第肆話〈山郷決戦〉

虎ノ門事件(後)


杏李あんり、この花霞かすみ邸に暮らす君の方がきっとそれに気づける。もしも、何かの拍子でも良いから椿の首に――』


 ――その言葉の意味するところを、私はだ知らなかった。




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 慶永けいえい六年十二月、それは帝都夕京ゆうきょうのみならず日ノ国全土を〈霊境崩壊〉以来の震度で揺るがした。


【今上天皇依花よるか暗殺未遂】。後の世に〈虎ノ門事件〉と記されるくらい文字の壱頁いちページ


 世が、国が乱れれば其処そこに暮らす人々の心も乱れるということなのだろうか。そして人心が乱れた時にこそ、その間隙かんげきを埋めるように甘く、苛烈で、狡猾に忍び寄るこの世ならざるモノが、この夕京には蔓延はびこっている。


 幸いにして未遂、と付く通りこの暗殺は失敗している。ただ、ある種の生まれていた軋轢あつれきを広げることが目的であるのならば、成功したと言えよう。


 本来の皇居の存在する桜路おうじ町へと依花は戻りたがったが、取り戻したといっても桜路より東は既に〈幽世かくりよ〉へとすべての区域が堕ちてしまっている。


 ゆえに〈霊境崩壊〉から変わらず、この榎坂えのざかにある花霞かすみ邸の禁裏に、彼女は暮らしている。


 皇室守護の近衛師団――そして、いた刀を以って斬るはヒトならざるモノ。この日ノ国の落陽に終止符を打たんとこの地に集った〈花守〉たちと共に。


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「……機で見ればそう考えるのが妥当だとうだろうけれど、やはり霊魔ではないでしょう」


 いっそ平坦な声色で、朝霞あさか神鷹じんようはそう口にした。それはこの場の誰もが理解していることだ。そもそもにして――


如何いかに強力な個体であっても、のですし」


 この日ノ国において、対霊的な意味合いで最も『強い』者は誰か。それは今、心労により休息を摂っている依花に他ならない。人知を――否、人理を超えた霊力と、契約刀霊〈天叢雲アマノムラクモ〉を持つ彼女を害しるモノはの中にも存在しないであろうことは明白だ。


 そして、


「陛下と近しい場っつっても。花守の中にそんな不敬者は居ねェだろうよ」


 百鬼なきり椿つばきの言葉の通りである。多くの人々が〈霊境崩壊〉により帰らぬ人となった。そして今日に至るまで、ただでさえ分母の少ない花守たちが、溢れかえった霊魔との戦いで命を落としている。――それは自身にとっては遠い感情ではあるが、霊魔を憎む者たちの、その憎悪の矛先が依花には決して向かわないであろうことは、理解していた。なにせのだ。誰を恨めばわからないような天変地異とは毛色が違っている。


 とすれば、と視線は花守隊の参謀へと注がれた。


 羽瀬はぜ斎宮いつきは、決まりきった答えを――この問答の当たり前の着地点を――眼鏡を押し上げて告げる。


「……十中八九、軍部でしょうね。総理が抑えているものの、あと僅かな場所にまで見えてしまった実権かじつを、無理にでも手中に収めたいと思ってしまうのは人間の業でしょうから」


 くっだらねぇ、と豪奢ごうしゃな椅子の背を軋ませて椿が仰け反り紫煙を吐いた。



〈虎ノ門事件〉は人のサガる事件だ。そして――



「失礼します! 山郷さんごう伊之助いのすけ様より火急の報でございます!」


 言葉の通り、尽くす礼より先に扉を開けた花守に視線が集中する。隊長・かこい麗華れいかは頷きひとつで彼を促した。


 山郷伊之助。〈夕京五家〉の一、山郷家の当主であり、幽世へと堕ちた南の神守かんもり、東の迫間はざまからの霊魔を留め続けている激戦区、山郷の守護者である。


「申し上げます! 神守・迫間の両区より霊魔軍勢の攻勢を受けたとのこと。『至急応援求ム』、以上です!」


 ――そして。この時勢の軋みに這入はいり込むような悪辣。未だ癒えることの叶わぬ人の心と体に新たな傷を刻んだ、血で血を洗う霊魔との大戦オオイクサ。


「……先にっとく。山郷殿が火急っつーなら手は多いに越したことはねェだろうからな。策が決まったら後で連絡してくれ」



〈山郷決戦〉は、こうして始まったのだ。



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