第26話 工業地域

 それからの瑠璃は、狂ったように描きまくっていた。とにかくアトリエにさえ来れば、澤田につきっきりで教えて貰える。それが嬉しかった。

 それに、家で澤田の着古しのシャツを羽織るのは恥ずかしかったのだ。母が見たらなんと言うだろう。それを考えるとどうにもこうにも照れ臭い。


 湊人も最初のうちは澤田に聞こえないように「随分嬉しそうだな」などと瑠璃に耳打ちしてはニヤニヤしていたが、年が明けたころから徐々にアトリエに顔を出さなくなってきていた。

 彼も誕生日にハンドピースとエアコンプレッサーを買って貰ったと言っていたのだし、アトリエで描かなくても家で描けるはずなのだ。それもあって瑠璃はさほど気にしていなかった。


 二月に入ると湊人はアトリエに全く姿を現さなくなった。瑠璃は少し気になってはいたが、澤田を独り占めできる喜びの方がずっと上回っていた。

 ここで描いている限り、澤田は瑠璃一人のものだった。

 耳元で囁かれる言葉は決して甘いものではなく、遠近法や構図の取り方など技術的なものばかりだったが、それでも瑠璃は嬉しかった。


 いつも瑠璃のすぐ右側に立って、上からあの柔らかいテノールで語り掛けてくる。その声はいつだって彼女の脳を痺れさせ、体温を上昇させた。時には息苦しささえ覚えることもあった。

 いつも右の耳だけが彼の声を引き受けているので、左の耳がヤキモチを妬いていつかボイコットするんじゃないかと本気で心配することもあった。


 彼女は澤田のシャツに包まれながら、その腕に抱きしめられているような錯覚にとらわれていた。彼の腕の中で好きなだけ絵を描く、こんな幸せがあるだろうか。彼女はこれまでの人生の中で、最も充実した時間を過ごしていた。


 だが、何かが心に引っかかっていた。何かが足りないことに気付いていた。それがなんなのかわからないまま、彼女の心に小さな穴が開いていた。そしてその穴は、日を追うごとに大きく広がって行った。瑠璃は物足りなさを埋めようと、毎日毎日描いて描いて描きまくった。

 がむしゃらに描いていた三月のある日、その『穴』の正体がアトリエに顔を出した。


「やぁ湊人、久しぶりだね」


 いつもと変わることなく笑顔を見せる澤田に「そんなに久しぶりだっけ?」と湊人は笑った。


「よぉ、瑠璃、進んでるか?」

「え……っと、湊人、なんか雰囲気変わったね」

「ああ、そうか。この頭になってから瑠璃とは会ってなかったか」


 言われてみれば、彼の真っ赤に逆立っていたトサカ頭は普通の黒髪になり、地球の重力に抵抗していなかった。


「どうしたの、それ」


 湊人はちょっと照れ臭そうに視線を逸らすと、「変か?」と聞いた。


「ううん、こっちの方がカッコイイよ。トサカより全然いい!」

「なんだよ、瑠璃は今までオレの頭をトサカだと思ってたのかよ」

「うん」

「酷でえな、三歩歩いたら全部忘れそうじゃねえか」


 湊人はリュックを入り口に置いて、上着を脱いだ。


「もうすぐ二年生になるからな。いつまでもガキみたいなカッコしてらんねえし」


 そうなのだ、彼は瑠璃と違って高校生だったのだ。毎日学校へ行って、勉強してくる。トサカみたいな頭をしていようが、ずっと手首にミサンガを付けていようが、自分でやると決めたことはちゃんとやっているのだ。


「センセー、オレやっと描く題材決まった」

「おう。何描く事にした?」

「風景画」

「へぇ、珍しいな」


 確かに珍しい。湊人はいつも静物画を描いていた。生き物すら描かなかった。


「優秀賞貰ったバイクの絵、あったじゃん。ああいうのが向いてる気がするんだ。メタリックなやつ。それでヴィンテージカー描いたんだけど、勝負するにはあの程度じゃちょっと弱いなと思ってさ、いっそ工業地域の夜景を描こうかと思って」

「おー、工業地域か。いいんじゃないか? すごくいいと思うよ。クールで無機質なのに生命感のあるイメージが湊人に合ってる」

「え、マジ? じゃ、それで行く」


 瑠璃はポカンとしたままだった。工業地域の夜景。どんな感じなのか見当もつかない。察した湊人がスマホを出してきた。


「それでさ、川崎の工業地域の夜景を見て来たんだよ。ナイトクルーズってやつ? 工業地域を見て回る屋形船みたいなのがあるって聞いたから、それに乗って来たんだ」


 湊人がスマホで川崎工業地域の夜景の写真を出して、瑠璃の方に向けてくれた。

 なんと幻想的な機能美だろうか。これを湊人はエアブラシで画面に起こすというのだ。


「キリンみたいなウマみたいなのがいっぱい立ってる」

「ガントリークレーンってんだよ。こっちには石油のタンクが並んでる。綺麗だろ? これならオレでも描ける気がする」


 湊人の本気が瑠璃に伝わってくる。こうしてネタを集めの為に行動するなど、瑠璃の発想には無かった。


「瑠璃は何を描くんだ?」

「えっと、まだ……」

「決まってねえのか」


 決まっていないのに、この美しい工業地域を描こうという人と勝負する。


「あたし、何が描けるんだろう」


 スマホをポケットに片付ける湊人の背後で、澤田がボソリと言った。


「瑠璃ちゃん、何が描けるかじゃなくてね、何が描きたいかなんだよ。ここへ来てからの君は画材ばかりに気を取られて、描きたいものを見失ってしまったんじゃないのかい?」 


 そうかもしれない。確かにここへ来てから、彼女はずっと画材をとっかえひっかえしながら、自分に合うものを探し続けて来た。そろそろ描きたいものを描く時期に来ているのかもしれない。


「描きたいものが見つからないんです」

「あったはずだよ。僕は知ってる」

「え? 澤田先生が?」

「君は忘れてしまっただけじゃないのかな」


 湊人が静かに見守る中、澤田がゆっくりと言った。


「木々の隙間から差し込む光、輝きを放つ下草の露。先っぽが巻いたままのシダ。半分だけ開いたキノコ。名もない花。カタツムリ。テントウムシ。ケムシ。クモがぶら下がっている木の枝。その中にたたずむ森の精」

「それ、図書館で描いてた……ここに来るきっかけになった絵!」


 あの日のことが鮮明に瑠璃の脳裏に蘇って来た。ばら撒いた三十六色の色鉛筆とチッという舌打ちの音。細長い指が差し出した群青色の鉛筆。アイボリーのマーメイドにバーントアンバーで印刷された『澤田永遠』の名前。


「先生、あたし、あの絵を描きます。あの絵で湊人と勝負する!」

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