第30話 これで出そう
「ごめんね、昨日は来客があったものだから、瑠璃ちゃんが来たことに気付かなかったよ。ずっと下にいたんだ」
「あ、ええと、下から声が聞こえてたんで、誰か来てるのかなって思って、絵だけ置いてすぐに帰りましたから大丈夫です」
何がどう大丈夫なんだか自分でも訳がわからなかったが、瑠璃はとにかく笑顔を作ることに集中した。昨日の出来事を見てしまったなんて知られたくなかった。
湊人はそんな瑠璃を苦々しい気持ちで眺めていた。そんなに簡単に吹っ切れるわけがない。彼女の胸中を思うとやるせなかった。
「で、これが一人で頑張って描いた絵か。これは図書館だね」
「はい。一人ぼっちだったあたしを助けてくれた場所だから、たくさんの桜に囲まれたこの場所を描きたかったんです。これで賞を取って美術館に飾られたら、忍さんに見て欲しいんです。忍さんがいなかったら、あたし今でもきっと図書館で一人ぼっちだったと思う」
湊人がチラリと澤田を見やった。瑠璃は昨日の女性が忍だということには気付いていなかったらしい。湊人はそれこそが何よりの不幸中の幸いだと感じていた。
「今回はもしかしたら賞が狙えるかもしれないよ。瑠璃ちゃんはどうやらアクリルが合ってるようだね」
「そうですか? あたしもアクリル凄く描きやすかったんです。乾燥時間も速くて、めんどくさがりやのあたしには油彩よりずっと扱いやすかったから結構気に入ってるんです」
澤田は満足げに頷くと「遠近法もマスターしたようだね」と瑠璃に笑顔を向けた。瑠璃は正直言って複雑だった。笑顔を向けて貰えることを、今までなら手放しで喜んでいただろう。だが今は、例の女性の影が澤田の背後に見え隠れしている。
「このまま出そう。タイトルは?」
「えっと『本の呼び声 ~桜の季節に~』です」
「超絶ダセえ」
「失礼な! 湊人になんか聞いてないもん。あたしは気に入ってんの!」
「タイトルは大切だよ」
「ダサいですか?」
「うーん、そうだねぇ、あまり絵と関係ないような気が」
澤田にまで言われては変えるしかない。瑠璃は暫く悩んでから口を開いた。
「じゃあ、『書物の館 ~花の季節に寄せて~』にする」
「絶望的にダセえ。さっきの方がまだマシじゃね?」
「なんでよー!」
「なんか『舌平目のワイン蒸しキャビアソース、
「よくそんなのがスラスラ出てくるよね、食べたこともない癖に」
「ほっとけよ」
言葉の響きにこだわりを持つのも発達障害の持つ特性の一つだ。それが良い方に転がれば詩人や小説家に向くのだろうが、悪い方へと転がると人々の失笑を買うことになる。
「もっとシンプルな方がいいよ。湊人、考えてやったらどうかな?」
「そんなん『図書館のある風景』でいいじゃん。simple is best だよ」
「じゃあそれにする」
「ええんかい!」
「よし、瑠璃ちゃんはそれで決定。湊人の方はどうかな」
澤田がイーゼルの方に移動する。「うーん」と唸りながら顎をつまむ澤田に、湊人が首を捻りながら言った。
「オレのも一応これで完成なんだけど、何かが足りないような気がするんだよなぁ」
瑠璃の目には、湊人の絵は極めて完成度の高いものに映っていた。これ以上何を求めるというのだろうか。
「そうだなぁ。リアルイラストとしては百点なんだけどね、単なるリアルなんだよね、湊人の絵は。正直すぎる」
「あーくっそ、これセンセーに言われんの、何度目かなぁ」
「瑠璃ちゃんはイマジネーションで描くし、湊人はリアリティだけで描く。お互い歩み寄れたらいいんだけどねぇ」
湊人が「それができれば苦労しねえよ」と言っているのを聞いて、瑠璃が割って入った。
「あたし、今回は凄く頑張ってリアルに描いたんですよ。イマジネーション全部排除して頑張ったのに」
「そうなんだけどね。この桜。こんなにたくさん図書館を囲むように桜の木ってあったかな?」
「無いです。でも、図書館を綺麗に描いてあげたくて――」
