水面に薄らふ赤月遠く(後)



 成った時。まだ柄も宛がわれていないなかごから、仰向けに刃揃はぞろえを眺めての言葉だ。


美事みごと


 それが自身にとってどの程度の価値を持つのかは知らない。


 やがて茎に刻まれたのは、銘ではなく状況でもなく、ともすればいのりのような一文だった。



 扱いは丁重、だったと思う。鞘から抜かれることなどは幾度もなく、月明かりも届かぬ宝倉ほうそうの中で他の祭具たちと眠っていたのが殆どだ。


 自我の芽生えはそれより更に後。気づけば刀はイクサの華の座を追われ、けれど代わりにそのにこそ信仰を持たれるようになった時代となった段。


 やしろのある山が薄化粧を施す頃に、決まって奉じられた。時勢の移り変わりは民の表情に顕著けんちょであり、願われるもそれを叶えられないあたり、神も人もそう大差などないのかもしれない、と。


 ……刀としてのを果たしたその初めなど後も後。の出来事だ。


 四百年続いた時の幕府もついに潰え、動乱の波を経て治世は再び天皇家に委ねられた。その大きなうねりに大勢の人が巻き込まれ、多くの悲しみを刻み込まれた。無論、大きな慶びも、在った筈だ。


 その時の事は、よく覚えている。


 肉親との死別に涙する瞳の中に、確かに揺れたほむら


 ――その父母の死に顔が、あまりに美しかったからだろう。る瀬のない今生の別れであるというのに、どうしてそうも美しく逝けるのか、と。


 くすぶる情念を紛らわすように身辺の整理する様を眺めていた。


 何故なにゆえに、と繰り返された言葉は自身と家を襲った時代という抗いようの無い力へのそれだと思っていたのだ。少なくとも、その時は。


 やがて彼――梶井かじいは処分を決めた蔵品の中からわたしを見つけ出す。


(止めよ梶井。時は変わった。)


 わたしの声は届かない。


何故なにゆえだ。何故に父上、母上……』


(わたしを振るうことに意味などはない。)


 神事の時に持ち上げられたこととは全く違う、荒々しく握られる柄。鞘を結んでいた封を乱暴に切り解き、本刃ほんみを抜いて一度の血も浴びず、肉の感触も知らぬままの刀身をほうと見つめて繰り返す。


『何故、ああも美しかった?』


(梶井。)


『美しい刃だ。



 求むる道は見えているのだ、と笑う。


 その、わたしを手にした男には確かに、



嗚呼アァ。得心いったとも。やはり美にるには穿つべきサイこそが――』


 ――確かに、その瞳の奥に〈魔〉を宿していた。



 /


 しゃあと、濡れた石を滑る感触に目を醒ます。


(此処は……?)


 どこか懐かしいにおい。暗い石造りの閉塞。燭台しょくだいに揺れるだいだいと、それよりも煌々こうこうと燃える炉の真紅しんく


 滑る。


 柄を外され、なかごはあの頃のように剥き出しとなった状態で、錆びた刀身を誰かが研いでいる。


 滑る。


 ひと研ぎごとに、このを侵した穢れをみそぎ、祓うような真摯さ。


 意識で見上げると、肘まで捲くり上げた欄衣シャツ一枚、ボタン肌蹴はだけ、けれど鍛冶場の熱はその程度では涼も得られず肌にぴったりと張り付いていた。


 しっとりと落ちた濡羽ぬればの髪は煩わしくないのだろうか、などと未だ定まらない、ぼんやりとした意識でそんな事を思ってしまった。歳はどのくらいだろう。元服は済んでいるだろうが、そうせいの区別のし難い男。


 冷たい清水しみずに浸け、砥石の泥と最後の錆を落として持ち上げる。



 わたしをかつてった職人と同じように、わたしを持ち上げ、刃をあらためるために片方を閉じた男のそれは――まるで蟲のような目だった。


 蟲を見るような、ではない。ような心地だった。


 文字通りの検分。一切の情の入る余地も無い、ともすれば刀霊わたしたちよりも余程、そう。冷たくすらない、温度の無い視線。


 そうして、刃揃えを仰向けに茎から眺めて男は口を開いた。


「……やっぱり鉈じゃねェ? コイツ」


(……!)


 じょ、情どころか礼も備えていないのか、この男――!


「ぁンだよ。視たままを言ったまでだろう。半ばで折れて切っ先も亡くした太刀なんざそれこそ鉈みてえなもんだ」


 ……この男。わたしが視えている?


(どうして?)


「ぁ?」


 呪わしくも、かつての持ち主と同じようにわたしは疑問を投げかける。違うのは、きっと。


(どうして、わたしを拾った?)


「そりゃ、お前さんが他の刀と比べてツイてるかツイてないかだろうよ」


 この声が、届くかどうか程度だったのかもしれない。


「……ま、それよりアレだ。お前さん、は? 糞みてェな扱いが不似合いなほど、の良い出自だろう。何せ鍛った奴が流派も自分の名も彫ってねえくらいだ」


 そう。いのりだけが、わたしのなかごに刻まれた。


 ああ。


 思えば初めて。わたしは銘を問われ、応えたのだった。


(――薄氷うすらい。わたしは、そういう銘の、太刀。)



「そうか。んじゃあ薄氷。おれはどちらでも構わん、と先に言っておく。穢れは落とした。鞘も見繕ってやろう。このまま眠るか? それとも」



 出会いは暗い路地裏。言葉を交わしたのは閉じた鍛冶場。


「――それとも、百鬼なきりと共に魔を討つに殉じるを、選ぶかい」


 心残りがあった。特段、この刃を折ったことに後悔はない。あったのは、そう。


(……打ち直しを。)


「……へェ?」


 きっと、求めた心に間違いはなかった筈だ。でも、そればかりが真実ではない、と声を上げなければならなかったんだ、わたしは。


 にどれほど声が届かなくとも。果たすべき責務から逃げたわたしは、その時点で美しさを欠いていた。


(鉈呼ばわりは気に食わない。打ち直しを。そしてわたしが使い物になるか、あなたが振るって決めたら良い。)


 /


 くして契約は此処に結ばれた。


 安土にまれ、永き眠りの後に慶永の世に新生し、魔を狩る鬼に柄を預ける。


【水面 ラフ赤月遠 】。


 刻まれたいのり。やがて訪れる日ノ国の落日。




 夕京の都に跋扈ばっこする霊魔の首で野を築く日々に、刻まれることのなかった下の句を想う。


(つばき。)


「ン?」


(冬に落ちることは、赦さない。)



“其は消え入りなれども春をう”


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る