無月散水
なにも地図上の境界が作用しているわけではない。順序としては逆だ。
互いの霊脈の範囲が触れ合う其処が、ヒトの世の歩みに合わせて路となり、やがて区切られただけの話。
――
その、視認できる絶望を確かに視界に収めながら、
市街地に
「一刀! 渾身!」
当主
或いは撃ち放たれた
「うひぇ」
目をまん丸と開け、苦く笑みを浮かべる娘。
「おい、ぼさっとしてンじゃねェよ山郷」
び、と刀身に付いた墨のような血を払って、
「や、だってつーさんとじんよーサマのとこだけで良くない? あーしらの昨日までの頑張りは一体……みたいな?」
肩を落として脱力感を表現する初雨が背にした家屋の窓から、にゅるりと手が伸びる。
「初雨様……!」
駆けつける山郷の花守。
「ギャア! つーさんヘルプ! ヘルプミー!」
「悪ィ、英語はさっぱりなんだ」
言いつつも椿は惜しげなく振り被った
突き刺さった窓の向こうで、ぞぶり、と瑞々しい音が響き、痙攣するように手の群れが動きを止めた。
それに合わせて護衛の花守を追い抜いた神鷹が一刀のもとに手首の
「
屋根から下りて初雨……の後ろに刺さる大刀を回収する椿の背に、英語で労いの声がかかった。
〈異人隊〉として同行している金髪碧眼の花守。椿は帽子の鍔を上げ――
「
と。
「ちょお!? 英語めっちゃわかってるじゃんつーさん!?」
「はは……うん、椿は解るよ、英語」
何しろ二つ違いとはいえ、同じ学舎で勉学に励んだ朝霞家当主の言葉だ。初雨は
「つーうーさーん……ナンデ!? なんであーしにそんな意地悪するかなあ!? ハッ。これはまさか好いた娘に意地悪あ
朝ぶりのデコピンを放ち、大刀を鞘に納めて椿は息を吐く。
「……ほんっとに伸び伸び育ってンなァ、山郷の姫は。兄貴に責務押し付けた結果か? この
山郷家当主、
中でも長男、
「まぁ、雄一郎殿が山郷を継げば安泰だろうね……今回の応援要請も、霊脈防衛に伊之助殿と雄一郎殿、
「それはつまり、あーしは前線で使い潰してもいい孫……どうしよう、初雨ちゃん病んじゃうゾ……?」
「莫ァ迦」
「あたっ」
三度目のデコピン。けれどそれは痛みを伴うほどの痛撃ではなかった。
「使い潰したくない孫だから、おれ達と組まされたンだろうが」
「あは。つーさんの自分アゲとかめっずらし。でも安心だなあーほんとなあー」
「……さあ皆。あと一刻もすれば夜が明ける。それまで頑張ろう!」
神鷹の声に応える花守たち。〈夕京五家〉の朝霞当主の一言は、戦場において何物にも勝る士気向上の効果があった。
そう。朝まで霊魔を狩り続ければ一先ずの勝利だ。如何に〈幽世〉へと堕ちた迫間の軍勢も、月に代わり昇る朝陽と山郷に満ちた霊脈の浄気を越えて進むことは侭ならない。
疲弊はある。この時勢に、それまで役割として生きてきたものの花守の本懐を遂げていた者たちの何と少ないことか。霊魔という存在を視ることでさえ本来無縁に近いほど、この国は安定していたというのに。それを斬り伏せるとあっては、たとえソレらが異形のモノであったとしても――刀で奪う、命無き者の命の重さが、べったりと心に張り付き、それを剥がす頃には健全な魂もまた、一枚一枚とその外殻を剥がされているのだ。
それを花守たちは〈剥離〉と呼ぶ。正気を保ちながら瘴気と戦う、この慶永の世に帯刀を赦された者たちの、逃れ得ぬ宿命――
誰しもが夜明けを望み、刀を振るった。
いま、この夕京ではその朝日も
東より
かくて一刻は過ぎ。
どくん、と
午前六時。真冬の十二月。秋よりもよほど遅くはあれど確かに昇るはずの太陽が――昇らない。
「これは――」
「――山郷霊脈が、奪われた……?」
昇らぬ朝日。夜の続行。否――戦端開く迫間の地と同じく、この山郷が幽世に呑まれた故の――霊魔の氾濫。
「ッ……神鷹! 〈
「各員集合! 結界形成!」
椿、神鷹、初雨の判断は舌を巻くほどに的確だった。
山郷伊之助は
それを思考から抜く椿と神鷹ではない。能がある者がやはり、この霊境崩壊の後ろに居ることはもはや確信している。それでいて尚見誤った。
押し通せぬとあらば、本戦は次の夜だと。夜明けに投入する主戦力など無為に尽きる。
だが、この一夜が続行するのであれば――
「――〈迫間〉の、」
「〈
――それはこの上なく効率的に、悲願を邪魔する花守たちを壊滅せしめる一手となろう。
靴音を響かせ向かい来る霊魔の小隊。
間一髪で展開された結界が花守たちを不浄から隔離する。
満月は、地の底に空いたただ一つの孔のようだ。この結界を一歩でも出れば、呼吸をするだけで心身を蝕まれる瘴気の園。風景は凡て影絵のように黒く塗り潰され、
その中で。
「〈
(応。)
大刀を地面に突き刺し、その霊力の展開を持って結界の強度を上げた百鬼当主と、その一門が地獄へと踏み出した。
「……神鷹、退路を拓けるか」
人の身で。この地獄を
その背中で、千の言葉よりも雄弁に応えが鳴る。
抜き放たれた〈
巫術による通信は――もう、雑音だらけで意味を成してはいない。この異常事態にとり、その異常がどれほどの規模であるかを伝える術も、奪われている。
その解決方法を伝える術も。
なんにせよ時間をかけられない。脇差〈
「……つーうーさんっ!」
その背に抱き付く娘の、柔い感触。
「……あのなぁ、山郷の。――――づっ」
(つばき……?)
振り返った椿の貌が苦痛に歪む。刀に在り、見上げた薄氷の視線の先で。
山郷初雨の背から生えた、幾重もの真っ白い腕が椿の身体を布のように包んでいる。
『つばきッ!』
「……ッ!」
即座に霊力を薄氷と共鳴させ初雨ごと白手を振り払った椿の左腕は、それを最後に、どう力を込めようと上がりはしなかった。
「オマエ……」
「うひぇ。今ので堕ちなかったとか、やっぱりつーさん
〈幽世〉に呑まれたこの瞬間の山郷にあって、椿と神鷹の判断は舌を巻くほどに的確だった。即座に張られる結界と勝利への布石。
そして、それを覆す初雨の判断は筆舌に尽くしがたいほどに
結界生成の為に地面に置かれた神霊晶――霊力を宿した石が、他ならぬ山郷の花守たちの持つ刀によって砕かれていく。
「椿……!?」
「神鷹、構うなッッ! こいつは――」
右逆手に抜き放つ〈薄氷〉の刃が、椿を取り抑えんと走る花守の首を
「――こいつは、おれがやる」
地面に突き立ち握れなくなった〈雪〉を背に、椿は山郷初雨と、彼女に控える山郷の花守を睨む。
「あは。……やぁっとあーしを見てくれたねえ、つーさん」
その恍惚。とろけるように甘い熱を帯びた瞳の
【やはり、美に入るには穿つべき――】
……白磁を思わせる刀霊の貌に走った太刀傷から、涙のように赤が零れる。
暗雲に隠れ、姿を消した上天の満月。
今宵、この地は血戦場と化す。
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