才無き鷹は爪を、


 帝都夕京ゆうきょう。皇居のある桜路町おうじちょうを中心として、15の行政区が設けられた、このクニまさしく心臓である。


 慶永けいえい六年、九月一日。日ノ国の心臓が、破られる。


 最東端の深山みやま区をとして発生した〈霊境崩壊〉は、唯一深山区と地続きで隣接していた古谷こたに区をも呑み込んだ。


 迫間はざま柊木橋ひいらぎばしとを隔てた丸奈川まながわを文字通りのとして――深山と古谷そのむこうは、既に〈幽世かくりよ〉と成ってしまっている。


 巫祷神事ふとうしんじの要点として各地の〈霊脈〉を守護していた〈花守〉の柱、〈夕京五家〉のうち深山・迫間の一族は全滅。夕京の都にあふかえった霊魔れいまどもとの勢力図は、桜路町を競合区域に、その東半分を奪われた状態にある。


 慶永今上きんじょう天皇、依花よるかは十二歳。その未だ幼き御身にはこくすぎる重責に潰れることを誰よりも自身こそが良しとせず、日ノ国各地に存在する〈花守〉たちへとその玉音ぎょくおんを響かせた。


『日ノ国の花守たちよ。どうかこの暗闇をはらい、もう一度天照アマテラスの輝きをもたらして欲しい――』



 抗う者は剣をれ。この落日に、終止符を。




 /


 花霞かすみ邸。桜路町の南西に位置し、〈霊境崩壊〉の難を逃れ、臨時政府を構えた榎坂えのざか区にある、花守たちの拠点である。


「……迫間の花守も全滅、か。有難ありがとう、下がってくれ」


 報を受けた青年……〈夕京五家〉が一、朝霞あさか家の当主・神鷹じんようは努めて表情を動かさず、そっと息を吐いた。


 未だ霊魔の駆逐できていない桜路町の完全奪還。その為に戦力をこの榎坂に集結させ、再起を図る。その号令は既にくだされており、というのはやはり霊魔との戦いで命を落としているか、それとも――


「神鷹」


「陛下」


 花霞邸の庭は護国花守の力か、この落日の日ノ国にあって清浄な空気を保ち、いささかのかげりはあっても、まだ陽の光の下にあった。


 かけられた声に振り向き、すぐさま膝を折って礼を尽くす。天皇依花は――つい今しがたの神鷹と同じように努めて表情を動かさず――「顔を上げて頂戴」と言った。


 顔を上げ、周りに誰の姿もないことを確認してから神鷹は表情を崩す。


「陛下。いまこの日ノ国にあって最も大切なものは陛下です。せめて近衛このえを連れて来てください」


「ですが神鷹、それではこうやって貴方と話すことも叶いません。……それで、神鷹。その、」


「……おそれながら申し上げます。迫間は幽世に堕ちた、と。八雲ヤクモ様も花守亡きままお残りに」


「私の声は、届かなかったのでしょうか……」


 依花の顔が翳る。壊滅した夕京――特に最大の霊障れいしょう被害をこうむった深山、古谷は勿論のこと、丸奈川を境界としていた迫間の地も甚大な霊災を受け、瘴気によって陽の射さない闇に閉ざされてしまっている。巫術による霊子通信も届かなかったに違いない、と神鷹はゆっくりと首を横に振った。


 直線距離にしておよそ三里――10㎞の距離が、あまりに遠い。


百鬼なきりは、」


 続いた言葉に、神鷹は瞳を開き、ゆっくりと戻した。


「椿は……無事なのでしょうか」


 そして笑う。


「……陛下。私も百鬼一門とは親交が深く、当主の椿つばき殿とも幼少より付き合いがあります。迫間が堕ち、幽世の霊魔が跋扈ばっこしようともその血が潰えることは想像できません」


