無月散水


 なにも地図上のが作用しているわけではない。順序としては逆だ。


 互いの霊脈の範囲が触れ合う其処が、ヒトの世の歩みに合わせて路となり、やがて区切られただけの話。


 山郷さんごう迫間はざま間の競合戦線コンテストエリア。空に浮かぶ月は高く、満月であろうとその月光は降り注ぐモノではなく――常にこの星のかたわらにったもう一つの大地という事実よりも――くら水底みなそこに縁取られ、見上げることのできるたったひとつのであるという錯覚を覚えさせる。


 ――山郷ここより迫間さきは正真正銘、この日ノ国に顕現した〈幽世〉だ。生在る者に必要な呼吸ひとつ取っても、肺腑に侵入するこの世ならざる瘴気により魂がキズを負う。


 その、を確かに視界に収めながら、版図はんとを広げようと押し寄せる霊魔たちを一刀の下に切り伏せる花守。


 市街地に敷設ふせつされた防波堤のように、影でしかないその群れを、


「一刀! 渾身!」


 当主神鷹じんようの号令一下、朝霞あさかの一門が受けて、断つ。


 或いは撃ち放たれたやじりのように陣を張った百鬼ひとでなしの一団が、無言のままに駆け抜けては塊り蠢くそれらを食い荒らす。


「うひぇ」


 目をまん丸と開け、苦く笑みを浮かべる娘。


「おい、ぼさっとしてンじゃねェよ


 び、と刀身に付いた墨のような血を払って、百鬼なきり椿つばきは平屋の屋根の上から半眼で山郷初雨うめを見下ろした。


「や、だってつーさんとじんよーサマのとこだけで良くない? あーしらの昨日までの頑張りは一体……みたいな?」


 肩を落として脱力感を表現する初雨が背にした家屋の窓から、にゅるりと手が伸びる。


「初雨様……!」


 駆けつける山郷の花守。


「ギャア! つーさんヘルプ! ヘルプミー!」


「悪ィ、英語はさっぱりなんだ」


 言いつつも椿は惜しげなく振り被った大刀そそぎ投擲とうてきする。


 突き刺さった窓の向こうで、ぞぶり、と瑞々しい音が響き、痙攣するように手の群れが動きを止めた。


 それに合わせて護衛の花守を追い抜いた神鷹が一刀のもとに手首のすべてを切り落とす。



お見事ですGood jobミスターMr


 屋根から下りて初雨……の後ろに刺さる大刀を回収する椿の背に、英語で労いの声がかかった。


〈異人隊〉として同行している金髪碧眼の花守。椿は帽子の鍔を上げ――


そりゃあどうもThanks


 と。


「ちょお!? 英語めっちゃわかってるじゃんつーさん!?」


「はは……うん、椿は解るよ、英語」


 何しろ二つ違いとはいえ、同じ学舎で勉学に励んだ朝霞家当主の言葉だ。初雨は憤懣ふんまんかた無し、といった風情で椿を睨む。目尻には薄っすらと涙が滲んでいた。


「つーうーさーん……ナンデ!? なんであーしにそんな意地悪するかなあ!? ハッ。これはまさか好いた娘に意地悪あいたぁ!?」


 朝ぶりのデコピンを放ち、大刀を鞘に納めて椿は息を吐く。


「……ほんっとに伸び伸び育ってンなァ、山郷の姫は。に責務押し付けた結果か? この奔放ほんぽうさ」


 山郷家当主、伊之助いのすけには三人の孫がいる。〈霊境崩壊〉を迎えた今の夕京にあって、後代に花守としての素質のある者に恵まれているというのはそれだけで僥倖ぎょうこうだ。


 中でも長男、雄一郎ゆういちろうは才も顕に、次代の山郷家当主として期待されている。


「まぁ、雄一郎殿が山郷を継げば安泰だろうね……今回の応援要請も、霊脈防衛に伊之助殿と雄一郎殿、信次しんじ殿の三人で当たれるっていうのはやはり大きいと思う」


「それはつまり、あーしは前線で使い潰してもいい孫……どうしよう、初雨ちゃん病んじゃうゾ……?」


「莫ァ迦」


「あたっ」


 三度目のデコピン。けれどそれは痛みを伴うほどの痛撃ではなかった。


「使い潰したくない孫だから、と組まされたンだろうが」


「あは。つーさんの自分アゲとかめっずらし。でも安心だなあーほんとなあー」


「……さあ皆。あと一刻もすれば夜が明ける。それまで頑張ろう!」


 神鷹の声に応える花守たち。〈夕京五家〉の朝霞当主の一言は、戦場において何物にも勝る士気向上の効果があった。


 そう。朝まで霊魔を狩り続ければ一先ずの勝利だ。如何に〈幽世〉へと堕ちた迫間の軍勢も、月に代わり昇る朝陽と山郷に満ちた霊脈の浄気を越えて進むことは侭ならない。


 疲弊はある。この時勢に、それまで役割として生きてきたものの花守の本懐を遂げていた者たちの何と少ないことか。霊魔という存在を視ることでさえ本来無縁に近いほど、この国は安定していたというのに。それを斬り伏せるとあっては、たとえソレらが異形のモノであったとしても――刀で奪う、命無き者の命の重さが、べったりと心に張り付き、それを剥がす頃には健全な魂もまた、一枚一枚とその外殻を剥がされているのだ。


