第弐話【花、霞ミテ色ヅク】

乙女、煩ふ。


 花霞かすみ邸。夕京ゆうきょうの中心、桜路町おうじちょうの西に位置し、〈霊境崩壊〉の難を逃れ臨時政府を設けた榎坂えのざか区にある、〈花守〉たちの現在の本拠地である。


 今上天皇依花よるかの令のもと馳せ参じたクニ各地の花守たちは、〈幽世かくりよ〉のヒトならざるモノに奪われた夕京の東半分を取り戻そうと、日夜命を懸けて戦っている。


 近々、最大の競合区域である桜路町の完全奪還のための軍議が開かれるそうだ。


 日増しに緊張感を募らせる花守たちの足音を聞きながら少女――深山みやま杏李あんりは、誰に咎められるでもないその息を、けれど細く長く吐き出した。……誰かの心を逆撫でしないように、と。


 無論、杞憂きゆうだ。此処は花霞邸の、静養中の杏李のために用意された一室だ。部屋の主が呼吸をすることを咎める者など存在しない。


 それでも杏李は半ば無意識に息をひそめてしまうのだった。


 霊境崩壊の、深山を守護していた〈夕京五家〉筆頭・深山家唯一の生き残りである彼女はけれど、何の霊力も素質も持って産まれてこなかった。当主であった深山影辰かげたつはそんな娘を家名の恥としたのか、その存在ごと屋敷の離れに隠し、少女は年相応の世界のいろを知る機会もままならず生き、その檻を破ったのは未曾有の霊災という顛末だ。


 深山の霊脈は断たれ幽世に呑まれたも同然の現状で、表立って生還を果たした唯一の深山家令嬢をなじる者は少ない。どちらかといえば憐憫れんびん、よりも同情――を持たれている方が多いくらいだ。霊境崩壊の爪跡は数多くの花守たちの人生をも、等しく変貌させてしまったのだから。この霊災にり、若くして当主の座に繰り上がってしまった者たちも少なくない。だからそれが、疼痛とうつうのように杏李の心をさいなんでいる一因でもあった。十六歳の杏李よりも歳若い少年少女たちが刀を……霊魔れいまたおすための武器を持ち、血と涙を流しながらイクおもむくのをただ無感動に眺められるほどには、隔離され育ったこの少女の感受性は死んではいなかったのだから。


 ――花霞邸の昼下がり。陽射しの熱は変わらないまま、短い秋の風は僅かに冷たさを孕んで吹いている。


 この榎坂から三里も離れていない場所では、などと言われても実感に遠い。あの夜のことは未だに夢に見るほどに鮮烈な記憶として残っているが、その夜が今尚以なおもって続いていることを、心のどこかが麻痺してしまったみたいに認めたがらない。


 政府から夜間外出禁止令が出ていることも、もちろんきちんと理解している。その『夜』を駆ける花守たちが居ることも。……その、少なくない数の花守たちが、何人も戻ってこなくなってしまっている、ということも。


 暮れなずむ太陽よりも早く沈みそうになった杏李の思考を、怯えさせないように意識されたノックの音が繋ぎ止める。


「杏李、居るかい」


「ど、どうぞ」


 応える前に呼吸を整えたつもりが、少しうわずってしまいにわかに頬が上気する。声だけで、否……そのノックだけで、西洋式の扉の向こうに居るのが誰か、杏李にはすぐにわかってしまったのだから。


「お邪魔します……杏李? 具合でも悪くなってしまったかな、顔が赤いけれど」


「だっだいじょうぶです……! お入りになってください、朝霞あさか様……!」


 自分を気遣い出直そうとする青年を、少女は思い切り両手を振ることで引き止めた。代償としてそんな動作をはしたないと思ってしまった育ちの良さが、更に顔の熱を上げてしまったのだが。


「……本当に? 具合が悪いのならすぐにお医者様を呼ぶからね、杏李」


 片手に洋盆トレイを乗せたままドアを静かに閉めて、青年――朝霞家当主、神鷹じんようは思慮深く少女の顔を見ながら近づく。それだけで心臓の音が五月蝿うるさいくらいに跳ねる。どうか聞こえませんように、と祈るように深呼吸を繰り返し、やっとのことで向き直った。


 朝霞神鷹。夕京五家の一ツ、朝霞家の当主であり、この大戦オオイクサを勝ち抜くための最大戦力の一人であり、


「榎坂におででしたか。言ってくだされば、私の方からお迎えに上がりましたのに」


「まだ、身体は良くなっていないだろう? 可愛い義妹いもうとに来させるのは少し、嫌かな」


 家族をすべうしなった深山杏李を引き取った戸籍上の義兄であり、


「か、可愛いだなんて……おやめください、


「世辞を言うのは公の場くらいだけれど。あ、お茶を持ってきたんだ。好きだったろ、西洋茶。あと、いい加減その朝霞様っていうの、やめる気はない?」


 杏李の、今も続く初恋の男性であり、


「朝霞様は、朝霞様ですので……有難うございます。お茶は、いただきます」


 血を分けた姉の――双子の姉、七香なのか婚約者いいなずけだった、ひと。


 部屋に用意されている椅子はふたつ。神鷹でもなければ医者くらいしかこの部屋を訪れない杏李にとって、これ以上は必要なかった。大きくもないテーブルも、そう。


 杏李の双子の姉であり神鷹の婚約者だった七香も、あの霊境崩壊で帰らぬ人となってしまっている。それでも、と英国茶器ティーカップに揺れる紅茶の水面に映った自分のかおを見つめて、杏李は思う。


