第弐話【花、霞ミテ色ヅク】
乙女、煩ふ。
今上天皇
近々、最大の競合区域である桜路町の完全奪還のための軍議が開かれるそうだ。
日増しに緊張感を募らせる花守たちの足音を聞きながら少女――
無論、
それでも杏李は半ば無意識に息を
霊境崩壊の震源地、深山を守護していた〈夕京五家〉筆頭・深山家唯一の生き残りである彼女はけれど、何の霊力も素質も持って産まれてこなかった。当主であった深山
深山の霊脈は断たれ幽世に呑まれたも同然の現状で、表立って生還を果たした唯一の深山家令嬢を
――花霞邸の昼下がり。陽射しの熱は変わらないまま、短い秋の風は僅かに冷たさを孕んで吹いている。
この榎坂から三里も離れていない場所では夜が明けない、などと言われても実感に遠い。あの夜のことは未だに夢に見るほどに鮮烈な記憶として残っているが、その夜が今
政府から夜間外出禁止令が出ていることも、もちろんきちんと理解している。その『夜』を駆ける花守たちが居ることも。……その、少なくない数の花守たちが、何人も戻ってこなくなってしまっている、ということも。
暮れなずむ太陽よりも早く沈みそうになった杏李の思考を、怯えさせないように意識されたノックの音が繋ぎ止める。
「杏李、居るかい」
「ど、どうぞ」
応える前に呼吸を整えたつもりが、少し
「お邪魔します……杏李? 具合でも悪くなってしまったかな、顔が赤いけれど」
「だっだいじょうぶです……! お入りになってください、
自分を気遣い出直そうとする青年を、少女は思い切り両手を振ることで引き止めた。代償としてそんな動作をはしたないと思ってしまった育ちの良さが、更に顔の熱を上げてしまったのだが。
「……本当に? 具合が悪いのならすぐにお医者様を呼ぶからね、杏李」
片手に
朝霞神鷹。夕京五家の一ツ、朝霞家の当主であり、この
「榎坂にお
「まだ、身体は良くなっていないだろう? 可愛い
家族を
「か、可愛いだなんて……おやめください、朝霞様」
「世辞を言うのは公の場くらいだけれど。あ、お茶を持ってきたんだ。好きだったろ、西洋茶。あと、いい加減その朝霞様っていうの、やめる気はない?」
杏李の、今も続く初恋の男性であり、
「朝霞様は、朝霞様ですので……有難うございます。お茶は、いただきます」
血を分けた姉の――双子の姉、
部屋に用意されている椅子はふたつ。神鷹でもなければ医者くらいしかこの部屋を訪れない杏李にとって、これ以上は必要なかった。大きくもないテーブルも、そう。
杏李の双子の姉であり神鷹の婚約者だった七香も、あの霊境崩壊で帰らぬ人となってしまっている。それでも、と
神鷹の心には、帰らぬと解っていながらも
深山の令嬢に
私は、弱い。
「杏李?」
「な、なんでもないです……う、」
こんな風に、神鷹の心を気遣わせたくはないのだ。でも、気遣ってくれるのが嬉しい。そんな自分の浅ましい心が、何より嫌いで、
「……ふふ。やっぱり緑茶の方が良かったかな」
「だ、だいじょうぶです。杏李はもう、子どもではないので」
砂糖の入っていない西洋の茶の、緑茶とは違った苦みも、嫌いだった。
深呼吸を一回。それだけで切り替えられるほど、大人にもなれていなかったけれど、杏李はそう在ろうと切り替えて、神鷹の顔を見た。
「それで、朝霞様。此方に来られたというのは、やはり……」
「……うん。杏李の顔を見に、というのも
「はい……くれぐれも、ご無理はなさらずに。貴方様は、朝霞家のご当主様なのですから……」
つい、一週間前のことだ。陥落した
「だからこそ、だけれどね。大丈夫だよ、杏李」
言って俯いてしまった杏李の頭を、神鷹の手が優しく撫でる。それを
「今回は
椿。
花霞邸の広い庭が俄かに
全力疾走とは程遠い駆け足は、何を気遣っての事だろうか。着流しの袖を揺らしながら走るその花守は、その証たる腰の
近衛師団とは、文字通り天皇陛下を護る為のいわば側近だ。それに追われているとは、しかも大事を感じさせない、遊戯の延長であるかのような空気。
「……あの方は、何をされているんですか、まったく」
「まあ、予想は付くけどね。僕と椿は陛下に
突然の詫びの言葉に、はてな? と首を傾げる。それを是と取ったのか神鷹は窓から手を出して振った。
その合図を見て、逃亡犯――百鬼椿は左右を確認し、近衛の視界を一旦抜けたと判断するや否や、窓からこの部屋に侵入してきた。
ばさり、と着流しの袖と裾が舞い上がって、落ちる。こういう事は何度もしてきたのだろう。すぐさま
「すまん、助かったぜ神鷹」
「ほどほどにね、椿。後で僕の方が陛下にお小言を頂戴する羽目になるんだから」
あいよ、と生返事を返しながら百鬼椿は袖の中から紙巻を取り出して、
「おっと。深山のお嬢さんの部屋だったか。すまん」
それを戻した。
「……いえ、お気になさらず。百鬼様」
ドアからではなく窓から
くすくすと子どものように笑う神鷹のその、気の置けない仲であるという証左
にこそ、深山杏李はふう、と煩う心を吐き出すように、ため息をついた。
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