左腕。右手に大刀、口に脇差。
温度の無い瞳は、
それが、
「つーさん、ねぇ! あーしを見て! あーしを見ないでよッッ!」
どうしてこんなにも、堕ちた血液を沸騰させるのか。破綻した山郷初雨には理解できない。
ぐらり、と椿の体が倒れるように揺れる――瞬間、その姿が掻き消えた。
「ひ、あッ!?」
一息で間合いを食い尽くされる。百鬼家への
咬み合う
背から伸びたこの、ヒトならざる六腕は激情で稼動する。
届きたい。奪いたい。優しく触れて欲しい。逃がしたくない。抱きしめて。わたしのものになって。許せない。
放たれ伸びる腕は、突き刺す白帯のように椿へ向かう。大刀の圧が増したと認識した瞬間、初雨は信じられないものを見た。
空中で風車のように廻り、腕を
「つーさん! ねえ、どうして!? 痛い事しないでよ!」
着地。懇願のように叩きつけられる〈周防様〉と白腕の
――パァン、と。花火のような気前の良い乾いた音が山郷の朝に響き渡る。
「…………え?」
衝撃で真横を向いた初雨は、ジンジンと熱に痛む頬に生身の左手で触れた。思考に生まれる空白。視覚で得る情報を、脳が処理を行わない。
今が命の取り合いである事も忘れて、平時のように瞳を何度も瞬かせてしまう。
張られた? 頬を? どうやって?
信じられない。それ以外がないと知っていながらその事実を認められない。得物を手にしていない椿の腕はひとつだけ。その、動かないはずの左腕を振って、初雨の頬を張ったのだ。
そしてその意識の間隙を見逃す百鬼椿ではない。
痛みで現実に引き戻される。解ける白腕。熱源は肩。右腕を落とされたと知ったのは、血液が零れた後だった。
「……いつまでも駄々」
椿の震える左腕が持ち上がり、銜えた脇差の柄を掴んだ。
「
「は、っ……はっ、ホント、人外じゃん、つーさん」
常人なら霊魔に堕ちる量の瘴気に侵され腕の一本。それも、この闘いの中で自由を取り戻している――これが、
〈夕京五家〉を筆頭とし、花守の家系が求めて
ただ一体でも多く魔を狩る。一秒でも永く魔を討ち続ける。そのためだけに積み重ねられた魂の強度。〈幽世〉へと堕ちた地で尚も闘い続ける、他家の追随を赦さない程の、穢れへの耐性。平安の世より
「……で?」
「はっ?」
「は? じゃねェよ。ウメ公オマエ、誰に唆された」
視線は揺るがない。その瞳の主は確信している。
「ナンデ、そんなコト、訊くのさ。あーしは」
「
――どれ程その心に隙間があっても、そこに付け入る〈魔〉の存在なくしてこの『裏切り』は在り得ない。弱った身体に病が憑くのと同じで、弱い心に囁いた存在は必ず居る。
椿は未だその仔細を知り得ないが、山郷三刀の内、次男
この娘が『始まり』だとは、どうしても思えなかった。
……どの道、この出血ではもう持たない。それを待たずとも、応える応えないに関わらずこの男は自分の首を落とすだろう。
その
「…………ばぁーか」
初雨は笑った。どう足掻いても振り向かせられなかった。この世を売ってまで、届かなかったことが悔しくて、嗚呼だからこそ、こんなにも夢中になれたのだ。まったく
べ、と出された舌に乗った拒絶の意思。
――今上天皇より花守たちに与えられた自決用の丸薬。決死の戦いに赴く花守が、せめて今際に苦しむことのないように、と痛みを堪えて賜らせた慈愛。
正に命を賭けた不意打ちは、今度こそ功を成した。僅かにぶれた大刀を避け、胸に飛び込むように一歩を踏み出す。右腕はもうない。伸ばした左腕が甘えるように首に伸びる。
「――――」
……でも、どうしてひとは、教わりもしないのに、唇を求めてしまうのだろう。
触れ合うまでの一寸が、永劫ほどに遠のく。
「……もー。ホント、つーさんはブレないなぁ」
