第29話 失恋
瑠璃は鎌の淵公園に来ていた。どうやってここまで来たのか、自分でもわからない。気づいた時にはここにいたのだ。
頭の中で何度も何度も繰り返し再生される、澤田と女性のキス。人がキスするところなんて生まれて初めて見るというのに、それが初恋の相手だなんて。
そもそも、なぜ澤田に特定の付き合いをしている女性がいないと思い込んでいたのだろうか。
しかも彼女は「旅行のプラン」と言った。彼女と澤田が二人で旅行に出かけるということではないか。一緒に旅行に行くほど親しい女性。そんな人がいるようには見えなかった。だが、実際にいたのだ。
瑠璃がいつものように吊り橋に向かうと、先客がいるのが見えた。橋を渡るでもなく、ただ橋の真ん中でぼんやりと川を眺めているだけのその人影は、見慣れた『兄弟子』のものだった。
彼はいつものように「よぉ」と手を挙げた。瑠璃はショックのあまり、手を挙げる事すらままならなかった。
「どうしたよ、そんな『ひとり不幸博覧会』みたいなツラして」
そんな湊人のひねくれた物言いも、今は頭上を通過していくだけだった。実際に『ひとり不幸博覧会』状態だったのだ、否定することもない。
「久しぶりに会ったってのに、酷でぇツラだな。失恋でもしたか?」
いつもならムカついて暴言を吐いていたかもしれない。だが、今の瑠璃にその余裕はなかった。ボロボロと涙がこぼれてきてしまったのだ。
「え、ちょっと、瑠璃?」
オロオロする湊人を見る余裕もなく、瑠璃はその場で泣き出してしまった。
いままで学校で無視されても、仲間外れにされても、絶対に泣いたりしなかった。涙を見せたら負けだと思っていた。だから、家に帰っても一人で泣いたりしなかった。こんな人たちの為に、涙なんか流してやるもんか、その一心でずっと我慢してきた。
それがこんなことで。好きだった相手に彼女がいた。自分だけの先生だと思っていた澤田に女性がいた、たったそれだけのことが、こんなにも自分の心をズタズタにするとは、思いもよらなかったのだ。
「どうしたんだよ」
湊人が瑠璃を覗き込むように言うと、彼女は突然湊人の胸元にしがみついてわっと泣き出した。
「ちょっ……」
ここで知らん顔するのも変だし、抱きしめてやるような間柄でもないし……と困り果て、それでも湊人は一応背中をさすってやったり頭を撫でてやったりして、彼女が落ち着くのを待った。
「な、ここな、誰も来ないけどさ、一応橋の真ん中だし、目立つしな。いつもの
「ごめん」
涙で視界がぼやけていた瑠璃は、湊人の服を握りしめて歩いた。湊人も彼女の足元を気遣いながら、肩を抱いて誘導した。
湊人だと肩を抱かれていてもなんともないのに、澤田には手を握られただけでも心臓が口から飛び出してしまいそうなくらい舞い上がっていた。それくらい澤田のことが好きだった。
一緒にいる時間の長さに比例して、好きになって行くのは感じていた。それでも、いつの間にあんなに好きになってしまっていたのか、自分でも理解できなかった。澤田に恋をしている自分すら好きだった。
「ここ、座れ」
湊人に促されてベンチに座る。隣に湊人も座ったが、さすがに彼は手を放した。どうやら失恋というのが図星だったらしい相手に、こんなふうにいつまでも肩を抱いているのは違う気がした。
だが、意識しているのか無意識なのか、瑠璃は彼の服を掴んだ手を放さなかった。
「話したくなければ話さなくていいし、話したかったら聞いてやるよ」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼は瑠璃の反応を待った。彼女は暫くしゃくりあげていたが、湊人は何も言わずに静かに待っていた。
「さっき、先生のアトリエに行ったの」
「うん」
「誰もいなくて、帰ろうと思った」
「うん」
「先生の声がしたの。下から。それで、女の人の声がした」
湊人は返事が出来なかった。遂にその時が来たか、と思った。もう少し早く瑠璃の澤田熱が冷めてくれれば良かったのに。
「あたし、吹き抜けのところから、下を覗いたの。そしたら、先生が」
「うん」
「先生が……彼女をぎゅって抱きしめて……キスしたの」
「うん」
「初めて見た。人がキスするの」
「う……ん」
微妙な返事に瑠璃は顔を上げた。
「ごめん、オレ知ってたんだ。瑠璃が先生のこと好きなのも知ってたから黙ってた。わざわざ言う必要もねえしな」
「先生にもバレてたかな」
「いや、先生はマジ鈍感だから、瑠璃の気持ちには気付いてないと思う。絵のことに関しては雲の上の存在ってほど凄い人なのに、こういうことはまるっきり鈍いからな、あの人」
「そっか。良かった」
ふと見ると、星が輝き始めている。前回ここで話をしたのは半年前だっただろうか。随分暖かくはなったが、陽が落ちるとやはり少し冷える。
「そんな薄着で寒くねえか?」
「出てくるときは暖かかったんだもん」
「とりあえずこれ着とけ」
湊人がパーカーを脱いで瑠璃に押し付ける。ぶっきらぼうではあるが、瑠璃には彼の優しさがちゃんと伝わっている。
「ありがと。湊人は優しいね」
「へ?」
「だってさ、あたし、この前湊人に酷い事言って飛びだしちゃったのに」
「なんか言ったっけ? マジで覚えてねえ」
「ほんとに三歩歩くと忘れちゃうの?」
「もうトサカじゃねえだろ」
「トサカやめたのに覚えてないの?」
「うわー、オレ手に負えねえじゃん」
瑠璃がクスッと笑った。そんなに重症でもないのか、それとも澤田の言っていた『ADHD』の特性なのか、さっきまで泣いていたのに少し余裕が出て来たのか。湊人に判断はつかなかったが、笑顔が戻るならそれでいいと感じた。
「なんかあたし、今気づいちゃった。澤田先生に恋してたわけじゃないんだ。澤田先生に恋してる自分が好きだったんだ。先生は尊敬してるけど、よく考えたらあたし、先生のカノジョになりたいとか思わないもん。確かに見ちゃったことはびっくりしたけど、だからといってあたしがしたいとは思わないもん。結婚したいとか、そういうの全然ないんだもん」
「瑠璃には瑠璃に釣り合った男が現れるよ、そのうちな」
「うん」
暫くどちらも声を発することは無かった。だがそれは決して気まずい時間ではなかった。それぞれに思うところがあり、気持ちを整理する時間が必要だった。
「ところで、絵は描いてんのか?」
「うん、さっき持って行ったの。びっくりしてそのまま置いて来ちゃった」
「オレの見た?」
「うん、凄かった。あれ出すんでしょ?」
「ああ。お前、明日来いよ。オレもあれで完成なんだ。先生に見て貰おうぜ。締め切りまであと十日、ここでOKが出なかったら、手直ししなきゃならないからな。オレもお前の作品見たいし」
「わかった。一人で行くのは心細かったんだ。あんなの目撃しちゃった後だし。一緒に行ってくれる?」
瑠璃が上目遣いに湊人を見た。こんなふうに彼女が湊人に甘えるのは初めてだったせいか、彼は少し動揺してしまった。
「お、おう。じゃ瑠璃んち迎えに行くよ」
「うん、約束ね。今日はもう帰ろう」
二人の弟子は、公園に長い影を落としながら家路についた。
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