第45話 一方通行
湊人は中間テストが終わっても来なかった。立て続けに体育祭があったのだ。
三年生になるとそういった委員会活動やクラブ活動から一斉に解放されるが、逆に二年生はそれぞれの組織で中心的な役割をする。しっかり者の湊人がいろいろ任されているのは、当然と言えば当然だった。
気ばかりが焦るまま、湊人無しで十一月を迎えてしまった。締め切りまで一ヵ月を切った今、なりふり構っていられないことなど十分承知していたが、瑠璃はどこから手を付けたらいいのかわからなかった。
澤田も敢えて口出しはしなかった。優子も忍から澤田の方針を聞いていたので、あれ以来何も口を出さない。自分たちで解決しなければならないことなのだ、相棒なのだから。
――湊人に会いたい。会って早くあの絵を一緒に描きたい。
瑠璃のストレスは限界に達していた。これ以上後ろに延ばしたら、締め切りに間に合わなくなる。これに出せないとなると、母の援助は受けられなくなるのだ。
瑠璃は途方に暮れた。
十一月も二週目に入った月曜日、「こんちゃーっす」の声と共に湊人が瑠璃の家にやって来た。
「湊人君いらっしゃい。学校帰り?」
「はい、やっと今週に入って解放されました。これからガンガン描けますよ。瑠璃いますか?」
「二階にいるわよ」
「ちょっとこれから瑠璃連れて出かけてもいいですか? すぐそこなんで」
「湊人君が一緒なら」
「じゃ、瑠璃呼んできまーす」
まるっきりいつもと変わった様子の無い湊人に、優子は一人苦笑いしてしまう。結局グズグズ言っていたのは瑠璃だけだったらしい。いつものことではあるが。
「瑠璃ー、入るぞー」
「え、湊人?」
「着替え中?」
「違うけど」
湊人が「なんだよー、紛らわしい声出すなよー」と言いながら入って来る。
「何? どうしたの急に」
「どうしたのじゃねえよ。ちょっと外出るぞ」
「やだ、寒いし」
「ずっと家ん中こもってたら、脳味噌腐るぞ。いいからついて来い」
仕方なくコートを羽織って下に降りると、優子が「いってらっしゃーい」と呑気に声をかけてきた。瑠璃がブツブツと文句を言いながら外に出ると、湊人が「こっち」と言って先に立って歩く。
ダラダラと歩いている印象なのにやたらと足が速い。歩幅が違うんだから少しあたしに合わせてよ――などと瑠璃は心の中で悪態をつきながらもついて行く。
「どこ行くの?」
「鎌の淵公園」
「えー!」
「えー、じゃねえよ、外の空気はいいだろ? 頭がすっきりする」
「寒いじゃん!」
「ちょっと寒いくらいの方が脳が覚醒するってもんだ」
少し外出しないでいるうちに随分陽が短くなっている。夕方五時ともなると、辺りはだいぶ薄暗い。いつの間にこんなに寂しくなったのか、木々はみんな葉を落としてしまっていた。
「何の用?」
「式の日取りが決まった」
「先生と忍さんの?」
「ああ」
瑠璃は何と言ったらいいのかわからなかった。この場合は「おめでとう」でいいのだろうか、と。
だが、瑠璃にとってはちっともおめでたくなんかない。心にもないことなんか言いたくないのだ。
「瑠璃とお母さんに来て欲しいって、うちの親が言ってた」
「うん、行くよ」
手袋とマフラーして来ればよかった、と瑠璃は思った。去年も同じことを考えた筈だ。あの時も十一月だった。家に着くまで湊人がマフラーを貸してくれたんだ。
ぼんやりしながら歩くままに、鎌の淵公園に着いた。薄暗くなった公園には、犬の散歩のおじいさんくらいしかいない。冬の夕暮れにわざわざ寒そうな河原に来るような物好きなど、自分たちくらいだろう。
去年は四阿だったか、今年はまっすぐ吊り橋に向かっていく。いつものあの吊り橋だ。
「なあ、ルミエール、出す気あるか?」
「湊人は?」
「オレが聞いてるんだよ。いちいちオレの顔色窺って合わせんな」
「あたしは……出したい」
「お前今まで忙しかったのか」
瑠璃には答えられなかった。忙しくなんかなかったからだ。忙しくもないのに、ほんの一筆も入れなかった。その言い訳を必死に探していた。
吊り橋の真ん中まで来ると、湊人が手すりに寄り掛かって川を見下ろした。いつもは優しい表情を見せている多摩川も、こうして暗くなるとなんだか恐ろしいものが棲んでいるような気がしてくる。
湊人は瑠璃に視線を合わせないまま話し始めた。
「オレは先週までは地獄みたいに忙しかったけど、それは今週からの『ルミエール』の為だ。本気出して仕事頑張って、その代わり今月の仕事は全部免除して貰った。ここからはオレがエアブラシで仕上げる部分のはずだから、オレが戻ってくるまでに瑠璃が完璧に下地を作っておいてくれる予定だったよな?」
そうだった。瑠璃は確かにそんな話をした記憶があった。だが、澤田の結婚や、その後全く姿を現さない湊人に気を取られて、すっかり忘れていた。
「でもあたし、湊人がいないと――」
「オレさ、やる気のないやつと組む気ねえんだよ。オレは上を目指してんだ。覚悟もできてねえような中途半端なやつに足引っ張られたくねえ」
瑠璃は言葉を失った。湊人だけは自分を見捨てることはないと信じていた。そんな湊人に甘えていたということに、たった今気づいた。
気づくのがもっと早ければ。こうして毎度毎度自分を甘やかしてくれる誰かにベッタリと依存してその人の足を引っ張っておいて、いざ切り捨てられる時が来たときになってそれに気づくのだ。
今まで何度も経験していたことの一つだ。それなのに、まだ自分は学習していなかったのか。
「誰かと組んで何かをするってのはさ、相棒を最大限尊重する事だと思うんだよ。だからオレはそうしてきたつもりだった。だけどそれって一方通行じゃ成り立たねえんだよ」
ここでまた短気を起こしたら今までと同じだ。学習したんだから実践しないと。今ここで甲州トリエンナーレを諦めてしまったら、母に蔑まされることになる。そして協力が得られないまま大人になってしまい、仕事に就けずに引きこもりになってしまうのか。
――そんなのは嫌だ!
「やる気ある。あたし、湊人の足引っ張らない。本気であの絵を仕上げて、あの絵で大賞取る」
湊人が瑠璃に視線を移した。怒っているわけでも悲しんでいるわけでもない、表情の窺い知れない目をしていた。
「お前、いつも同じ事言うよな。もう後がないってとこまで甘えて甘えて甘え倒して、限界くると『今から本気出す、自分にはそれができる、大賞を取る』ってさ。その根拠のない自信ってどっから来るんだよ? 今から頑張られても邪魔なんだよ。お前が頑張っておかなきゃならなかった時期は過ぎたんだ。ここから先はエアブラシの仕上げなんだよ」
「ねえ、あたし、どうしたらいい? どうしたら一緒に描かせてくれる?」
「自分で考えろよ」
湊人は瑠璃がどう出るか、じっと待った。
ここで瑠璃を切り捨てて一人で描くのは簡単だ。むしろその方が楽だろう。だが、あの絵は二人で完成させたかった。二人の名前で発表したかった。
「聞いてくれる? 正直に言うから」
湊人は黙って頷いた。
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