第27話 アクリル絵具

 春休みに入り、湊人が再びアトリエに入り浸るようになった。

 二月ころに一時的に来なかったのは、絵の題材を探してウロウロしていただけだったようで、瑠璃が心配するほどの事でもなかったらしい。

 とは言え、彼がアトリエに来ないことがあんなに気になるとは、瑠璃自身も想定外だった。瑠璃にとって湊人は知らぬ間に大切な友達となっていたようである。


 アトリエに湊人が入り浸ると、必ずと言っていいほど瑠璃と湊人は小さなことでぶつかった。ほぼ瑠璃が一方的に文句を言っているだけで、湊人は大して相手にしてもいないのだが、それが却って瑠璃を苛立たせた。

 最近では澤田も既に慣れて「まるで夫婦漫才だね」などと言っては瑠璃を地味に落ち込ませたりもした。


 五月の締め切りまであと二カ月という時に、瑠璃は自分の描いている絵が油絵に向かないことに気付いた。細かすぎるのだ。

 しかも油絵具はなかなか乾いてくれず、三日くらいはかかってしまう。重ね塗りしようとすると、描いては乾かし、描いては乾かしを繰り返すことになる。乾かないうちに重ねてしまうと、画面上で混色することになってしまうのだ。

 更に盛り上げモデリングなどの技法を知ってからは、ますます絵具の乾燥に時間がかかってしまうようになっていた。

 何もできずに絵具が乾くのを待ちながら締め切りが刻一刻と迫る、この状態に瑠璃が正常でいられるわけが無かった。


「あーもう! 油絵具いつまで経っても乾かないから全然進まないじゃん!」


 唐突に爆発した瑠璃に、澤田と湊人はまた始まったとばかりに苦笑いモードになったが、ふと湊人が「瑠璃、画材変えたら?」と言い出した。


「そんな簡単に言わないでよ、今から変えられるわけないじゃん」

「でも、速乾性のやつに替えたらそんなにイライラすることもねんじゃね? 瑠璃が突然大声出すと、こっちも手元が狂うんだよ」

「速乾性の油絵具なんか知らないもん」

「アクリル使えばいいじゃねえか。なぁ、センセー?」


 本を読んでいた澤田が顔を上げて「そうだね」と受ける。彼は、瑠璃がこの絵を描くきっかけになったファンタジーを読んでいたようだ。


「アクリルなら水彩のようにも描けるし、油彩の表現もできる。絵具を溶くのも溶き油である必要は無くて、水彩のように水で十分だからメンテナンスは楽だよ」

「ナイフで盛り上げとかできるんですか?」

「アクリルは乾燥すると体積が少なくなるから、オイルみたいに絵具だけで盛り上げるとひび割れるよ。ジェルメディウムを使えば大丈夫。メディウムもマットにグロスにパールと選び放題だよ」


 そこで湊人が口を挟んだ。


「オレはエアブラシだからできないけど、瑠璃は筆とナイフ使って描くなら、もっとマチエールにこだわったらいいんじゃねえの?」

「そうだね。せっかくだからテクスチャジェルを使って画面に変化を持たせたら面白くなるよ」


 マチエール? テクスチャ? なにそれ? と瑠璃の顔に書いてある。湊人は澤田を横目で見ると「センセー、説明してねえの?」と言った。澤田は「今まで必要なかったからねぇ」と言いながら、カラーチャートのようなものを出してきた。


「アクリルはオイルと同じようにテクスチャを作り込むこともできるし、オイルより速く乾く。テクスチャジェルも豊富にあって、いろんなマチエールが楽しめる。これを見てごらん。上からサンド、ビーズ、フレーク、セラミック、ファイバー。これはテクスチャジェルと言って、絵の表面に質感を持たせるものなんだ。左はそのまま塗ったもの、真ん中はそのまま塗った上から絵具を乗せたもの、右は絵具をジェルに混ぜて塗ったもの。それぞれに質感が違うのがわかるかな?」


 瑠璃は手渡されたチャートを凝視した。表面がざらざらしている。砂のような質感だったり、砂利のような手触りだったり、ファイバーというものに至っては何か繊維質のものが混ぜ込んである感じがする。


