霧ヲ祓フ


 帝都夕京ゆうきょうの地図に、何かしらの細工――どういったモノであるかは私は知らない――を施し、現在の花守たちと霊魔の分布を俯瞰できるという代物だそうだ。


 山郷さんごう桜路町おうじまちより東は、墨で塗り潰されたかのように黒く染まっている。


 こうして見下ろす度に辟易へきえきする。どうして私はこんな役目を負っているのだろう、とか。まるで蝋燭ろうそく電燈ランプを消すようにあっけなく消える光を、それが何であるか知っているクセに実感しない。


 本当なら私も刀を携えて、この光の一つになって、それで、それで。


 ふるり、と頭を振る。。私は前線に出ても役に立たない。


 花守としてそれなりに続いていた私の家の、その責務を継いでいたのは私ではない。だから私は家の事情も、父や兄がと戦っていたのかも知らずに、いち女学生として育てられ、大きな悩みといえば卒業の段になっても嫁ぎ先が見つからずにどうしよう、くらいで。


〈霊境崩壊〉という天変地異みたいな災害で、そんな悩みごとすべてを喪ってしまった私には、何をして良いかなんて解らないまま、気づけばこの花霞かすみ邸の本陣で羽瀬はぜ様――日ノ国の軍部から出向してきている本物の軍師様――の下で、軍師紛いのことをしている。いわく――


『平時にいてはどうかと思いますが、有事には必要な素質ですよ』


 それは、この実感の湧かない私のふわふわした心のことだ。


 盤上の光の数々を、命とっていながらとして処理し、その明滅に心を寄せないで、というのは。


霧原きりはら君」


「羽瀬様」


 呼ばれて顔を上げる。そしてすぐに戻す。


 ……実のところ、私は――霧原灯花とうかはこの羽瀬斎宮いつきという人物のことを好きではない。現状が切羽詰っていることは知っているし、甘えてなんていられないことも承知しているが、あまりにも人間味がないと思う。この刀を――霧原家の〈霧渡り〉を前に出しておきながら『花守として生きるのであれば返す。そうでないのなら別の者が使う日の為に召し上げる』と、家族の訃報ふほうを言い渡されたばかりの私に、選べなどしない選択肢を突き付けてきたのだから。


 家族の凡てどころか深山みやまにあった実家の何もかもを喪った私に、もはや思い出以外を持っていなかった私に、と唯一の形見を質に取りながら言ったこの人を、私はそこにどんな背景があったのであれ……どのような感情を殺しながらの言葉であったとしても、赦すことなどできないのだと、思う。


「……布陣は恙無つつがなくできています。翁寺おうじ側は数に不足がありますけれど」


「承知しています。あちらはけれど、それ以上は不要でしょう」


「はい」


 ――その名前を、私はつい最近まで知らなかった。百鬼なきり家。でもどういうわけか、その当主様は私のことを……霧原家のことを知っていたらしい。あれやこれやと、頼んでもいない私の世話をしてくれて、聞くに私がこの本陣でこうして役目に就いているのも、彼の口添えがあったかららしい。


 羽瀬様のこととは別に、百鬼様のことも少し恨んでいる。


 その所為おかげで私はこうして、情報伝達に誤りがあれば趨勢すうせいを決定してしまいかねない重責に胃を痛めているのだから。


 心遣いをしてくれるのであれば、胃薬なんてモノでなくてもいいでしょうに!


 翁寺側の戦力は山郷家に加え、その百鬼様と〈夕京五家〉の朝霞あさか様の一派で、その采配さいはいに異論は無く――また挟めるものでもなかった。事実、俯瞰する盤面は数の不利を覆すかのように、山郷と翁寺の境界線にかたまった霊魔の反応を次々と消し去っていっている。


 私の心配など、おこがましささえ覚える程に。


 ため息と共に落とした視線が小さく、けれど確かな振動と共に紅に染まったのは、次の瞬間だった。



 /



「あ――え?」


 悪寒が全身を駆け抜け、霧原灯花はぶるり、と身を震わせた。視線を落とした夕京の〈霊図〉に明確な変化が加えられている。


 山郷区の霊脈が、正常を表す白い光から血液を思わせるドス黒い赤色に変貌していた。あわせて花守たちの反応が幾つも消え去り――どころか、次の瞬間にはと同じモノへとすり替わる。


