第39話 あの子

「今はまだ画面の大まかな部分しか描いてない。オレが合宿行ってる間、瑠璃のやつサボリ倒してたみたいでさ」

「湊人と一緒に描きたかったから、待っていたんじゃないのかい?」

「そうは言ってたけどな」


 澤田はコーヒーを二つ持って来ると折り畳みテーブルの上に乗せ、いつものようにディレクターズチェアを引っ張って来た。


「それで、ここには持って来られそうかな?」

「うーん、まあ、持って来られなくはないけど」

「四十号だろ? 僕のキャンバスバッグを使うといいよ。五十号までは入る」

「じゃ、それ借りる」

「まあ、できる限り二人で頑張ってごらん。いよいよ困ったら持っておいで」


 ハンモックに座っていた湊人は、コーヒーを飲みながら「んー」と返事をする。


「で、式はいつ挙げるんだよ」

「来年の三月を目標に」


 湊人はコーヒーを噴きそうになるのを辛うじてこらえ、「目標ってなんだよ、目標って」と笑った。


「コンペと個展の隙間を狙ったらそこしかないんだよ。審査員の仕事も入っちゃったしね」

「なんだ、ジューンブライドがいいとか駄々こねられてるかと思った」


 澤田は「まさか」と肩をすくめる。


「一刻も早くって言われるよ」

「はいはい、ごちそうさまって……言いたいとこだけど、どーせ『一分一秒でも若いうちに』って言われたんだろ?」

「そういうことは知ってても言わないのがジェントルマンってもんだよ、湊人クン」


 湊人はゆっくりとカップを置くと、「オレさ」と上目遣いに澤田を見た。


「ん? なんだい?」

「オレ、センセーのこと『お父さん』なんて呼べねえよ」

「別に呼ばなくていいさ。僕は忍の夫になるのであって、湊人のお父さんは別にいる。子供が親に左右されることは何一つ無い」

「センセーのこと、親父って認めたくねえって意味じゃねえよ。センセーはオレにとっては『センセー』なんだ。それ以外のもんじゃねえ。頭硬くて悪いけど」


 澤田はハハハと声に出して笑った。彼にしては珍しい。わざとなのかと湊人は訝った。


「僕にとっても湊人は湊人だ。それ以外のものじゃない。そんな簡単に親子になんかなれるものじゃないさ。それに僕と湊人はずっとこのままの関係でもいいんじゃないかと、僕自身は思ってる」


 暫くどちらも言葉を発することは無かった。静かに時間が流れ、少しずつコーヒーが冷めて行く。湊人ほどに若いとこんな真夏はアイスコーヒーが飲みたくなるのだが、澤田は一年中ホットだ。オレも三十過ぎたらホットばっかりになるのかな、などとまるでその場に関係のないことを考えては、心の中で笑う。


「もしかしたらさ、オレが誰かと結婚して、自分の子供ができたときに初めて、センセーのこと『親父』って思うのかも知んねえよな」

「ああ、それはあるね。それでも湊人はきっと『センセー』って呼ぶと思うけどね」

「オレもそう思う」


 湊人は立ち上がると「じゃ、そろそろ行くわ」と言った。今日は瑠璃と一緒に絵具を買いに行く約束をしていたのだ。少し早めに出て、澤田に進捗の報告をしに来ていたというわけだ。


「もうちょっとこまめに報告においで」

「了解」


 アトリエを出ると、真夏の太陽が容赦なく湊人に襲い掛かる。お盆を過ぎたとは言え、八月の太陽はまだまだ狂暴だ。湊人はリュックから帽子を出した。

 道路には陽炎のようなものが見える。数十メートル先の景色がゆらゆらと上昇気流で揺れて見えるのだ。この現象を絵にしたい、と湊人は考える。目に入るもの全てを、自分のエアブラシで表現してみたい。


 ついこの間まで綺麗な青に咲いていたアジサイが、クラウディピンクとスティールブルーのまだらになっている。工場の夜景を描いている間に夏になっていて、あと一週間もすれば賑やかなアブラゼミも大人しくなってしまう。


 湊人がぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、ふと道路の反対側から彼を呼ぶ声が聞こえた。同じクラスの三宅だった。彼女はセミロングの髪を暑そうに避けながら手を振っていた。