 手に触れているうちにイメージがむくむくと湧き上がってくる。ごつごつとした岩、どこまでも一面の砂漠、鬱蒼と生い茂る森の中、川面に飛び散る雫たち。

 妖精の翅にはパールの輝きを、かたつむりやテントウムシにはグロスの艶を、蛾には鱗粉に見られるマットな質感を。


「あーあ、瑠璃、完全にスイッチ入ってるわ」

「どうやらそのようだね」

「でも今からじゃ間に合わねえだろ。アクリルの扱いくらいはできても、テクスチャジェルは使いこなせねえ。五月の武蔵野ビエンナーレはテクスチャにこだわらないで、油絵の延長くらいで描いた方がいいんじゃねえの?」

「そんな言い方しなくたっていいじゃん!」

「え? そこ、怒るとこ?」


 どうやらまた瑠璃の地雷を踏んだらしい。瑠璃としても、湊人に悪気があって言っているわけではないことくらい理解してはいるのだ。だが、どうにもこうにも湊人に対する嫉妬とコンプレックスが邪魔をして、彼の言葉を素直に聞けない自分がいる。

 

「そんなことないもん。まだ触ってもいないうちからそんなふうに決めつけないでよ。これからテクスチャジェル使いまくって練習するもん。湊人はテクスチャなんか関係ないんだから、こっちのことに口出ししないでよ」

「瑠璃の作品に口出しする気はねえよ。でもな……」


 ここで湊人は何故か口ごもった。


「何よ」

「お前が使いまくって練習するそのテクスチャジェル、どこから出てくるんだよ。またセンセーのヤツ使うのか?」

「え……」

「お前はまだ自分の画材を決定してないから、センセーはいろんなものを試してみろってことでお前に使わせてくれてんだろ?」


 澤田が何か言おうとするのを湊人が目で制した。


「でも本来画材ってのは自分で準備するもんだ。オレは絵具みたいな消耗品は自分で準備してる。ここで描くときはコンプレッサーとか使うし、そこの電気代は受講料に込みで先生に負担して貰ってる。だけどさ、お前いつまで経っても画材すら決めずにセンセーにおんぶに抱っこだろ。言っとくけどテクスチャジェルってそんなに安いもんじゃねえんだよ。当たり前のツラして『使いまくる』とかヘーキで言うもんじゃねえだろ。お前、センセーの負担とかまるで考えてないようだけど、センセーが教えてくれんの当たり前とか思ってんじゃねえだろうな」


 瑠璃が何も言えずにいるところへ、湊人がさらに畳み込む。


「ガキの頃はなんでも大人がやってくれると思っていてもいいかもしんねえけどさ、オレらもいつまでもガキじゃねえんだし、人任せはそろそろ卒業してもいいんじゃねえの? 自分中心の考え方から抜けられねえうちは、いつまで経ってもガキのままだ。それでいいのかよ、瑠璃は」

「だって、まだ十六歳だし」

十六歳だってこの前言っただろ。お前はいつまでガキのままでいる気だよ」


 更に湊人は小さな声で付け加えた。


「大人と恋愛したけりゃ、お前自身が大人になれよ」


 瑠璃はハッとして澤田を振り返った。彼はいつものように少し困ったような笑顔を見せていた。


「バカ! 湊人なんか……湊人なんか大っ嫌い!」


 叫んだ勢いで、瑠璃はアトリエを飛び出した。湊人は追わなかった。


「今日は追いかけなくていいの?」

「あいつはオレに追って欲しいわけじゃねえんだよ」


 大きな溜息と共にハンモックに寝っ転がる湊人の側に、澤田はディレクターズチェアを置いてゆったりと腰を下ろした。


「なあ、湊人。君に言ってないことがあるんだ。瑠璃ちゃんのことなんだけどね」

「何?」

「彼女、注意欠陥・多動性障害なんだ。所謂ADHD。だからあんなふうに他人に言われたことでパニックになってしまったりするし、自分を中心にしか物事を考えられない。それで学校に行けなくなってしまったんだけどね」

「だから何?」

「えっ」


 湊人はハンモックの中で起き上がった。澤田と正面に向かい合うと、彼の目を真っ直ぐに見据えた。


「センセーはそれで瑠璃と向き合えばいいさ。オレは瑠璃がADHDだろうがアスペだろうが関係ねえよ。オレにとって、瑠璃は瑠璃でしかねえ。センセーだろうが瑠璃だろーが、オレは相手には全力でぶつかることにしてんだ」


 刺さるほどの強い視線を受けながら、澤田はフッと目を細めた。


「それは最高だ。瑠璃ちゃんはそういう友達を待っていたんだろうね」


 澤田は一拍置いてから言葉を続けた。


「湊人が湊人で良かったよ。コーヒー、飲むかい?」

「オレが淹れるよ」


 湊人はハンモックから立ち上がった。

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