「キ ハラ クン キリ ラクン!」


 羽瀬斎宮の声を耳が拾うものの、その意味を脳が咀嚼できない。


 盤上に映るこれらは駒で。だから、心を割くようなことはなくて。


 そんな考えはだと叩き伏せるかのように活き活きと、脈動するかのように戦線が瓦解していく。


 この少女を前線から遠ざけた百鬼椿の考えは間違ってはいない。霧原家に生まれ、持って産まれた異能たるその『眼』の真価は死のちまたで霊魔をほふることよりも後方で采配を振るうことに適している。こと索敵能力であれば刀霊である〈薄氷うすらい〉をしのぎ、先の桜路町奪還戦では遺憾無くその才を発揮した。


 戦闘行為を行う花守としてはそう育てられなかった故に、刀の握り方くらいは渋々ながら教えた程度で、それもくらいのことだった。


 重ねるが百鬼椿の判断に間違いはなかった。霧原灯花の異能が、認識の上を行く代物であり――肉親と故郷の凡てを無くした空虚な心の持ち主となったうえで、けれどやはりこういったこととは無縁の生活を送ってきた、十七歳の娘であったという結末だった。


 聞こえないはずの叫喚。届かない筈の瘴気。遠い筈の出来事。その凡てを覆すほどの優れ霊的視覚が、少女の魂にキズを付ける。


「お……ぶ、ぇ……ッ!」


 ばしゃりと〈霊図〉の上に吐瀉物としゃぶつこぼし、呼吸の不全と喉を胃酸が焼く痛みで涙が滲む。けれど霞んだ視界には惨状が絵巻のような無機質さでありながら触れ合う他者の体温のように生々しく展開している。


 ざくざくと理性を削ぎ落とされる現状。無意識の逃避行動か、脳裏には脈絡無く筑前煮を作る工程が繰り広げられていく。大根も人参も牛蒡ゴボウも乱切りに。鶏の腿肉は小間にしましょう。


「あ、あ、あ、にい様、とう様」


『灯花は眼が良過ぎるからな。怖いモノが視えないように』


 そう言って、この眼鏡を渡してくれたことを思い出す。その思い出さえ、今では毒のように心をさいなんでいく。


 これが〈霊境崩壊〉のもたらした災厄だ。生き残った人々は、瘴気に当てられずともその、人類の悲哀を以って魂を剥離させていく。


 止まらない耳鳴り。変わってくれない視界の光景。もう触れられない家族の温かさ。


 このままでは気がれる――などと、他人事のように、灯花わたし灯花わたしの背を見ながら考えている。



『――――カ、おい!』


 そんな中で、聞き覚えのあまり無い、けれど、どうしてか慣れているように思える、不思議な記憶の声を聞いた。



 /


『トーカ。トーカ』


 ……私の名前を何度も呼ぶその声は、どうしてだろう。なだめるようでいて、けれど聞こえてしまうことをいやがるような声色だった。


『トーカ、しっかりしろ。心を強く持て。此処は無事だ』


 耳鳴りの中で、その声だけは何故かよく通った。


「ど……」


 今では戦場よりも、私がいるこの本陣で慌しく駆け回っているであろう人たちの方が現実味が無く、それよりもすぐ近くで私の名前を呼ぶ声の方が、ずっとずっとみたいに感じられる。


何方どなたか……いらっしゃるのですか」


 視界が赤い。赤い水で滲んでしまっている。


『トーカ……俺の声が、聞こえるのか』


 ざざざざざ、と小豆を研ぐような雑音。


「はい……聞こえます」


 どこか夢を見ているみたいに、雑音まみれの中でふわふわした心地で答える。


『そうか……すまない、


 ぱきり、と。その声の主が呼んだ名前で意識に輪郭がひとつ、できた。


「兄様……雪兄様を、知ってらっしゃるのですか」


『あぁ、あぁ。勿論もちろん知っているとも』


 俺はハルユキの刀だからな、と。声は確かな悲哀と誇らしさを孕んで聞こえる。


 雪兄様の刀。一度だけ聞いた覚えだけがあり、いま私の名前を呼び続ける声。


「では、貴方様が……」


『――刀霊、〈霧渡り〉だ』


 霧原家の刀霊。雪兄様の刀霊。、刀霊。


 どうして、私のことを心配するような声色で、そんな突き離すような言い方をするんですか。


『トーカ。俺はハルユキにお前のことを託された。だがというのは、良くない兆候だ』


「ど、どうして」


 どうしてそんなことを、仰るのですか。私は、


「私は……雪兄様のことを、知りたいのに」


 視界を滲ませる赤が桃色へと薄まる。たぶん、これは涙だろう。


『……。いつか、話せる日が来てしまうかもしれないな。だが。トーカ、よく聞け。確りしろ。お前に掛かっている』


「い、いやです……! もう、重たいのは厭……! 私の肩に誰かの命が乗っているなんて、誰かの命を奪ってしまうだなんて耐え、耐えられません……!」


 その慟哭を、誰が聞いたろうか。気配だけだけれど、周りの人達が足を止めた気がした。


『違う! いいか、。今、山郷は〈幽世〉と繋がってしまっている。通信は瘴気に阻まれ届かない。山郷の霊脈を取り戻さないとならない。伝えられるのはお前しかいないんだ、トーカ。皆を、助けてやってくれ』