「小笠原君、どこ行くの?」

「ああ、ちょっと買い物。駅前の画材屋まで」

「小笠原君、絵なんて描くの?」

「うん、まあ」


 三宅は自然に湊人の隣に並んだ。彼女もどうやら駅の方へ行くらしい。


「この前の……って言っても知らねえと思うけど、武蔵野ビエンナーレっていうイラストレーションコンペティションで賞とったもんだからさ、気を良くして次の甲州トリエンナーレっていうコンペにも出そうかなって」

「えー? 小笠原君ってそんな凄い人だったの?」

「別に凄かねえよ」


 と言いながらも、内心悪い気はしない。褒められて喜ばないほど湊人はスレてはいないのだ。


「ごめん、本当の事言うとね、小笠原君ってとっつきにくい人だと思ってたんだ」

「そうかもな」

「でも話してみるとそんなこと無かったから、びっくりしちゃった。この前の合宿の準備の時だって、みんなの前ではめんどくさそうな顔してるけど、陰ではみんなのこと考えていろいろ気を使ってるんだなーって思ったし。本当は繊細な人だよね」


 そうでもねえよ、と言おうとしたが、わざわざそうやって否定するのも失礼な気がした湊人は、「そうかな」と適当に言葉を濁した。

 こんな時、瑠璃なら「そんなことないよ」としつこく否定しただろう。そしてめんどくさい人に認定されてしまう。そのパターンがだいぶ湊人にはわかるようになっていた。


「三宅はどこ行こうとしてたの?」

「オープンキャンパス。誰かと一緒に行きたかったんだけど、志望校知られるのも恥ずかしいから一人で行こうと思って。誰かに遭遇しないように、こんな中途半端な時間にしちゃった」

「そっか、そうだよな。来年はもう受験だもんな」

「小笠原君は志望校決まったの?」


 三宅が無邪気な笑顔を向けてくる。大学に行くのが当たり前という世界で生きている彼女を、湊人は少し羨ましく思う。


「オレは大学行かねえから。母子家庭だし、そんなに金銭的な余裕ねえんだわ」

「え、そうなの? ごめんね、変な事聞いて」

「別にいいよ。そもそもオレ勉強嫌いだし、大学に行かない理由ができてホッとしてる」


 本当は美大という選択肢もあった。だが、これから澤田が家族になるのだ、その必要もないだろう。


「小笠原君の絵、見たいなぁ」

「今なら武蔵野ビエンナーレの上位入賞作品が武蔵野美術館に展示されてるよ。気が向いたら行ってみて。八月末までだから」

「うん、ありがとう」


 画材屋が見えて来た。入口のところに貼り出しているイラストコンペの案内を熱心に見ている瑠璃の姿がそこにあった。


「じゃ、オレここで買い物すっから」

「うん、またね」


 その声が耳に入ったのか、瑠璃が振り返った。ちょうど三宅が手を振り、湊人が片手を上げたところだった。


「湊人……」

「よぉ、早いじゃねえか」


 瑠璃に声を掛けると、三宅が振り返った。彼女は瑠璃を見て「あっ」という表情を見せた。明らかにその目は瑠璃のミサンガを捉えていた。

 瑠璃に向かってちょこんと頭を下げた三宅を見て、瑠璃は「今の誰?」と聞いて来た。


「ああ、クラスの友達。偶然近くで会った」

「ふうん……」

「お前のミサンガ見てたな、あいつ。なんか勘違いされちゃったかな」

「迷惑なんだ、湊人は」

「は?」

「あたしと湊人が仲がいいって思われるの、迷惑なんだね」

「いや――」

「あたしと湊人が仲がいいっていうのは勘違いだって言いたいんだね」

「へ? ごめん、ちょっと言ってる意味が解らん」


 湊人が一歩近寄ると「こっち来ないで!」と拒絶された。


「もういい。あたし、湊人に迷惑かけられないから。画材も一人で買いに来るから。あたし外に出ない方がいいよね、ネットで買うことにする」

「は? ちょっ――」

「ごめんね、いつもいつも迷惑かけて。あの子と仲良くしてね!」


 湊人に何かを言う隙を与えず一方的に捨て台詞を吐くと、瑠璃は彼を無視して走り去った。

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