 そう。想像ができない。神鷹が初めて当世の椿と出逢ったのは十の時だ。


 その日の事は、家督を継ぎ、朝霞の当主となり、二十四歳になってもまだ鮮明に思い出せる。


「この大霊災は日ノ国の花守が一丸となって立ち向かわないと乗り越えられません。百鬼もそれは重々承知のはず尚以なおもって引き下がらないというのであれば、おそらく幽世よりの瘴気が陛下のお声を妨げたのでしょう」


 その言葉に秘められた決意。幼くもさとい依花の耳は正しく言外げんがいの意を拾った。


「神鷹……?」


、陛下」


 言って立ち上がる。非礼を承知でその、十二歳の今上天皇の小さな背を見下ろして思う。


 椿が当主となったのも、今の陛下と同じ歳だったな、と。


迫間ハザマ獄卒ごくそつに、陛下の令を聞き届かせて参ります」


 深く一礼をし、きびすを返す。依花はひるがえった朝霞家当主の羽織を視線でなぞり、小さな声で「どうか」といのりを手向けて瞳を伏せた。



 /


 足早に花霞邸の廊下を抜ける神鷹に声がかかる。


「朝霞ァ。お前、何のつもりだよ」


「……斉一せいいちか。悪いが急いでいるんだ」


 声の主が解っても神鷹はその足を停めず、それに苛立ったのか追いかけながら斉一は更に続けた。


「お前、調子に乗るんじゃないよ。そんなちっぽけな霊力で〈五家〉の当主なんてやってるだけでも目障りなのにさ。いくら零落れいらくしたとはいえ、朝霞は夕京の要のひとつなんだ。身をわきまえて行動しろって言ってるんだ」


 かこい斉一。朝霞家と同じく〈夕京五家〉の一角である、囲家の嫡男ちゃくなんであり、優れた家柄と才能に飾られた、依花天皇守護である近衛師団の一人。


「弁えているさ。今の夕京には八雲様の霊力も、百鬼の滅魔の力も必要だ。号令が届かずあの地に留まっているというのなら、それを届けるまでだ」


 長い廊下を抜け、開け放たれている門を潜る。行き先は戦端、桜路町へと続く大江通おおえのどおり。


 朝霞家に組する花守たちが合流し、小部隊となって進む間にも後ろを歩くことを止めない斉一は、その言葉を尽きさせることもなかった。


「なあ、おい。あんな五家でもないの連中なんか放っておけよ。ちょっとばかり歴史が長い家だからって好き勝手しすぎなんだよアイツら。それだけでも目障りなのにボクらとぶってるだけで腹が立つね。大体、迫間はもう堕ちてるんだろ? だったらとっくに全滅してるに決まってるじゃないか。なにせ当主があのなんだからさあ!」


 ――それは、何も知らない者がかの一門を揶揄やゆする時の言葉だ。


 椿の花は不吉の象徴。花は枯れ逝く代わりにぽとりと落ちる、と。


 囲斉一の言葉は概ね正しい。


 確かに朝霞神鷹には〈夕京五家〉一角の当主に相応しからぬ霊力チカラの不足があり、百鬼はひとでなしと呼ばれる一門である。自ら危険を冒し天皇陛下の令を届けに脚を使うのは朝霞家当主の振る舞いとして正しくないのかもしれなくて、椿の花は枯れずに落ちるものだ。迫間は壊滅し、その霊脈も断たれてしまっている。という言葉も、正しい。


 だが斉一は知らない、知る事もできない事実がそこにある。ゆえに神鷹はその歩みを止めることはなく、重ねられ続ける罵詈雑言にも応えない。



 ――出逢った日のことを、まだ鮮明に思い出せる。神鷹が十歳になった年だ。


 /


 今は最前線の戦サ場と成り果てた桜路町の皇居で、新たな『椿』が咲いた折、夕京五家の会談の場に同席した神鷹は今のように斉一から受ける嫌味や、他家からの憐憫れんびんの眼差しを嫌って、広間から逃げ出した。



