第36話 傘
合宿の前日、湊人は瑠璃の家に来なかった。学校の友達と一緒に買い出しに行くらしい。英語漬け合宿に一体何の買い出しが必要なんだろうかと思いつつも、そんなことをいちいち聞くのも憚られた。
瑠璃は一人で絵を描く気にもなれず、先日図書館で借りて来た『ルミエール』の続編を読んでいた。読み耽っているうちに次々とイメージが湧いてきて、描きたいシーンがたくさんあることに気付いた。
――そうだ、今回の甲州トリエンナーレは、大賞を取れば来年個展が開けるんだった、今から個展向けの作品の構想を練ってもいいんだ!
『相変わらず』根拠なく大賞が取れるのが大前提な瑠璃は、『相変わらず』捕らぬ狸の皮算用を始めている。慎重すぎる湊人よりは、余程人生が楽しめるタイプだろう。
ところがせっかく一人で盛り上がっているところに母からお使いを頼まれてしまった。妄想の邪魔をされるのは非常に気分が悪いけれど、自分は養って貰っている身であり、母は仕事をしているのだ、文句は言えない。
それに、頼まれた用事は郵便局、すぐそこだ。気分転換に外出するのも悪くない。気持ちを切り替えて瑠璃は玄関のドアを開けた。
外は雨が降っていた。いい感じに気温は下がっているが、その分蒸し暑い。直接雨に打たれなくても、肌がべたついて気分は最悪だ。気持ちの切り替えどころか、ますます気が滅入る。
天気と母を呪いながらも、せめてお気に入りの水玉模様の傘を開く。群青色に白のドットが可愛くて、かれこれ五年ほど使っている。
こんな雨の日は部屋でのんびり麦茶を飲みながら本を読んだり、湊人と一緒に絵を描いたりしていたかった。湊人のいない日がこんなに詰まらないとは思わなかった。こんなことで合宿の五日間どうやって過ごすのだろうか。
とにかく湊人に会いたかった。彼を特別に意識しているつもりは全く無かった。ただ相棒として、一緒に絵を描いていたいのだ。そうしている時間が何よりも満たされていたのだ。
苦しい思いを胸に抱きながら、坂を下って郵便局のある大通りに出た。 その時、彼女は道路の反対側に、まさかの相棒の姿を見つけたのだ。
嬉しくなって思わず大きな声で呼ぼうとしたが、その声が音声として発せられることは無かった。
彼の隣に可愛い女の子がいたのだ。二人で買い物したらしい紙袋を下げ、一つの傘に仲良く入って歩いていた。
湊人はとても優しい笑顔を彼女に見せ、彼女の方も楽しそうに何かお喋りしているのが見えた。そこだけが別世界で、誰も割り込むスペースなどなかった。
結局湊人は最後まで瑠璃に気付くこともなく、通り過ぎて行った。
瑠璃は冷静を装った。単なる相棒じゃん、カノジョがいたって関係ないじゃん、そう言い聞かせて郵便局へ行き、お使いを済ませて家に戻った。
部屋に戻ってもあの女の子の顔が目の前に何度も浮かんで来る。クリッとした大きな目、サクランボ色の唇、小さな顔を縁取るサラサラのセミロング。服だってお洒落だった。チェックのミニスカートから伸びた脚は細長くて綺麗だった。何から何までアイドルみたいに完璧に可愛かった。
そんな彼女と一緒にいた湊人はとてもカッコ良かった。そもそもがイケメンと呼ばれる部類に入るであろう湊人は、背はそんなに高い方ではないけれど、華奢な彼女と一緒にいるとバランスが取れていてうっとりするくらい素敵な二人に見えた。
「あたしには関係ないし」
自分に言い訳するように、声に出して言ってみると、何故か涙がこぼれた。
「関係ない、関係ない、関係ない、あたしと湊人は絵の相棒、それだけ!」
言えば言うほど、心がそれに反抗するのがわかった。
――関係ない、絵の相棒、それだけ! だからこそもっと親しくなりたい、独占したい、湊人の隣にいるのはあたしだけ――
ベッドに潜って布団をかぶった。暗闇の中に丸まっていると、あの可愛らしい女の子の顔が目の前に浮かんで来る。優しい湊人の笑顔も。
彼はきっといつもああやって、学校でも彼女に笑顔を向けているのだろう。休み時間も、授業中も。帰りはああして一つの傘に二人で仲良く入るんだ。休みの日には二人で買い物に出かけたりするんだ。合宿の時も一緒に勉強するんだ。英語を教え合ったりして。
一人で考え出すと、どんどん良くない方に妄想が広がっていく。わかっているのにやめられない。
中学の時もそうだった。みんながあたしの悪口を言ってる。みんながあたしを除け者にする。あたしと仲良くしたい人なんか一人もいないんだ。あたしはいつだって一人ぼっち。あたし可哀想。アタシカワイソウ、カワイソウ……。
なんで湊人はお揃いのミサンガなんか作ったんだろう。あの子とお揃いにしたらいいのに。あたしとお揃いなんかにしてたら、あの子と喧嘩になっちゃうかもしれない。
そもそもあたしのこと好きでもないくせに、カノジョがいるくせに、あたしがこんなもの持ってるの、絶対おかしい。
彼女とお揃いにしたらいいんだ。あたしは湊人とお揃いにする権利なんか無い。湊人のバカ。湊人のバカ。
瑠璃はミサンガを切って手首から外した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます