第32話 河原の風

 武蔵野ビエンナーレの結果は、瑠璃をどん底に突き落とした。いつものように根拠なく大賞が取れると信じていたのだ。それが湊人だけ優秀賞で、自分は入選、選ばれていないも同然だ。暫く湊人の顔は見たくなかった。


 だが、共同制作のパートナーは今日も瑠璃の家にやって来た。インターフォンの音が瑠璃の部屋にまで聞こえてくる。下から「こんちゃーっす」の声、続けて「湊人君いらっしゃい、武蔵野ビエンナーレ、優秀賞だったんですってねぇ、おめでとう」という母の声も聞こえてくる。瑠璃は二階の窓から飛び出してしまいたかった。


 階段を上ってくる足音を聞いて、瑠璃はベッドに潜ると布団をかぶって丸まった。


「瑠璃、オレ。入るぞー」


 返事も待たずに湊人が入って来る。


「何やってんだよお前」


 だんまりを決め込む瑠璃に、湊人が笑いだす。


「ほら、出て来い、ミノムシ」


 湊人は問答無用で布団をめくると、瑠璃を引きずり出した。


「やだ、今日はやらない」

「うるさい。外出るぞ」

「えー、外なんかもっと嫌」

「ばか、こんな天気のいい日に家の中で腐ってたらカビが生えるぞ」

「もういい、カビ生えてるからほっといて」

「がたがたやかましい、黙ってついて来い」


 無理やり部屋から引きずり出されて、玄関まで連れていかれたところで、母が「お出かけ?」と顔を出す。


「鎌の淵公園まで。また戻って来まーす」

「ちょっと、勝手に決めないでよ、なんで湊人がお母さんに報告すんのよ」

「瑠璃が報告しねえからだろ」

「知らないもん、あたし行かないってば」

「はいはい、二人とも車に気を付けてね~、いってらっしゃーい」


 どうやら湊人は母を味方につけたらしい。


***


 鎌の淵公園は平日だというのに、親子連れでにぎわっていた。とは言えやはりお父さんの姿はほとんどない。お年寄りと、若いお母さん、小さな子供たちだ。


「大体、今日は平日なのに、なんで湊人がこんな時間に来るの? 学校サボったの?」

「バカ言え、今日は午前中で終わりなんだよ」

「何、創立記念日?」

「いや、期末テスト。今日は物理と地理と古文」


 当たり前のように言う言葉が瑠璃の心に突き刺さる。本来なら瑠璃だって高校に行って物理だとか古文だとかやっていたかもしれないのだ。


「明日もあるの?」

「明日は数学と英語と化学」

「こんなところで遊んでていいの?」

「いいわけねえだろ。でもお前がアホみたいに落ち込んでるだろうからと思って、すっ飛んできたんだぜ。ありがたく思え」

「頼んでないもん。ほんと迷惑」


 憎まれ口を叩きながらも、瑠璃は心の奥底で少し感謝していた。明日もテストがあるのに、テスト勉強もそっちのけで励ましに来てくれたことくらい、いくら瑠璃と言えどもわかる。


「今日梅雨明けしたんだってよ」

「そうなんだ」

「夏休みに入ったら、ベッタリ入り浸ってルミエールの世界を描くからな。もういっそのこと、泊りがけで徹夜して描くかな」

「はぁ? 何考えてんの、湊人が徹夜してもあたしは寝るからね」


 今日の湊人は橋の方へは行かず、河原の方へと降りて行く。仕方なく瑠璃も彼の後について行く。日差しはもう夏のそれではあるが、水辺のせいか風は涼しい。ここへ来る途中にはアジサイも咲いていた。


 川縁に到着すると、何を思ったのか湊人がサンダルを脱いで川に入って行った。呆気にとられる瑠璃に「お前もこっち来いよ」と笑っている。テスト勉強もせずにこんなところで川遊びをしているなんて、高校の友達や先生が見たらどう思うだろう。


 湊人の楽しそうな顔に負けて、瑠璃もサンダルを脱いで川に入ってみた。

 冷たい。夏の日差しに火照った体が、足元から急激に冷えて行くのがわかった。体内に溜まった熱と共に、さっきまでのウジウジとしていた気持ちまでも、川の水が奪い去って行くようだった。


「オレさぁ、頭の中だけでイメージするのって苦手なんだよな。こうやって本当に水に入って、やっと水の冷たさがイメージできるんだよ。ほら、泉のところに妖精がいるシーンあるじゃん。オレ、あのシーンが一番気に入っててさ。描きたいんだよな」

「すごい偶然。あたしも昨日もう一度読んでて、あのシーンが描きたいなって思ってたの。ねえ、あのシーン、一緒に描こうよ!」

「よし、決まりな!」


 湊人がわざと水面を蹴り上げて、水しぶきを飛ばしてくる。瑠璃も負けじと湊人の方に水を蹴り上げる。


「泉の周りには苔むしたでっかい岩があんのな」

「森の中だからちょっと薄暗くて、だけど木の隙間から光が差し込んでて」


 バシャン! 


「シダとか生えてる」

「雑草みたいな小っちゃい地味な花も咲いてる」


 バシャン!


「キノコも生えてるかな」

「うん、カタツムリもいるよ、きっと」


 しまいには二人で手を使って水の掛け合いが始まった。


「わ、バカやめろ」

「湊人だって手加減しなよー!」

「やっべ、パンツまで濡れた。お漏らししたみたいじゃん」

「あたしだってずぶ濡れだよ。ちょっと河原で乾かそうよ」


 二人並んで日陰に座っていると、不意に湊人が口を開いた。


「うちの親、ついに再婚決めたみたい」

「え、まさか引っ越し?」

「引っ越しはまだまだ先だって。まあ、引っ越しって言っても、この近くにするらしいから影響はないよ」

「そっか。良かった」


 やっと仲良くなれた親友が引っ越ししてしまうのは、瑠璃にとっては大きな痛手だ。湊人にはずっと近くにいて欲しかった。


「来年には式を挙げるって言ってた。バツイチだし、もう歳だから、あんまり賑やかな式じゃなくて、教会でひっそりと身内だけでやるらしい。相手は初婚だから申し訳ないとか言ってたけど、そもそも相手はそんなこと気にするタイプじゃねえしな」

「教会かぁ。あたしも行きたいなぁ」

「来いよ。きっと喜ぶよ」

「着て行く服が無いよ」

「なんだっていいよ。そんな堅苦しい式じゃねえんだし、普段着でいいよ」


 新しいお父さん。新しい家族。それを受け入れるのは一体どんな気持ちなんだろう、瑠璃には到底受け入れられるものではない。湊人はそれを受け入れようとしている。


「新しいお父さんとは仲良くできそう?」

「ああ、まあ仲は悪くねえ。でもお父さんとは呼べねえな、やっぱ」


 そうだよね、と言っていいのか悪いのか、瑠璃には判断がつかなかった。少し前の瑠璃なら、考えるよりも先に口を突いて出ていただろう。だが、湊人や澤田と付き合っていく中で、口に出す前に一呼吸置くことを覚えた。それによって余計なトラブルが回避できることも学んでいた。


「戻ろうぜ。泉の妖精、描かなきゃならんしな」

「うん、そうだね」


 瑠璃は武蔵野ビエンナーレで落ち込んでいたことなど綺麗さっぱり記憶の彼方に追いやって、元気よく立ち上がった。

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