 夕京五家は、その力の継続のために意図的に血を交配させる習わしがあり、力を求める花守たちには別段、忌避きひするものではなかった。


 そうであったのに、常人と変わらぬ霊力しか持たずに産まれた神鷹は、では誰が悪かったのか、と涙をこぼす。だって仕方がないじゃないか。僕だって、大きな力を持って産まれてきたかった。そうすれば父上も母上も、周りに胸を張っていられたのに。


『おい』


 しゃがみ込み、庭の枯山水かれさんすいを濡らす幼き日の神鷹の頭に声がかかった。


『日ノ国男児だんじが人前で泣くもんじゃねェ、シャンとしろ。朝霞の長男だろ、お前さん』


 びくりと肩を跳ねさせ、顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった視界に映ったのは、自分とそう歳も変わらないままに帯刀――その、まだ小さな身体に不似合いなほど長大な大刀を右腰にいた、少年だった。会談の要点。当世とうせい椿、十二歳。


 どうして、と思った。どうして僕なんかを気にかけるのか。挨拶は終わったのか、とか。僕と同じくらいなのに、どうしてそうも、堂々としてられるのか、とか。


 浮かんだ疑問はひとつも言葉にならず、鼻をすすって涙を拭う。泣き止もうとしても、しゃっくりに似た嗚咽おえつは意思とは無関係に呼吸を乱す。


 涙と鼻水で既に濡れきってしまった神鷹の袖を見て、椿は自分の羽織の袖――この日の為に用意されたであろうそれ――が同じモノに濡れることもいとわず、顔に押し当て、続ける。


『だが』


『ひっく、ぅ……だが?』


『おれたち百鬼ナキリだ。だからおれの前でなら我慢した分、泣いてわめいていい。黙っといてやる』


 それが始まり。


 あまりに遠いその背を、死に物狂いで追いかけた。


 霊力が足りないのなら、他で補う。


 どんなに修練が辛くとも、人前で涙を見せることはなくなった。


 その立ち居振る舞いが、朝霞の当主として相応しいものであるように、と自分を奮い立たせ続けた。


 あの日から十四年。


〈霊境崩壊〉を経て今日こんにちに至り、朝霞神鷹は誰に羞じることもなく朝霞の当主として、この落陽の日ノ国に立っている――



 /


 囲斉一の言葉は概ね正しい。朝霞神鷹には人並みの霊力しかなく、百鬼はひとでなしの一門だ――そして。


「おい、だんまりかよ、ァ!」


 桜路町と榎坂を区切る絶対防衛線を、その脚は難なく踏み越えた。


 未だ雑言足りぬと追い縋る囲斉一の脚は、そこで


 顔だけ向けて、神鷹はやっと言葉をひとつ、返した。


これより先は我々〈花守〉のイクにて。殿。――の本分たる宮護の任にお戻りそうらへ」


 片や天皇勅令により帯刀を許され、その命を以って霊魔払滅ふつめつに進む者。


 片や家にも才にも恵まれておきながら、その品格のシュウを以って花守として認められなかった者。


 という言葉は、まったくもって正しかった。


 もう振り返らず、その歩みは目的地に達するまで緩むことはない。


 矜持きょうじを傷つけられた斉一の顔も、その心に巣くった感情の色も見ることはせずに。霊魔の蔓延はびこる桜路町を駆け抜ける。


 意図を察したのか、それともただただ生者を見つけたからか。群がり始めた霊魔の影を、


「〈無銘ムメイ〉――ッ!」


 肉薄、抜刀、一閃、寸断。刃は血に濡れることさえなく、日中なれどトバリの降りたの夕京に三日月を描いて鞘に戻った。


 が朝霞神鷹。かつて五家の嫡男でありながらも、花守としては芥同然の霊力の無さから来るあざけりのことごとくを斬り伏せ黙らせた、ヒトの身のままにして神剣にまで至った男の――才無き鷹が砥いだである。



「全霊力を通信に回せ! 受信分も送信へ費やすんだ! なんとしてでも百鬼に――椿にの声を届かせろ!」

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