 神鷹の心には、帰らぬと解っていながらも七香あねが残り続けているのだ、と。


 深山の令嬢に相応ふさわしい才能を持って産まれた七香と、産まれながらに凡てを奪われていた自分は、同じ顔と血を持っていても違う、と頭では解っている。七香に、ただ一緒に産まれただけの姉に何の罪もない事も解っている。それらは自分たちがどうこうできるようなモノではなく、そういうさだめだというのも、きちんと解っているのだ。神鷹がそんな婚約者と義妹を比べて扱ったりしない、優しい男性ということも解っていて、だからその優しさも辛くて。姉の替わりに自分を、としたたかになれない自分が嫌で、でも朝霞杏李として家族になってしまうのも――戸籍の上ではとっくにそうなっているのに、それを認めるのも嫌だった。


 私は、弱い。


「杏李?」


「な、なんでもないです……う、」


 こんな風に、神鷹の心を気遣わせたくはないのだ。でも、気遣ってくれるのが嬉しい。そんな自分の浅ましい心が、何より嫌いで、


「……ふふ。やっぱり緑茶の方が良かったかな」


「だ、だいじょうぶです。杏李はもう、子どもではないので」


 砂糖の入っていない西洋の茶の、緑茶とは違った苦みも、嫌いだった。


 深呼吸を一回。それだけで切り替えられるほど、大人にもなれていなかったけれど、杏李はそう在ろうと切り替えて、神鷹の顔を見た。


「それで、朝霞様。此方に来られたというのは、やはり……」


「……うん。杏李の顔を見に、というのも勿論もちろんある。桜路町の奪還へ向けての作戦があってね。また少し空けるけど、すぐに戻って来るから」


「はい……くれぐれも、ご無理はなさらずに。貴方様は、朝霞家のご当主様なのですから……」


 つい、一週間前のことだ。陥落した迫間はざまから撤退してくる友軍を迎えるために、僅かな手勢だけでこの朝霞神鷹という男は桜路町まで行ってしまった。この時ばかりは心配で心臓が破裂しそうになり、無事に戻って来てくれた時は涙が溢れて止まらなかったものだ。


、だけれどね。大丈夫だよ、杏李」


 言って俯いてしまった杏李の頭を、神鷹の手が優しく撫でる。それをいとえないのも、やはり自分は弱いと思ってしまう。


「今回は椿つばきもいるし――おっと、噂をすれば」


 椿。百鬼なきり椿。くだん迫間じごくから撤退を成功させた、ひとでなしと言われている百鬼一門の当主。神鷹の幼馴染おさななじみ。私の知らない、このひとの顔をたくさん知っている人。


 花霞邸の広い庭が俄かにあわただしくなり始めた。戦闘からの緊張ではなく、妙な言い方をすれば随分と重要性に欠けるそれ。


 全力疾走とは程遠い駆け足は、何を気遣っての事だろうか。着流しの袖を揺らしながら走るその花守は、その証たる腰の大小かたなを右にいていた。それを、どことなく諦観を感じさせる足取り――やはり全力疾走でなく、寧ろ逃げ切ってくれ、と願うような気の抜き方――で追う数人……こちらは近衛師団の格好だ。……


 近衛師団とは、文字通り天皇陛下を護る為のいわば側近だ。それに追われているとは、しかも大事を感じさせない、遊戯の延長であるかのような空気。


「……あの方は、何をされているんですか、まったく」


「まあ、予想は付くけどね。僕と椿は陛下に拝謁はいえつを許されている花守の中で、陛下と歳が近いから。それでで言うなら、あいつは僕より数段上だ。……ごめんよ、杏李」


 突然の詫びの言葉に、はてな? と首を傾げる。それを是と取ったのか神鷹は窓から手を出して振った。


 そのを見て、逃亡犯――百鬼椿は左右を確認し、近衛の視界を一旦抜けたと判断するや否や、この部屋に侵入してきた。


 ばさり、と着流しの袖と裾が舞い上がって、落ちる。は何度もしてきたのだろう。すぐさま窓布カーテンを閉める神鷹との連携に、言葉など不要だった。


「すまん、助かったぜ神鷹」


「ほどほどにね、椿。後で僕の方が陛下にお小言を頂戴する羽目になるんだから」


 あいよ、と生返事を返しながら百鬼椿は袖の中から紙巻を取り出して、


「おっと。のお嬢さんの部屋だったか。すまん」


 それを戻した。


「……いえ、お気になさらず。百鬼様」


 ドアからではなく窓から這入はいって来たことの無作法さか。それとも苦くも甘いふたりの時間を邪魔されたからか。おそらくはその両方。いや――


 くすくすと子どものように笑う神鷹のその、気の置けない仲であるという証左

 にこそ、深山杏李はふう、と煩う心を吐き出すように、ため息をついた。


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