――額が胸に触れ、力を失った腕と身体がしな垂れ落ちる。落とした首から零れた血は赤く、椿の顔と身体を染め抜いた。
〈
/
「…………」
あと、一体。既に瘴気に浸り、視界すら霞む中で己を奮い立たせる。
『任せろ』と自分で言ったのだ。それを違えては、彼より自分を裏切る結果となる。
肺が呼吸をせずとも痛む――構うものか。
既に動ける身体ではないが、幸運にも同胞を屠り尽くした自分を、霊魔は赦さないとばかりに近づいてくれる。
夜は明けた。後ろの心配などは無用だ。百鬼椿は負けないと、信じているのではない。知っている。
疑いようのない、外傷の一切ない満身創痍。だが心は今までで一番晴れやかだった。
止まない耳鳴りの中、明鏡に止水を得る。
霊魔が間合いに入ったと同時に稼動する、人域を超え、人の練り上げた剣の
椿の落ち度は、きっと其処にあった。
朝霞神鷹の、あまりに目を奪うそのかがやきを、止めるべきだったのに止めなかった。止められなかった。
消え去る霊魔の姿。見れば山郷は争いの傷痕生々しくも、霊魔の姿は一匹たりとて残っていなかった。
「神鷹」
「……はは、らしくないよ椿。なんて声、出してるんだい」
膝から崩れ落ちる。辿り着いた時にはもう猶予など無いほどに――山郷決戦の英雄の誇り高い魂は、その外殻のほぼ
「……無茶すンなっつったじゃねェか、この莫迦」
「そうだね、僕は、うん。君が居たから、憂いはなかったよ」
だって、と。掠れた声で笑う。
「――君が居るから、此処でどれだけ戦っても、陛下のお心を召さなくて、いいだろう?」
百鬼家は霊魔を輩出しない。その真実を、朝霞神鷹は知っている。
「だから椿、頼むよ」
「……」
末期まで主に連れ添った〈無銘〉は、残りの
「……〈無銘〉……」
友の願いと、刀霊の願い。
「……ったく、どいつもこいつも、余計な役を押し付けやがる」
深いため息。
椿は一切の情緒なく、朝霞神鷹の首に大刀を落とした。
/
かくて
――その代償と残された爪痕は、あまりに大きい。
霊脈を堕とし、幽世に
〈鬼神〉と並び賞されることになるのはこの日よりも後。全身を返り血で染め、死地から帰還した百鬼椿を迎える者たちは、その姿に歓喜よりも畏怖を覚え。
彼に背負われ、同じく生還した朝霞神鷹は七日七晩目を覚まさず、そして半ばから砕けた〈無銘〉が暗喩するように、再起不能の身となった。
「百鬼様、どうして……!」
「……
事後処理も侭ならぬ状況の中で詰め寄る朝霞
「どうして、貴方様がご一緒だったのでしょう、なのに、朝霞様が、どうして……! 貴方様は、お強いのではなかったのですか……!」
普段の淑やかさをかなぐり捨て、
――守りたいモノが、きっとこの少女とは決定的に違ってしまっていた。
朝霞杏李は朝霞神鷹の命を何よりも優先している。
百鬼椿は、朝霞神鷹の人生を、優先させた。
そして、あの瞬間に終わらせてくれという神鷹の願いを踏み
言い訳ひとつせずに非難を受け止め続ける椿に、杏李は悲痛のやり場を求めるように力を込める。椿を責めることの理不尽さは解っていて、それでも止められなくて。
「……百鬼様が、朝霞様の代わりにッ、――――!」
力任せに開かせてしまった胸襟。そこから見えたモノが、結果として紡がれかけた最低の言葉を喉で留めた。
決戦前。神鷹に言われた言葉を思い出す。
『杏李、この
「なきり、さま。その首、」
「深山の」
揺れる杏李の瞳に映る椿の顔は、一度も見た事がない表情だった。
……諦念、或いは赦しを乞うような。苦くも儚い、朝陽に溶けてしまうような笑顔。
「神鷹のヤツには、黙っておいてくれないか」
頼むよ、という言葉を、杏李は拒絶することができなかった。
/〈山郷決戦〉了。
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