第46話 宵の明星
「あたし、寂しかったんだ。忍さんと先生が結婚するって聞いて。湊人も入れて三人で家族になってしまうのが嫌だった。あたしだけがまた仲間外れになるような気がして寂しかったの。澤田先生と忍さんが結婚しても、湊人だけはそばにいてくれるって思ってた」
湊人の視線が僅かに瑠璃の方へ傾いた。が、完全にそちらを見ることはなかった。視線を合わせてしまったら瑠璃が話しにくいだろうという湊人の配慮によるものだ。
「だけど、あれから湊人が全然アトリエに来なくなって、あたし、また置いてきぼりにされたような気になったの。何度行っても湊人の筆が入った形跡がなくて、もう湊人はこの絵を描くのをやめちゃったんだって思ってた。もうあたしと一緒に描くのが嫌になったんだなって」
――だからなんで主語がオレなんだよ――と言いたい気持ちをグッとこらえて、湊人は続きを待った。
「だけど、やっぱりあたしは湊人と一緒に描きたい。だから今週だけ猶予ちょうだい。今度の土日から湊人が入れるようにする。今週は湊人が学校に行ってる間、あたし頑張るから」
「ふざけんなよ。もう十一月の二週目なんだぜ。オレは三週目のアタマから入んのかよ。締め切りは今月末だぞ。遅せーだろうが」
「じゃあ、どうしたらいい?」
「明日からオレが入る」
「え?」
今度こそ湊人はちゃんと瑠璃と目を合わせた。
「お前昼間描けるんだろ? オレは学校帰りにアトリエに直行する。センセーには迷惑かけるけど、夜まで一緒に描こう。それで多分間に合う」
「湊人……」
「そんな顔すんな。オレが絶対に間に合わせてやる。相棒を信じろ」
「ごめん。ごめんね湊人。相棒を信じるから。あたしも相棒に信じて貰えるように頑張るから」
湊人は気持ちを誤魔化すように瑠璃の頭をワシワシと撫でた。「わ、何すんの、ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん!」という瑠璃の抗議を無視して、湊人はけらけらと笑った。
「ばーか。『相棒に信じて貰う』なんてのは、やることやってから言えってんだ」
「何よ、湊人だってずっと来なかったくせに」
「なんだよオレがいなきゃなんにもできねーくせに」
「もー、うるさい」
瑠璃のグーパンチが湊人の胸に入る。「何それ猫パンチ?」と笑う湊人に、瑠璃は何発も見舞ってやった。
が、四発目の拳は湊人の手の中にスポンと収まった。
「お前さー、誰に吹っ掛けてっと思ってんのよ?」
湊人は瑠璃の手を掴んだまま一気に距離を詰めて来た。背中に橋の手すりが当たって逃げ場を失った瑠璃は、いきなり視界いっぱいに入って来た湊人に焦点が合わせられず、呼吸すらできなくなっていた。
「猫だってもう少しまともなパンチして来るぜ?」
湊人の顔が近付いて来て、瑠璃は咄嗟に目を閉じた。
ゴツン。
「いったーい!」
「オレ、石頭だから」
「女の子に頭突きするバカがどこにいんのよ!」
「ここ~」
「信じらんない、おでこにコブができるー!」
「その方がきっと可愛くなる」
「なにー? ちょっとそれ失礼じゃない!」
「これ巻いとけ」
湊人はおもむろにマフラーを外すと、瑠璃にグルグルと巻き付けた。
「寒かったんだろ。やせ我慢しやがって」
「あったかい。ありがと」
「なんか去年もこんなことあったな」
「うん」
「手袋してこなかったのかよ」
「うん」
湊人は瑠璃の手を取ると、手をつないだまま自分のポケットの中に入れた。瑠璃の手はキンキンに冷え切っていた。
「こうしてりゃ、あったかい。そっちの手は自分のポケット入れとけ」
「首はあったかくなったけど、背中が寒い」
「はぁ? オレ、これ以上脱げねーぞ」
「脱げとか言ってない! 普通にギュッてしてくれたらいいじゃん」
一瞬の間が開いた。彼女のパーソナルスペースの欠如に喜んでいいのか悪いのか判断できないまま、彼は多少の罪悪感と共に瑠璃を背後からそっと抱きしめた。
「まだ寒いか?」
「湊人あったかいね、もうちょっとそうしてて」
「ってゆーか、あの、オレ的にちょっと限界」
「え? 何が?」
「いや、ごめん、オレその、いろいろ、ええと、まあ、無理!」
急いで離れた湊人は、再び彼女の手を取ってポケットに乱暴に突っ込んだ。瑠璃にとって湊人は兄弟か家族か、そういう種類の何からしい。
「か、帰るぞ」
「え? もう少しいようよ。そろそろ星が出てくるよ」
――あーもうコイツはなんでこう、あああああ!
「ほら、宵の明星。見て見て、あそこに金星」
ついさっきまで凹んでいたのに、湊人にグーパンチを見舞い、あっさり立ち直って金星で喜んでいる。この気持ちの変化に大抵の人はついて行けない。もちろん湊人だってついて行けているわけではないが、それなりに受け入れ態勢は出来ている。
寧ろこんなにあからさまに意思表示をしているのに全く気付いて貰えないというこの状況の方が、湊人に与えるダメージは大きいようだ。
――普通、手ぇ繋いだ時点でなんか考えるだろーが。本当にお前、小学生で人付き合い停止してんのかよ。つーかオレ、コイツに甘すぎだろ!――という心の叫びが届くわけもなく。
今日も湊人は一人、空回りする。
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