第44話 絵描きの誇り

 二人の絵はそれっきり進まなくなってしまった。「瑠璃が来なくてもオレは描く」と言っていた湊人が、中間試験の時期に入ってしまったのだ。

 瑠璃は湊人に会いたくなくて午前中に何度かアトリエに足を運んだが、彼の筆が入った形跡が全く無いのを見ては、何もせずに家に帰る日々を過ごしていた。


 このままでは甲州トリエンナーレには間に合わない。澤田はじれったい想いをしつつも、二人には一切口出しはしなかった。

 コンペなどいくらでもある、甲州トリエンナーレを逃すのも、二人にとっていい経験になるだろうと思われた。


 だが、黙っていない人間が一人いた。雨宮優子、瑠璃の母である。

 澤田のアトリエへ出かけてもすぐに戻ってくる娘に、苦言を呈していたのだ。


 あれ以来すっかり忍と仲良くなった優子は、ママ友としてお茶など飲みながら子供たちのことについてお喋りすることが増えていた。

 九月に湊人が家に来て二人が喧嘩してから、瑠璃が澤田のところへ行っても何もせずにすぐに帰ってきてしまうことや、湊人が文化祭の実行委員になったり中間テストがあったりと学校行事に忙殺されていることなど、こまめに報告し合っていたのだ。

 その時、澤田から聞かされた「二人の絵が全く進んでいない」という話を、忍が優子にチラッと話したのがきっかけだった。

 優子は部屋に戻ろうとした瑠璃を引き留めた。


「ねえ、瑠璃。どうして最近、澤田先生のところに行ってもすぐに帰って来るの? 例のルミエールの絵はどうなったの?」

「湊人がいないから描かない」

「湊人君がいないと描けないようなものかしら。もう十分二人で話し合ったんでしょ。相棒がいなければ描けないなんていう時期は、とっくに過ぎてると思うんだけど」

「だって描きたくないんだもん」

「ちょっとそこ座って」


 瑠璃はいやいやダイニングテーブルについた。お説教されるのが雰囲気でわかっているからだ。だが、絵は描いていない、勉強はしていない、急いで部屋に戻る用事がないことなど、母にはお見通しなのだ。逃げられるわけがない。


「なあに」

「明日お母さんが死んだらどうする?」

「え?」

「明日、お母さんが、死んだら、瑠璃はどうするの?」


 優子は一つずつはっきりと言った。今あなたが聞いた言葉は聞き違いなんかじゃないのよ、というように。


「死なないよ」

「質問に答えなさい。お母さんが死んだらあなたはどうするの?」

「わかんない」

「お父さんはいない。おじいちゃんおばあちゃんもいない。お母さんが死んだら、瑠璃は一人ぼっちになるのよ」

「一人ぼっち……」


 突如、瑠璃の最も嫌いな言葉が襲い掛かって来た。だが、今まで考えた事すらなかったが、実際に母が今居なくなったら、彼女は物理的に一人ぼっちになるのだ。


「もう小学生じゃないのよ? 大人と見做される年齢に近付いてるでしょ? 一人で生活することも考えなくちゃいけない」

「だけどお母さんはまだ死んでないよ」


 瑠璃は食い下がる。都合の悪い仮定など聞きたくない。


「うん、そうだよね。でもお母さんがずっと生きていたとして、瑠璃も大人になって行くよね? お母さんはイラストレーターの仕事をしてるけど、瑠璃はいつまでお母さんに食べさせて貰う気でいるの? お母さんが死ぬまでずっと?」

「え……大人になったら仕事するよ」

「大人になったらって、もう目の前よ?」


 瑠璃は言葉を失った。母がいる限り、自分はずっと母の娘だ。それ自体は間違っていないが、ずっと母が何でもしてくれると思って疑っていなかったのだ。

 親は子供の面倒を見る、それが瑠璃の中はでは常識だった。その考えは幼稚園の頃から進歩していなかったのだ。

 もしも中学や高校に行って、同年代の子たちと触れ合っていたなら、自分の将来について考えることもあったのかもしれない。だが、高校受験もしていない、大学受験の心配もしていない瑠璃は、『進路』や『就職』など、この先の人生設計というものが完全に欠落していた。ただ漠然と「いつか大人になったら何かの仕事をする」くらいにしか思っておらず、その時期がもう目の前に差し迫っていることに気付いていなかったのだ。


「瑠璃はどんな仕事がしたいの?」

「お母さんみたいな、絵を描く仕事」

「イラストレーターは楽じゃないわよ。クライアントが口頭や文章で伝えてきたイメージを絵にするだけじゃなくて、決められた期日までに完璧に仕上げなきゃいけないの。期日までに『自分が』納得のいくものを描いたんじゃ遅いのよ。期日までに『クライアントが』納得できるものを仕上げるの。その為には何度も何度も描き直しが発生するでしょ。その分、前倒しで仕上げないといけないの」

「うん」

「今の瑠璃には無理よね」

「そんなことないもん」

「湊人君がいなきゃ描けないなんて言ってる人には無理よ」


 母はぴしゃりと撥ねつけた。


「コンペはクライアントはいないんだから、自分が納得できればいい。実際の仕事と比べてずっとずっと楽なのよ。それすらできない人が何を甘ったれたことを言ってるの?」

「甘えてなんか――」

「絵描きをバカにしないでちょうだい。お母さんは自分の仕事に誇りを持ってるの。どんな理由があれ、締め切りまでに仕上げるのがプロだよ。今回のコンペに間に合わないのなら、瑠璃に絵を描く資格はないと思う。だからそのときはお母さん、瑠璃が絵を描く事を応援しない。この世界はそんなに甘くないよ」


 瑠璃は母という逃げ道を失ってしまった。

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