 皆。皆ってなんですか。違わないじゃないですか。私に掛かっているというのは、そういうことじゃないですか。いやだ。いやです。


 みっともなく、子どものように首を振る。もう、うんざりだ。私には何もない。もう何もないのに。だからと言って荷が軽いなんてこと、ないのに。


『……すまない、やはり無理だろう、


 ざざざざざ、と雑音が入る。


『……何? そんなことで、……わかった。トーカ』


「〈霧渡り〉……貴方は、私の刀、ではないんですよね」


 姿は見えない。声だけだ。けれど、おそらくは妄想だろう。


 雪兄様の癖。私が駄々をねた時と同じように、額に手を当ててやれやれ、と嘆息する誰かの姿を幻視した。


『……ツバキから、戻ったらハルユキの事を知っている限りで教えてやる、と伝言を受けた。……俺も、』


 何かを諦めるように。意地を張るのを止めるように。ひどく優しく、今を忘れてしまうような残酷ささえ感じる声色だった。それは、


『俺も、この窮地を脱したら、お前と契約してやろう。声が届くような事態は、もう御免こうむりたいがな』


 誰かにとっては何の意味も持たない約束だろう。でも、私にとっては、この大霊災から初めて望める、だった。


「百鬼様が……雪兄様のことを、」


 そんな事、今まで一言も仰らなかったくせに。やはりあの人も、苦手だ。


 それでも。


 瞳を拭う。手の甲には、血と涙が混じったものが付いていた。


 胃液の味と匂いが鼻を通って気持ちが悪い。けれど吸い込む空気は、私の認識よりもずっと澄んでいた。


「……私に、できることであれば」


『あぁ。お前にしかできない。トーカ』


 声が薄れる。理屈はわからない。


『今、通信は阻害され、山郷が〈幽世〉に呑まれているからこそ、ツバキと俺が会話できている。だが俺の声はへは届かない』


「はい」


『だからツバキの言葉を俺が受けて、トーカへ伝える。それを、然るべき相手へ伝えてくれ』


「はい」


 知らず、私は左にいた〈霧渡り〉の柄に、手を乗せていた。


『山郷霊脈は悪しき心の持ち主の手によって奪われた。。これから言う名の花守を霊脈に向かわせろ』


「はい。……あの、」


〈霧渡り〉を通じて伝えられる名前。大丈夫だ。顔も名前も覚えがある。どうして彼らなのか、という疑問は……きっと、訊けば答えてくれるだろう。


『ツバキ、トーカが人選の理由を…………あぁ。わかった』


 そうして聞いた。また少し〈霧渡り〉の声がはっきりしたように思える。


「…………そうですか、わかりました」


 深呼吸を一回。二回。この二人の持ち場は桜路町だ。山郷霊脈へは距離があるが――それを踏まえてでの人選とするのならば効率的で、やはり百鬼様はひとでなし、と云われたりするのだろう。







「作戦本部より通達。やなぎ景千代かげちよ様、ならびに御影みかげ瑞己みずき様の両名は、至急山郷霊脈に向かわれたし。要請は百鬼椿様より、山郷霊脈を――」


 その報は霊子通信を用いて、二人の花守の耳に届いた。応答は早く、次にはこの慶永けいえいの世に在って響く





「山郷霊脈をしたのは、幽世にくみしたであると」



 その言葉に笑う事もせず、二人は遠く離れた地で「応」と頷いた。


 花守は霊魔を討つがさだめであり、〈魔〉に堕ちようと〈人〉を討つことに当たり前の忌避感を覚える。それが魂を如何に傷つける所業か、云われるまでもなく解っている。


 それを良しとはしないまでも、否ともしない血脈でなく家柄でもなく必要な、さぶらう精神性の持ち主。


 柳景千代の愛馬は、その背に主と御影瑞己を乗せ、闇へと堕ちた山郷へと人の脚では敵わぬ速度で駆け抜けた。


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