第28話 久しぶりのアトリエ

 瑠璃は暫くアトリエには顔を出さなかった。とにかく湊人に会いたくなかった。

 とかく正論というものは相手の心に深く切り込んでくる。今回の湊人がまさにそうだ。瑠璃自身も、彼が正しいということは理解していた、だからこそ何も反論できなかったのだ。

 そして、自分が澤田に相応しくない、釣り合いが取れていないということも、鋭く指摘されていた。澤田には何のことかわからなかっただろうが、「大人と恋愛したけりゃ、お前自身が大人になれよ」という言葉は、瑠璃に痛烈なダメージを与えた。


 澤田に大人の女性として扱って貰いたいと思っているくせに、その反面では都合よく子供のまま面倒を見て貰おうとしていた。そんなことで恋愛対象として見て貰えるわけがないのだ。

 都合の悪いことには目を瞑り、自分の希望を通そうとしていた、それを湊人に見透かされていた。

 きっと澤田は全てを知った上で、懐で遊ばせてくれていたのだ。本来はそこに自分で気づかなければならないのに、全く気付く気配がないから湊人が教えてくれたのだ。そう思うだけで、瑠璃はどうにも恥ずかしかった。


 どうして自分はそういうことに気付けないのだろうか。いつも自分のことで精一杯で、他人の事を慮ることができない。今回だってそうだ、湊人は言いにくいことを敢えて言ってくれただろうに、「大嫌い」と言って飛びだしてしまった。

 こんなことをいつまでも続けていたら、湊人だって学校のクラスメイト達のように離れて行ってしまうのだろうか。そう思うと瑠璃は絶望的な気持ちにすらなった。


 やっと見つけた居場所、やっと見つけた友達、それをまた手放してしまうのだろうか。そう思ってもなお、アトリエに足が向かない。拒否される恐怖で、そこへ行くことができないのだ。


 このやり場のない気持ちを、瑠璃はキャンバスにぶつけた。

 アクリルは初めてだ。凝った真似ができないということを湊人に見透かされ、時間も限られている今、できることと言えば一つしかない。基本の描き方でアクリルに慣れる事だろう。

 アクリルは水彩のようにも油彩のようにも描けると澤田は言っていた。瑠璃の苦手な水彩よりは、油彩のように描いた方がいい。


 ――あのファンタジーの本から着想を得た絵は、テクスチャを駆使して描きたい。今それができないのなら、いっそ別の絵を描こう。あの絵はリアルイラストレーションにファンタジー要素をミックスさせたい。今は練習として写実画を描こう、それも風景画だ――。


 結局彼女が題材に選んだのは図書館だった。今の季節は桜が綺麗だ。さすがに図書館の前にイーゼルを置いてというわけにはいかず、スマートフォンで写真を撮って、それを元に絵を起こした。


 瑠璃はまず、アクリルの使いやすさに面食らった。油彩と違って揮発性オイルを使わないため、匂いがほとんどしない。こまめな換気をしなくていいのだ。

 絵具を溶くのも水でいい。水道があればそれでOKなのだ。

 しかもすぐに乾く。本当にすぐに乾く。油彩なら何日もかけて乾かしたというのに、これは十分そこらで乾いてしまう。紅茶を淹れて戻ってくると、ほぼ乾いている。


 画材の手入れも楽だ。なにしろ普通の水彩と同じように水洗いができてしまう、ブラッシュクリーナーを必要としないのだ。

 一度乾燥すると水に溶けなくなるため、パレットから剥がしてそのまま捨てるだけ、乾燥していなければ水で丸洗い。なんと楽なことか。


 混色もできるし、重ねるのも容易い。隠蔽力が低いと感じればチタニウムホワイトを使えばいい。ジェッソもあるが、それは澤田からちゃんと教えて貰ってからにした方が良さそうだ。


 瑠璃は試行錯誤しながら、三十号の大作を一人で描き上げた。誰の助けも借りず、自分の力だけで一つの作品を仕上げたのは初めてだった。それだけで彼女の自信につながったのは間違いなかった。


 彼女は澤田に見て貰うため、作品を十分に乾かしてから大きな手提げに入れてアトリエへと向かった。手提げは母が縫ってくれた。それはそうだ、これだけのサイズとなると、風呂敷にだって包めるものではない。大きすぎて、手提げと言ってもとても手に提げられる代物ではなく、抱いて行ったのは言うまでもないのだが。


 アトリエへ向かう途中、青々と茂る桜の木が目に入った。この絵を描き始めたころは、桜が満開だった。今はもうこいのぼりすら姿を消している。

 締め切りまであと十日。いつの間にこんなに季節が進んでいたのだろうか。この青空ももうすぐ梅雨の薄雲に覆われるのだろう。


 一ヵ月半ぶりの澤田のアトリエだ。なかなかにドアを開けるのは勇気を必要とする。澤田に何と言おう、その前に湊人がいたらなんと言ったらいいんだろう、謝らなくちゃ、どうしよう……。

 瑠璃の緊張はピークに達した。こうなるともう何も考えられなくなる。彼女は覚悟を決めて、アトリエのドアを開けた。


 誰もいなかった。がらんとしたアトリエでは、いつものようにディレクターズチェアがハンモックの横に鎮座しており、イーゼルにはB1判と思しきサイズのケントボードが架かっていた。

 湊人の作品だった。確認するまでもない、工場の夜景がエアブラシで描かれていたのだ。巨大なタンクや何本ものパイプ、ガントリークレーン、無機質な直線とメタリックな輝きのなかに、なぜか暖かさを感じる絵だった。

 瑠璃は自分の持ってきた絵を置くことも忘れ、呆然と彼の作品に見入った。視線を外すことを、その絵が許してくれなかった。


 ふと、瑠璃の耳に聞き慣れた澤田の声が飛び込んできた。

 先生が帰って来た、最初はそう思った。だがいつまで経っても入ってこない。階段の天辺で誰と話しているというのか。なぜアトリエに入ってこないのか。


 何をやっているのだろうかと耳を澄ましたときに、彼女は気づいてしまったのだ。その声が一階の澤田のプライベートルームから聞こえてくるということに。

 そう、このアトリエには、一階からぶち抜きの吹き抜けがあるのだ。

 

 誰かが澤田の部屋を訪問している。アトリエではなく、自室を訪問するような相手がいるということだ。そしてところどころ澤田の声に紛れてくる相手の声。

 女性の声だった。澤田のプライベートルームを訪問する女性。一体どんな人なのだろうか。


 声が近付いてくる。「そろそろ帰るわ」と言っているのが聞こえた。瑠璃は自分の絵を置くと、二階の吹き抜け部分から一階を覗き見た。玄関で靴を履く女性の頭部が見えた。

 見つからないように吹き抜けの手すりに隠れながら、必死に下の様子を伺う。二人には気付かれていない。

 靴を履いて立ち上がった彼女を、澤田が抱きしめた。こんなところをこっそり覗いている罪悪感と、とんでもないものを目の当たりにしている高揚感で、瑠璃は気が狂いそうになっていた。


「また連絡するわね。あなたも旅行のプラン、少し考えておいてちょうだい」

「僕は君と一緒ならどこでもいいんだけどね」

「もう、そんなことばっかり」


 彼女が澤田を見上げると、二人はごく自然に唇を合わせた。

 瑠璃はショックのあまり床にへたり込んだ。

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