第47話 相棒

 それから瑠璃は毎日お昼からアトリエにやって来て、ひたすら描き続けた。澤田が下のプライベートルームにいても、一人で黙々と描いていた。

 たまに心配した澤田がアトリエにやって来て、いろいろ入れ知恵していくことがあったが、湊人が来るまではほとんど一人で描いていると言ってよかった。


 相棒をこれ以上失望させたくない、本物の相棒として認めて欲しい、瑠璃の中で『湊人の相棒』でいることが何より大切に感じられた。

 今まで何度も我儘を言って湊人を困らせた。ミサンガも作って貰ったし、居場所も湊人が作ってくれた。嫌なことがあるとすぐに逃げ出してしまう自分を引き留めて引っ張り戻してくれるのも、いつも湊人だった。

 迎えに来てくれて、泣き言を聞いてくれて、マフラーも貸してくれて、一つの絵を一緒に描いてくれた。こんな大切な仲間をこれ以上振り回しちゃダメだ。


 学校に行けば湊人には三宅さんをはじめとしたたくさんの友達がいるのだろう。家に帰れば忍さんがいて、これからは澤田先生もいる。だけど、他の誰にも真似できない特別なつながりが自分にはある。絵の相棒は自分しかいないのだ。


 湊人が学校から帰ってくるとエアブラシメインで仕上げて行く。瑠璃は彼が現れる少し前に、コンプレッサーやハンドピースの準備をして待っている。

 描けば描くほど息が合って来て、最初の頃は「マスキングの準備して」と言っていたのが次第に「マスキング」だけになり、しまいには黙っていても次にマスキングが来るというのが瑠璃に分かるようになってしまっていた。


 一緒に描き始めたころからは想像できないほど、会話がシンプルになって行くのを、澤田は一人ニヤニヤして眺めていた。最初ここに来た頃は「赤ってどの赤?」なんて言っていたのに。


「瑠璃、ここカドミウムイエローかけて」

「クロムイエローの方が良くない?」

「あー、そっちがいいな。クロムで」

「おっけー。こっちのハイライトも入れとくよ」

「おう」


 色の名前も覚えたし、技法もだいぶ覚えた。澤田には、自分が教えるよりも湊人と一緒に描いている方が、余程短期間で実になっているように思えた。



 十一月も四週目になり、湊人は0.2mmノズル、瑠璃は面相筆しか持たなくなってきたころに、澤田が「妖精が死んでるな」と言い出した。

 二人とも人物画をほとんど描いた事がない。湊人は風景画と静物画がメインだし、メルヘンイラストから入った瑠璃は動物画が多い。そのせいか、人物画が二人とも苦手なのだ。


「末端まで神経が行き届いてないんだよね。指先とか、視線とか。この妖精は何かに手を伸ばしているけど、この視線の先には何があるのかな? 何もない空間を見ているようにしか見えないんだ」

「あ……あたし考えてなかった」

「オレも、具体的なものじゃなくて抽象的な『希望』みたいなもの」

「漠然と何かに手を伸ばしてたんだよね、二人ともね。そういうのが見ている人に伝わってしまう。絵を描くということは、フレームに入っていない部分も全部想像する事なんだ。その広い世界のごく一部だけを切り取って、額縁の中に閉じ込める作業だと思って描くといいよ。それがたとえ湊人の言うような抽象的なものであったとしても、二人の意識が一致していないとね」


 見えていない部分。瑠璃は何か掴んだ気がした。自分の今までの生き方がまさにそれだったのだ。自分の見えている範囲が自分の全て。そこから一歩出たところを想像できない。

 この絵を自分の部屋からここに運び込んだあの日、湊人はすぐにテーブルとコップを出してアイスティーを注ぎ分けてくれた。自分が喉が渇いていたのもあるだろうが、あの時彼は何と言ったか。「ほら、瑠璃も飲めよ」そう言ったはずだ。湊人は自分というフレームから外れた部分もちゃんと見えていた。

 そして今も、湊人は抽象的であるにせよ、その先にあるものを想像し、それに向かって手を伸ばした絵になっていた。

 フレームの外を見る。それができるようになればいい絵も描ける。いい絵が描ければ『自分』という枠を超えたところまで考えることができるようになるかもしれない。


 その日の帰り道、並んで歩いていた湊人がふいに「なあ」と声をかけて来た。


「ん?」

「オレさ、なんか今までお前のこと結構ぞんざいに扱ってたなって。今更だけど、俺は瑠璃がADHDだって知ってたんだ。他人に言われたことでパニックになったり、自分のことしか考えられなかったりするのはADHDのせいだってセンセーから聞いててさ」

「そうだったんだ」

「でもオレ、だから何なんだよって。ADHDなら何でも許されるわけじゃない。それを許していたら、瑠璃はこの先大人になっても、ずっとこのまま誰にも馴染めない。それよりは瑠璃が少しでもたくさんの人と仲良くできるように順応させた方がいいじゃんって思ってさ」

「うん」

「だからお前がパニックになるってわかってても、言わなきゃなんないと思ったことは言っちゃったし、なんていうかフツーの友達と同じように接してたようなとこがあって。でも、それで良かったのかなぁって最近考えてたんだ。オレ、そういうの専門家じゃないし、却って瑠璃を混乱させただけかなって思ったりしてさ」


 彼は瑠璃の方をチラッと見た。瑠璃がどんな顔でこの話を聞いているのか、気になっていた。だが夜の帳が下りた街では、仄暗い街灯の下で彼女の表情を窺い知ることは難しかった。


「瑠璃にとってのオレの存在価値ってどんなもんか知らんけど、少なくともオレにとって瑠璃は大事な相棒だからさ。あの絵を一緒に描けるのは瑠璃しかいないからさ」

「湊人」

「あ?」

「湊人大好き。湊人が一番あたしのこと考えてくれてる」

「お、おう」


 いきなりの展開にオドオドする湊人に、瑠璃は追い打ちをかけるように言った。


「あたしを一番成長させてくれたのは湊人だし、これからも一番成長させてくれるのは湊人のような気がする。これからもずっとずっと、大人になってもあたしの相棒でいてくれる?」

「お……おう!」


 ――何を動揺してるんだオレは! これってつまりあれか、プロポーズ的な?


「三宅さんには、『絵の相棒だから許してね』って言っといてね。彼女に恨まれたら困るから」

「待て、それ誤解」

「え、何が?」

「だから三宅関係ない」

「だって湊人のカノジョじゃないの?」

「あいつには彼氏がいるって!」

「えええ?」


 二人のすれ違いはまだまだ続きそうである。

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