〈恋獄〉


 山郷さんごうは〈幽世〉にまれた。日の出は訪れず、空は星々はおろか月の姿さえも見えない、夜闇よやみというよりも果てなく濃い影のトバリが降りている。


 経過した時間はそのままに、人の営みという成分だけが蒸発したような町並み。師走しわすの冷たさはけれど、常には在り得ない湿り気を帯びて足元を舐め通る。


 ――こう成ってしまえば、生者の方が異物だ。ちまたに溢れた霊魔どもの姿は、幼心の暗闇に漠然と想った、と明確な答えを突き付けるようであった。


 霊魔を斬り伏せた時に起こる魂の〈穢れ〉どころではない、此処が現世うつしよではないという事実が。生物として切り離せない呼吸が空気と共に吸い込むこの世ならざる世界の瘴気が。ただ此処に在るという、それだけを咎めるかのように魂を剥離させていく。


 加えて此度こたびの敵は霊魔だけではない。ヒトでありながら〈幽世〉にくみする者。その魂が〈魔〉に染まったモノ――云うなれば〈〉が、生き残った花守を根絶やしに、或いは同類に堕さんと駆け迫る。


 戦国の世でもあるまいに、刀をく意味がかつてこの日ノ国に存在した武士とは決定的に違う花守の、その慶永けいえいに生きる人としての当たり前の精神――魔に堕ちようとという末法めいた状況が正気の磨耗に拍車をかける。


「つーうーさーん……!」


 笑みを浮かべる山郷初雨うめの瞳には確かに〈魔〉が宿っているが、彼女が従えた山郷の花守たちの瞳からは正気が失われている。獲物である百鬼なきり椿つばきを拿捕せんと――主よりも汚染が進んでいないのか、その手の刀霊たちの耳をろうする悲鳴をともなって――踊りかかる中、


ツガイ


 利き手を潰された椿の、呟きのような号令に従って百鬼の一門が迎撃する。


 当主がしたように、二人一組で一人の〈人魔〉の首を落としては路を拓く。


「――――――」


 その、あまりに血の通わない光景に声を失ったのは、果たして誰か。思わず動きの固まった初雨を尻目に、椿は後ろを振り返ってはため息を吐いた。


「……遠江とおとうみにておこったウチの一門は、寝ても醒めても魔を狩るばかりでな」


 怪異の類はもとより、ヒトの似姿さえその首を落としてきた。


「一ツであれば腕白わんぱく、十も落とせば救世刃くぜやいば、」


 本命を無視し、独白めいた言葉と共に向けた足は、動けずにいる神鷹じんよう率いる朝霞あさかの一門。


 神鷹の前には、一体の人型が立っている。造詣ぞうけいは意識しない者が見れば不恰好な直立する影、といった風情だが。この霊魔の本懐は別にある。


 それが神鷹の目に映っているか、椿には推察するまでもなかった。



 /


 違う。と神鷹の理性と本能は否定する。それでもこの瞳に映ったその姿に、どうして刃を向けられるものか。


「…………七香なのか


 目の前の少女は、最後に見た日のままの、霞草カスミソウのような奥ゆかしい微笑みで神鷹を見つめている。


 違う。七香は死んだ。死んでしまった。もうこの世にはいない。嗚呼ああけれど、嗚呼だからこそいま、この世ではなくなってしまったこの場所で、逢えたのではないか。違う。これは霊魔だ。日ノ国を脅かす敵で、七香の命を奪った原因だ。けれどたとえ幻であるのだとしても、こうしてもう一度逢えたということが、


「七香、僕は――」


 少女の像が歩み寄って来る。退く事も迎え撃つこともできずに、その場に立ったまま、伸ばされた両手がその頬に触れる刹那――


「……百も斬って落とせば、もはや人で無し。鬼と呼ぶしかなくなったのさ」


 微笑みをそのかおたたえたまま、ぽとりと落ちた。


「椿……」


百鬼おれと肩を並べるっつーのは、そういうことだ。なあ、。おれ達は別に構わンぞ」


 神気の乗った一刀に転がった頭と、首の断面から黒煙のように消えて逝く。


「此処で刃を振るえないっつーならそれでも良い。適材適所で、百鬼はこういう時の為に血を重ねてきたようなもんだからな。残りの神霊晶しんれいしょうで結界を張り直して凌いでくれりゃあそれで良い。ウチはかく、朝霞家はその後に必要だからな」


