第42話 牛乳パック

 九月に入ってから、湊人がまたアトリエに顔を出さなくなった。どうやら文化祭で実行委員になってしまったらしい。瑠璃は一人寂しく作品を仕上げて行くことになった。


 森の奥の深みを出すために、瑠璃は薄く溶いた絵具を何色も重ねていった。奥行きを見せるには、これが一番手法的に合っている気がしたのだ。

 これは地味に時間と手間のかかる作業だったが、瑠璃はこの作業が好きだった。何より湊人が学校に行っている間に、こうして自分が湊人の為に少しでも制作を進めておけるのが嬉しかったのだ。

 もう役立たずなんて誰にも言わせない――そんなつもりで取り組んでいた。もちろん、このアトリエにそんなことを言う人間などいないのだが、それまでの彼女に対する学校での扱いが無言のうちに彼女に圧力をかけていた。


 この薄めた絵具を何色も重ねるという手法は、湊人から教わった。

 エアブラシだとそんなやり方はしないのだが、彼は筆を持たせるとまるで別の描き方をする。最初から深い色は使わないのが湊人のやり方なのだ。

 他にも彼はドライブラシや掻き取りなど、瑠璃が未だ澤田から教わっていないような特殊な技法をあれこれ披露し、彼女をその度に驚かせた。瑠璃はそんな湊人からいろいろなものを吸収していった。


 それを澤田から指摘されることもあった。「湊人の手法を盗んだんだね」と言われたときは一瞬恥ずかしかったが、その直後に「湊人は僕から盗んだんだよ。教えていないことを自分から盗みにくるのは素晴らしいことだ」というのを聞いて、少し誇らしく感じたりもした。


 澤田は湊人の知らないことを一つ瑠璃に教えてくれた。パレットのことだった。

 湊人は基本的に筆で描くのは水彩か油彩だったから知らなかったのだろう。アクリルはエアブラシでしか使っていなかったのだから、知らないのも無理はないのだが。

 アクリルは油彩と違ってあっという間に乾いてしまう。そして乾いたら水に溶けなくなる。それは非常に優れた長所でもあると同時に短所でもある。

 木のパレットだと、こびりついて洗うのがとても大変なのだ。

 確かに、毎日最後に洗う時に苦労していた。完全に固まってしまうと端からペロンと剥がせるのだが、中途半端に乾いているとそうはいかない。しかも色によってはパレットに染み付いてしまう。


 澤田はポートフォリオの棚から、開いて乾かした牛乳パックを持ってきた。いつもポートフォリオを持ってくるときに不思議に思っていたのだ。なぜこんなところに開いた牛乳パックがたくさんあるのだろうか、と。


「この牛乳パックがちょうどいいパレットになるんだ。最後は洗わなくていい。このままゴミ箱にポイだ。だから牛乳パックはなるべくとっておいた方がいいよ」


 これはまさに目からウロコだった。湊人すら知らないと聞いて、瑠璃はささやかな優越感に浸った。


 やはりこうやって二人になってみると、澤田がとても素敵に見える。なんでも知っていて、心に余裕があって、瑠璃をふんわりと大きく包み込んでくれる。早くに父を亡くしたのも手伝っているのだろうか、瑠璃は同年代の女子と比較して、大人の男性に憧れる傾向が強いのかもしれない。


 更に瑠璃のADHDという特性は、こと恋愛に関して厄介だ。目に入る新しい情報にすぐに刺激されてしまう。以前澤田のキスシーンを目撃したあと、湊人の優しさに触れて心が揺れ動いたというのに、こうして澤田と二人きりになるとまた澤田に傾いてしまうのだ。

 そしてまた澤田の相手に嫉妬し、湊人に救いを求め、『三宅さん』の妄想に脳内が占拠される。どこへ行っても誰に手を伸ばしても、湊人に三宅さんがいるように、また澤田に彼女がいるように、その相手には別の誰かや別の居場所がある。このアトリエに依存しているのは瑠璃だけなのだ。


「先生……先生は、恋人いるんですよね」


 ついうっかり口から出てしまった。今は牛乳パックの話だったのに。


「いるよ」


 そして聞きたくない言葉を本人の口から引き出してしまった。瑠璃はパニックになると、それを繕おうとしてますます余計な事を言ってしまう。こんな時は黙った方がいい。それを自分で理解していながら、喋ることを我慢できない。それが注意欠陥・多動性障害だ。


「素敵な人なんでしょうね」

「もちろん。絵しか取り柄の無い僕には勿体ない人だよ。僕がこんなに頼りなくても彼女がしっかり者だから安心できる」

「結婚、考えてるんですか」


 一瞬、何か躊躇するかのような間が開いた。


「来年の三月くらいの予定だよ」


 ――結婚、するんだ。


「そうですか。おめでとうございます」

「瑠璃ちゃんも来てくれるかい?」

「はい……行きます」


 辛うじて返事はしたが、澤田が結婚するという事実を受け入れることができず、もう訳が分からなくなっていた。


「先生と同年代の人ですか」

「そうだよ。ちょっと年上。彼女はバツイチだけど、僕にはそんなことはどうでもいいことだ。彼女が僕のそばにいてくれることの方が大切だからね」


 ――バツイチ?

 瑠璃は最近この言葉を聞いたような気がした。とても身近なところで。


「同年代なら、今から子供は難しいんじゃないですか」

「いや、僕は初婚だけど、彼女は子連れ再婚だから」

「……湊人ですか」


 むきになってしまった。そんなことまで聞く必要などなかったのに。


「なんだ、知ってたんだね。そう、湊人のお母さんと結婚するんだ。湊人が息子になるのはちょっと不思議な感じがするんだけどね」

「あたし、結婚式行きます。一緒にお祝いさせてください」

「ありがとう」


 瑠璃は立ち上がった。ここに一秒も居たくなかった。


「今日は帰ります。お母さんに牛乳パックとっておいて貰わないと、すぐ捨てちゃうから。また明日来ます」


 瑠璃はもう澤田の声など聞いていなかった。逃げるように彼のアトリエを出て行った。

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