第38話 言い訳

 絵筆を持つことがないまま五日間が過ぎ、湊人が合宿から帰って来た。

 瑠璃は湊人に会いたくて会いたくて仕方がなかったくせに、いざ湊人が帰ってくると急に会うのが怖くなってしまった。


 瑠璃にはミサンガの言い訳ができない。

 こんなにはっきりとハサミで切ったのだ、明確な意図を持たない限りこんなふうには切れない。湊人がこれを見たらどう思うだろうか。


 逃げ出したかった。三年前のあの時のように。だが、今回は逃げられない。

 苦しくなったら逃げていいとあの頃母は言っていたが、今はもうあの頃とは違う。『行かなきゃならないのに行けない』のではなく『自分で作った居場所を自分で壊した』のだ。これすら逃げたら、もう自分の居場所などどこにも作れない。

 湊人は澤田の弟子で、忍さんの息子だ。今、湊人から逃げることは、澤田のアトリエにも図書館にも行けなくなることを意味する。ここで湊人と向き合う事を拒否したら、この先ずっと引きこもるしかないのだ。


 だが、何故ミサンガを切ったのかと問われたら、何と答えるべきなのだろう。正直に話せばいいのだということはわかっている、だが一体何が正直な自分の気持ちなのかがわからない。

 自分はあの女の子に嫉妬した。だが彼女に嫉妬したことで、何故湊人の作ってくれたミサンガを切ってしまったのか、自分で理解できないのだ。


 気ばかりが焦る中、呼び鈴の音と「こんちゃーっす」の声が聞こえた。もう逃げられない。階段を上がって来る足音が聞こえる。あれほどまでに切望した音が、断首台の階段を上る自分の足音に聞こえる。


「瑠璃~、入るよ~」


 布団に丸まっていても感じる人の気配。


「瑠璃、何やってんだ?」


 ――どうしよう、なんて言おう。


「お腹痛い」

「え、大丈夫? お母さん、何も言ってなかったけど。……あ。ああ~……あれか、月イチの。ああ、うん、わかった、ごめん。今日は帰るわ。じゃあな」


 ――え? どうして?

 瑠璃の中で答えが出る前に、部屋のドアは閉まった。階段を下りる音の後に「湊人君、どうしたの?」「今日はちょっとあれなんで、また来ます」という会話が聞こえて、玄関のドアが閉まる音がした。


 湊人は生理痛だと思って帰ったらしい。ホッとする反面、刑の執行が一日延びただけという気分になった。いずれにしたって首の皮一枚で繋がっているのだ、いっそ早く執行してしまった方が気が楽になるのかもしれない。

 溜息交じりに机の上に置いたミサンガに目をやった。そして愕然とした。


 机の上に置いたはずのミサンガが無くなっていたのだ。机の上じゃなかったか。湊人が持ち去った? いや、湊人は最後まで口調が変わらなかった。気づいていないとしか思えない。だとしたら、自分はあの切れたミサンガをどこに置いただろうか。


 だがその日、パニックになって探し回ったミサンガは最後まで見つからなかった。


***


 湊人はそれから数日顔を見せなかった。やはりあのミサンガは湊人が持ち帰ったのだろうか。明らかにハサミで切ったと思われる切り口を見て、怒って来なくなってしまったのだろうか。

 謝りに行こうか。でも湊人の家は知らない。図書館に行ったところで、忍さんがいるだけで湊人がいるわけではない。澤田のアトリエは? 最近の澤田はあちこち忙しそうに出かけていて、あまりアトリエに居ない。


 困った。どうしたら湊人に会えるだろうか。素直にあのとき謝れば良かった。お腹痛いなんて嘘つかなければよかった――瑠璃がそう思ったその時、いつものように呼び鈴に続いて湊人の「こんちゃーっす」が聞こえて来たのだ。


 ――どうしよう! もう逃げたり隠れたりはできない、だけど絶対怒ってる。もう元には戻れないかもしれない。だけど……だけど……


「瑠璃、入るよ~」


 湊人は返事をする前に入って来た。瑠璃は布団に逃げる時間さえなく、そこに呆然と座り込んでいた。


「よぉ、今日はお腹大丈夫か?」

「うん」

「どうしたよ? 元気ねえな」


 湊人の態度はいつも通りだった。瑠璃は自分の勘違いだったのかと思った。

 ADHDの特性の一つに『忘れ物が多い』ことが挙げられる。その日に持って行かなければならないものを忘れるだけではない、自分がどこに置いたかを忘れてしまうこともある。置いた場所を勘違いしたまま覚えているということもある。

 だとしたら、自分はミサンガをどこに置いてしまったのだろうか。


「やっと合宿終わって来たのに、この前しんどそうだったから、ちょっと来るの我慢したんだぜ。一刻も早くこれの続きを描きたかったんだけどな。今日は描いてってもいいんだろ?」

「あ、うん」

「なんだよ、どうしたんだよ?」


 いつも通りの笑顔を見せる湊人に、瑠璃は遂に覚悟を決めた。


「あのね、湊人、ごめん。あたし――」

「ああ、そうだ。土産があるんだ。この前ここに来た時ミサンガが切れてるのが見えたから直してやろうと思って持って帰ったんだけどさ、上手く直せなかったから作り直してきたよ。もしかして探してた? お腹辛そうだったから声かけない方がいいかと思ってさっさと帰っちゃったんだけどさ。探すよなぁ、黙って持ってってごめん」


 瑠璃が割り込む間もないほど一気に捲し立てながら、湊人は彼女の手首にもう一度ミサンガを結び直した。


「ほら、これで大丈夫。お守りが切れたら、ルミエールで大賞取るのは難しくなるもんな」

「ねえ、湊人、あたし――」

「この前のは編み方が緩くて切れやすかったんだな。今回はキツキツに編んだから心配すんな」


 ――あたしに一言も話させない。湊人はわかってるんだ。わかっていながら知らん顔して、新しく作って来てくれたんだ――


「ごめん湊人。ありがとう。大事にする」


 湊人は笑顔で瑠璃の頭に手をポンと置くと、「さ、続き描こうぜ」と言った。

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