「つうさんッッ! ッッ!!」


「ッ、椿様……!」


 初雨の背から伸びた何本もの腕が、ともすれば求めるように伸び、絡み合い、一匹の大蛇の姿となって椿の背へと大口を開けて噛み付く。


「うっせぇ、ちと待ってろ」


 それを、振り向きざまに突き立てた〈薄氷うすらい〉の刃が地面に縫い付け、駄目押しとばかりに柄を洋靴ブーツの踵で踏んで封殺する。


 まな板の鰻のようにくびを打たれた大蛇が喉から下をのた打ち回らせる中、椿は神鷹を見た。


「君に……」


「ぁン?」


「君に、何が解るっていうんだ……!」


 握り締めた〈無銘むめい〉の柄が、声のように軋む。


「七香を喪った僕の、才なんて持っていない僕の何が、椿に解るんだ……!」


 ――それは、この地獄に在って初めて吐露とろされる、幼い頃より封じ続けられた青年の心の悲鳴だった。


 なんだそんなことか、と椿はため息を吐き。



 莫ッ迦じゃねェのおまえ、と心底呆れたように口にした。


 持たざる者の懊悩おうのうなど、持って産まれた者に理解できようはずもない、と。


「おまえがどれだけ七香くんを大事に想っていたかなんて、横にいただけのおれには解らんし、才無しと断じられたおまえがした苦労がどれだけのもんかも解らん。おれには慕情を抱くような女も居ねェし霊魔を狩るためにした努力っつーのも無ェからな。ただ――」


 椿はその蟲のように温度の無い眼を眩しそうに細めて、悔しさの滲む幼馴染の顔を見た。


「ただ、おまえの掌が優男やさおとこみてェな面に似合わんほどになっちまってるのは知ってるし、真っ当な剣の仕合でおれが勝てる割合がどんどん減ってきちまってるのも事実だ。何年一緒に居ると思ってンだよ」


 神鷹が顔を上げる。椿は困ったように笑っていた。


「僕は――」


 その語らいを見守るほど、霊魔たちは道理が通じる相手ではない。未だ躊躇ちゅうちょの残る朝霞の花守を突破した迫間はざまにて霊魔に堕ちた花守が、同じく魂の穢れきった刀を振り上げて飛び掛った。必要だったとはいえ右腕一本で、しかも薄氷を大蛇の封殺に使っている椿にそれを迎撃できる武装は無い。だからトバリの中に煌き、したとはいえの首を落とした銀の月は――


「……ごめんよ、椿。随分とみたいだ」


「おまえのあしが遅ェのは知ってる。いいさ、別に」


 ――朝霞神鷹の手にある、〈無銘〉の刃に他ならない。


「さて……こっちも待たせちまったな、


 薄氷を引き抜き、ずるりと戻った蛇の先――山郷初雨に椿は顔を向けた。


「そのあだ名やめてって言ったじゃん、つーさん」


 不服げに顔を歪ませる初雨はけれど、次には嬉しそうにほころんだ。


「ぶっちゃけヨユーっぽいけど、じんよーサマにかまけてて良かったの? 左腕ききてはもう使えないし、時間を使えば使うほど不利になるってわかってなァい? あっ! それともあーしの愛に応えてくれるとか!? いーなーそれ! ねっ、あーしと一緒に行こ?」


「……あァ」


 それは、肯定の頷きではない。得心がいっただけだ。


 幼き日から変わらず、自分を乗せて続くこの世界を捨てると言ったこの娘とは、と。


 その感情。たった一ツの願望で作り上げたこの恋獄れんごくを許容できるような揺らぎは、百鬼椿に存在しない。


 一門により拓かれた血路。膳立てられたその路を進む椿の耳が、断絶されたままの霊子通信から零れた声を拾った。


『……ーカ! しっかりしろ、トーカ!』


 瘴気により阻害されているはずの通信に乗る声は男のものだ。ザザザザザと走り続ける雑音の中で何故か鮮明なそれを、かつて椿は一度だけ聞いたことがあった。


「……この声、霧原きりはらの〈霧渡り〉殿か……?」


『ッ!? 俺の声が聞こえるのか――そうか、山郷が幽世と繋がったからか! 君は百鬼の、ツバキだな? ハルユキが世話になった』


「世辞も挨拶もしてる場合じゃねェだろ。それに春雪にした世話なんざ無ェよ。お前さんの声が聞こえるとかキワも良いとこじゃねェか」


〈迫間の退き口〉にて、椿たち百鬼は一人の花守を助けることはできず、一本の刀を形見として桜路に持ち帰った。


 霧原家の刀霊〈霧渡り〉はその特性上、霊力の多寡たかではなく幽世との混じり具合……即ち剥離値の高さによりその声と姿が認識できるという。つまり〈霧渡り〉の声が聞こえてしまう状況は決して喜ばしいものではなく、後の無さを突き付けられることと同義であると、かつて椿は〈霧渡り〉の主、先代霧原家当主の春雪から聞いたことがあった。


 その〈霧渡り〉は今、たったひとり生き残った霧原灯花とうかと共に在る。


「……なんとか霧原にお前さんの声が届けば、状況を覆せるンだが……」


『それはトーカには酷な事態なんだが……っと!』


 殺到する異形の列をかわし、初雨の下へと進む椿。


 光明は見えた。だがそれは垂らされた蜘蛛の糸よりも儚く、掴みどころのない霧のようなものであった。



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