 それを花守たちは〈剥離〉と呼ぶ。正気を保ちながら瘴気と戦う、この慶永の世に帯刀を赦された者たちの、逃れ得ぬ宿命――



 誰しもが夜明けを望み、刀を振るった。


 いま、この夕京ではその朝日もいびつに昇る。


 東よりいずる太陽は、けれど〈幽世〉に呑まれた東半分を照らさず。大地に影を落としたまま、護り抜いたもう半分だけを白く染めるのだ。



 かくて一刻は過ぎ。


 どくん、とおおきな胎動めいた霊震れいしんが背後――山郷の本山に在る霊脈から大地を舐めるように通り過ぎた。


 午前六時。真冬の十二月。秋よりもよほど遅くはあれど確かに昇るはずの太陽が――


「これは――」


「――……?」


 昇らぬ朝日。夜の続行。否――戦端開く迫間の地と同じく、この山郷が故の――霊魔の氾濫。


「ッ……神鷹! 〈神霊晶しんれいしょう〉ッッ!」


「各員集合! 結界形成!」


 椿、神鷹、初雨の判断は舌を巻くほどに的確だった。


 山郷伊之助は此度こたびの応援要請に『統率された霊魔により』とした。


 それを思考から抜く椿と神鷹ではない。がやはり、この霊境崩壊の後ろに居ることはもはや確信している。それでいて尚


 押し通せぬとあらば、本戦は次の夜だと。夜明けに投入する主戦力など無為に尽きる。


 だが、この一夜が続行するのであれば――


「――〈迫間〉の、」


「〈花守れいま〉――!」


 ――それはこの上なく効率的に、悲願を邪魔する花守たちを壊滅せしめる一手となろう。


 向かい来る霊魔の小隊。


 間一髪で展開された結界が花守たちを不浄から隔離する。



 満月は、地の底に空いたただ一つの孔のようだ。この結界を一歩でも出れば、呼吸をするだけで心身を蝕まれる瘴気の園。風景は凡て影絵のように黒く塗り潰され、現世うつしよとはもはや思えない絵面と相成ってしまっている。


 その中で。


「〈そそぎ〉」


(応。)


 大刀を地面に突き刺し、その霊力の展開を持って結界の強度を上げた百鬼当主と、その一門が地獄へと踏み出した。


「……神鷹、退路を拓けるか」


 人の身で。この地獄をくことができるか、と背中越しに椿は問う。


 その背中で、千の言葉よりも雄弁に応えが鳴る。


 抜き放たれた〈無銘むめい〉が鞘を滑り、その刀身は神気も顕に月光に濡れる。鞘摺りの音は、冬のように澄んでいた。


 巫術による通信は――もう、雑音だらけで意味を成してはいない。この異常事態にとり、その異常がどれほどの規模であるかを伝える術も、奪われている。


 を伝える術も。


 なんにせよ時間をかけられない。脇差〈薄氷うすらい〉の柄に手をかけ、抜刀する刹那の椿。


「……つーうーさんっ!」


 その背に抱き付く娘の、柔い感触。



「……あのなぁ、山郷の。――――づっ」



(つばき……?)


 振り返った椿の貌が苦痛に歪む。刀に在り、見上げた薄氷の視線の先で。


 、幾重もの真っ白い腕が椿の身体を布のように包んでいる。


『つばきッ!』


「……ッ!」


 即座に霊力を薄氷と共鳴させ初雨ごと白手を振り払った椿の左腕は、それを最後に、どう力を込めようと上がりはしなかった。


「オマエ……」


「うひぇ。今ので堕ちなかったとか、やっぱりつーさん埒外らちがいじゃない? あーしがハグっとしたら、誰も彼もみんななったっていうのに」


〈幽世〉に呑まれたこの瞬間の山郷にあって、椿と神鷹の判断は舌を巻くほどに的確だった。即座に張られる結界と勝利への布石。


 そして、は筆舌に尽くしがたいほどに悪辣てきかくだった。


 結界生成の為に地面に置かれた神霊晶――霊力を宿した石が、他ならぬ山郷の花守たちの持つ刀によって砕かれていく。


「椿……!?」


「神鷹、構うなッッ! こいつは――」


 右逆手に抜き放つ〈薄氷〉の刃が、椿を取り抑えんと走る花守の首をサン、と跳ね飛ばした。


「――こいつは、おれがやる」


 地面に突き立ち握れなくなった〈雪〉を背に、椿は山郷初雨と、彼女に控える山郷の花守を睨む。


「あは。……やぁっとねえ、つーさん」


 その恍惚。とろけるように甘い熱を帯びた瞳のいろを、かつて薄氷は見たことがある。


【やはり、美に入るには穿つべき――】


 ……白磁を思わせる刀霊の貌に走った太刀傷から、涙のように赤が零れる。


 かつて自身を振るった者と同じ〈魔〉を、山郷の姫君はその瞳に宿していた。


 暗雲に隠れ、姿を消した上天の満月。


 今宵、この地は血戦場と化す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る