ジャズ【From:くらげ】

Fさんに誘われてナイトクラブへ行った。

イギリスの有名なジャズシンガーが来日しているとのこと。

きっと気に入ると思うよ、とFさんは言った。

彼の運転手付きの黒い車の窓から見える夜の町は私たちの暮らす町とはまるで違う。広すぎる歩道を大勢の人たちが闊歩している。どの店の窓にも洒落た照明器具がかかっていて、薄ぼんやりした琥珀色に包まれている。すべてが自信に満ち溢れているような感じだった。

車が停まる。降りる。背の高い建物ばかりある。高い建物しかない。

店のなかに入っていくのは艶やかに着飾った人たちばかりだった。私だけが場違いなような気がした。ひとりだったら間違いなく門前払いされただろう。だれもかれもがみんな私よりは育ちがよくて、頭が良くて、社会のなかできちんと生きている立派な人たちに違いなかった。自分が最底辺だと感じることは普段から少なくない。けれども、この町では一層それがはなはだしかった。みじめなくらい。

私は直前でFさんに買ってもらったドレスに着替えていた。光るイヤリングやネックレスを身につけて、髪の形も変えられ、顔には薄く化粧が施されていた。

お祝いだからこんな日くらいはね、とFさん。

どうやら私の誕生日らしかった。すっかり忘れていた。

窓ガラスに映る自分の姿は晴れがましい。たしかにそれらしく見える。普段は化粧などまるきりせず髪はぼさぼさで服装も適当。ちょっとした魔法にかけられたみたいな変身具合だった。きっと鯉子さんやラメさんに見せたら驚くんじゃないかな。でもいくら着飾ったってにじみ出る育ちの悪さは隠せていないような気がしてしまう。テーブルについてわけのわからない食べ物をフォークでつつきながらも気が気じゃなかった。嘘をついてるようで。それを周囲の本物たちは見抜いてるような気がして。

演奏が始まればライトが落ちる。薄暗闇は都心の高級クラブにあっても生まれ育った田舎のボロアパートの押し入れのなかにあってもいつもおなじで優しい。落ち着くことができる唯一の場所。

ジャズ。青紫色のスーツを着た黒人の男性がピアノを弾きながら歌う。素敵な声。本当に素敵な声だった。不幸の底であまりに涙を流しすぎたがために枯れてしまったような声。詩を歌う人の声。寂しく微笑むような声。

私の知ってる曲もあった。ムーンリバーとか。スマイルとか。

私はジャズが好きだ。ジャズというかビル・エヴァンスが特に。Fさんがわざわざここに連れてきてくれたのはそのことを知っていたからだった。

大ファンとは言え、まだ歴は浅い。なんせいまの部屋に越してきてからだった、好きになったのは。きっかけはラメさん。ラメさんの部屋の開けた戸から漏れる音に私の耳が反応して、流れていたエヴァンスのCDを借りてみたらすっかりハマってしまった。ちなみにラメさんの一番のお気に入りはベートーヴェンらしくて、棚にはディスクがびっしりと並んでいた。

文章の書き方も鯉子さんに学んでいるところ。その一環として生まれてはじめて小説を読んでいる。西加奈子という人の本。言葉に体温があって、自由で、どこまでも走っていってしまいそう。小説はすごい。黒い文字と白い背景さえあれば限りなく世界を創り出してしまえるんだ。絵を描くことにも似ていて、けれども絵を描くこととは決定的に異なる。

三人での生活をはじめてからというものの、あたらしく勉強になることが次から次に見つかって私はとてもうれしい。


ライブが終わって外に出ると、また黒い車が私とFさんのまえに停まった。乗りこんだ。運転手の人はひとことも話さない。

夜の都心を貫く光の筋を眺めていると、目のなかに一本の線が閃いた。その線はまた新たな線を呼び、葉脈のように広がって行き、黒と赤と青の色が滲み出て、やがてひとつの風景画になった。私はその映像を手放さないうちに、電話の音声メモへ描写のディティールを吹きこんだ。それを聞いていたFさんが、いい絵が描けそうかなと言った。近いうちにまたお見せします、と私は言った。

降りるとき、トランクから私のもともと着ていたみすぼらしい洋服が出てきた。それから特大のケーキが。

みなさんでお食べ。とFさん。

私は礼を言って、部屋に戻った。


玄関の扉を開けるとまずふたりの笑い声が飛びだしてきた。

リビングでゲームをやっていた。ソファに座る鯉子さんがおかえりと声をかけてくれる。ラメさんも鯉子さんのひざに横たえた頭を持ち上げて、おかえり。ただいま。関節を持たない白い人間がぐにゃぐにゃと画面のなかを動き回っている。なにかヘマをやるたびラメさんは脚をばたばたさせて大喜び。鯉子さんも絶叫していた。

私はテーブルにケーキを出した。すぐにふたりが反応した。コントローラーを投げ出した。

私がケーキに刃を入れる。ラメさんが柄を一緒になって握ってくる。はじめての共同作業だね、とウィンク。鯉子さんが紅茶を淹れるためにお湯を沸かす。鯉子さんが食器を取り出す。結局下手くそな私に代わって鯉子さんがケーキも切り分ける。

もう深夜に迫る時間。

三人で豪華なケーキにかぶりつきながら一日の出来事を話し合う。

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ひとつ屋根の下に暮らす三人の乙女たち 中野丸 @nakanokobushi

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