第37話 お留守番

 翌日から湊人は合宿に行ってしまった。こんなモヤモヤした気持ちのまま湊人と五日間も会えないのは気が重かったが、会ったからと言って彼と話す気にはなれなかった。


 それに、瑠璃は何か裏切られたような気持になっていたのだ。

 そもそも湊人と瑠璃は特別な関係ではない。単なる共同制作のパートナーだ。でも瑠璃にしてみれば、この絵を完成するまではこの絵のことだけを考えて欲しかった。瑠璃だけを見つめていて欲しかった。

 そんなこと湊人ができるわけがないし、瑠璃の我儘だということも自分でわかってはいた。瑠璃にはここしかなくても、湊人には学校という社会がある。所詮ここは湊人にとって生活の中のワンシーンでしかないのだ。


 以前もこんな気持ちになった気がする。いつだっただろうか。

 少し考えて、瑠璃はすぐに気づいた。澤田のアトリエで、彼が女の人とキスするところを見てしまった時だ。

 あのころ、瑠璃には澤田しか見えていなかった。同じように澤田も自分だけを見てくれていると信じていた。

 自分には多次元的な発想ができないことは理解できていた。一度に二つの事を処理できない脳には、自分の基準でしか他人のことが考えられない。だから自分が澤田を想うように、澤田も瑠璃を想ってくれていると無意識に思い込んでいたし、湊人についてもそれと同じように考えて疑いすらしなかった。

 だが、瑠璃は瑠璃であり、澤田も湊人もそれぞれが他の誰でもない当人だったのだ。

 だからこそ、澤田のキスは瑠璃にショックを与えたのだ。

 

 あの時の感情は醜い嫉妬と救いのない絶望だった。

 それと同じ感情が、今、彼女の中に生まれている。


 ――これは恋なのだろうか。

 だけどあの時は「これは恋じゃなかったんだ」と思えた。澤田への尊敬の気持ちを、恋心と履き違えていたんだと考えることができた。今回だってきっと湊人への尊敬を……えっ、尊敬?

 湊人は澤田と違って、手の届かない人ではない。澤田ほどの大人でもない。澤田のように心に余裕があるわけでもないし、背だって澤田より低い。

 じゃあ、一体なんなのか。湊人に対するこの気持ちが尊敬でないのなら。


 ふいに、湊人の隣で楽しそうに笑っていたあの女の子の顔がフラッシュバックした。あのアイドルのように可愛らしい女の子。

 瑠璃の頭の中に現れた彼女は湊人に向けていた笑顔を、瑠璃の方に向けた。


「あなた誰?」


 驚いて口もきけない瑠璃に、なおも笑顔を向けてくる。


「私に何か用?」

「ああ、コイツは共同制作のパートナーだよ、瑠璃っていうんだ」

「ルリさん? よろしくね」

「湊人……この子、湊人のカノジョ?」

「ちげーよ、もっともっと親しい関係」

「なにそれ、あたし聞いてない」

「え? この前紹介したじゃん。な、シノブ? オレの親だよ」

「なんで忍さんが?」

「瑠璃ちゃん、どうしたのそんな顔して。今日は図書館お休みなのよ」

「どうして? 湊人、湊人……」

「湊人なら絵を描いているよ。おや、瑠璃ちゃん、そのミサンガは湊人とお揃いなのかい? ああ、僕はお邪魔だったかな?」

「違います、先生、そうじゃないんです、あたしと湊人はそんなんじゃ――」


 目が覚めた。グズグズと考えているうちに眠ってしまったらしい。

 瑠璃には訳が分からなくなっていた。自分の気持ちがわからない。本物の恋をした事の無い瑠璃には、これが恋なのかどうなのかという判断すらつかなかった。

 もしかしたら、自分たちのような発達障害の人間は、一般的な恋と少し形の違う恋をするのかもしれない。

 だが、確実に一つだけ言えることがあった。自分が湊人の隣にいた女の子に嫉妬しているということだ。


 瑠璃は昨日切ってしまったミサンガを拾い上げた。綺麗に目が揃っていて、丁寧に作られたことが見て取れる。

 なんということをしてしまったのか。編み目を切ったわけではないから、何とか修復できるのではないかとも思ったが、そういうものでもないらしい。


 湊人が心を込めて作ってくれたものを壊してしまった。それも醜い嫉妬で。

 彼が瑠璃の為だけに時間を作って、瑠璃の為だけに編んでくれたお揃いのミサンガ。こうしてまた自分は大切な人との絆を、自分で断ち切ってしまうのか。一体何度同じことを繰り返すのだろう。何度苦しい想いをしたら学習するのだろう。

 こうなることがわかっているのに、その時は頭がいっぱいいっぱいで、衝動的な行動に出てしまう。もう昔から何度も何度も繰り返してきて、その度に後悔して辛い思いをしていても、それでも衝動が抑えられない。


 あたしは治らないんだろうか。注意欠陥・多動性障害はずっと誰にも理解されないまま、苦しみ続けなければならないんだろうか。


 悔しかった。いろいろなことが一気に押し寄せて来て、涙が溢れそうになった。

 それでも瑠璃はこの障害のことでは絶対に泣きたくなかった。歯を食いしばってでも耐えた。


 ――こんなことで泣いてなんかやるもんか。あたしは絶対に自分を制御してみせる。

 ――だから……だから、早く帰って来てよ、湊人。まだ一日目だけど待ちきれないよ。もう頭がおかしくなりそうだよ。湊人のバカ。あんたなんか大嫌い。大嫌いだけど。だけど大好き。湊人大好き!


 瑠璃は声を上げて泣いた。

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