「それだよ。実際と違う事を脳内で補って、それを絵に起こしてるね? ここの隅っこを歩いている黒猫、実際に居たの?」
「いません」
なんで先生はあたしが勝手に描き加えたことがわかるんだろう?――瑠璃は超能力者でも見るような目で澤田を見た。
「絵っていうのは、そこに存在しないものも描き加えることができるし、不要なものを画面から消すこともできる。それを瑠璃ちゃんは自然にやってるんだよ。湊人の絵は完璧で写真のようだけど、描き方も写真と同じで、不要なものも消さないし、無いものを加えることもない。つまり色気が無いんだ」
「でもオレ、そういう想像力って全然ねえんだよなぁ。瑠璃ならどうする?」
そんなことを聞かれても、瑠璃はそこへ行った事が無いのだから、アドバイスなどできようはずがない。二人で困っていると、澤田が「湊人、そこで何を見た?」と言い出した。
「何をって、工場」
「そうじゃない、見たものを全部言うんだよ。そこから何かヒントが得られるかもしれないよ」
湊人は唸りながら必死に記憶の糸を手繰り始めた。
「タンク、パイプ、鉄骨、電灯、クレーン、えーと、煙突、柵、えーと、階段、えーと……飛行機とかに知らせる煙突の天辺にある赤い光るヤツ」
「航空障害灯だね」
「名前は知らねえけど。あとは敷地のフェンスとか」
「そこに見えたものを全部言うんだ。空や海も」
「え、そんなのも? じゃあ、空と、海と、運河と、煙突の煙と、あとなんか蒸気みたいなのがでてたな、えーと……もうギブアップだよ」
「瑠璃ちゃん、何があると思う? 行った事なくても想像で言ってみて」
澤田もなかなかに無茶を言う。行ったこともないのにどうやって想像しろと言うのか。湊人は瑠璃が一つも言えないだろうと思った。
だが、瑠璃は湊人の絵から視線を外すと、「えっとね」と口を開いた。
「多分、木が生えてる」
「あ……あった!」
「それと、夜だから月も出てる」
「そっち行くのか?」
「雲も流れてるかも」
もはや湊人は相槌さえ打てなくなっていた。
「それとね、道路。アスファルトの道路ね。雨の後なら水たまりもあるかも。道路には標識があって、センターラインが引いてある。赤と白のシマシマの三角コーンが道に並んでたりする。そこにトラックとか停まってるかも。工場の入り口にフェンスがあって、看板に矢印が書いてあったりする」
「すげえ……」
「海には船が浮かんでて、白い波もところどころに見える。それから目の前を貨物列車が通り抜ける」
「それだ!」
急に澤田が瑠璃を指さした。何事かと驚く二人に向かって、澤田はにんまりと笑った。
「さすがだね、瑠璃ちゃん。湊人、川崎なら鶴見線があったはずだね? 湊人の絵は工場群をメインに、手前に海を配置してその灯りを反射させているけど、それじゃあありきたりで勝負するには弱い構図だ。海を全部潰して、引き込み線の線路を描き込むのはどうだろう? 切り替えポイントのレールに工場の灯りが反射するように描けば、湊人が得意とするメタリックな画面に仕上げられる。左右方向の線路じゃなくて、手前から奥に向かって奥行きを感じさせるように描き込めば、線路のラインが奥の工場に向かって視線を誘導する働きも持つから一石二鳥だ」
澤田の提案に、湊人が「すげえすげえすげえ!」と興奮する。
「瑠璃、天才じゃねえの? オレ、それで描く!」
「よし、あと十日しかない。湊人は大急ぎで絵を仕上げるんだ。まず湊人のコンプレッサーをここに持っておいで。連続使用できるのはせいぜい三十分だ。熱を持ってきたところで僕のコンプレッサーと繋ぎ替えれば、ずっと描いていられる」
「じゃああたし、湊人の手伝いするよ。ハンドピース洗ったりコンプレッサー繋ぎ替えたりするくらいなら、あたしでもできる」
「よし、そうと決まれば即行動だ」
「はーい!」
三人はミッションを開始した。
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