第25話 出します!
「どうしたの、ため息ばかりついて」
「忍さん、好きな人いますか?」
瑠璃が言っているのは恐らく澤田のことだろう。どう考えても湊人のことではなさそうだ。どうして湊人じゃなくて、『澤田』なのだろうか。忍はどうにも気まずい思いを抱えながら瑠璃と接することを強いられている。
「うん、いるわよ。もうすぐ結婚するの」
「えーっ、いいなぁ。どんな人ですか?」
この無邪気さが忍には痛いのだ。
「優しくて、穏やかで、懐が広くて、なんでも受け止めてくれる人」
たまにちょっとピントがずれてるけどね、という感想は心の中だけで追加した。
「やっぱりそういう人っていいですよね。あたしも今、そういう人がいて、もうどうしようもなく好きなんです。好きすぎて一緒にいるのが辛くなってきちゃうって、なんかおかしいですよね」
「おかしくなんかないわよ。好きで好きで、独り占めしたくなるんでしょう? それが独り占めできなくて苦しくなるの、わかるわ」
「それ! ホントそれなんです!」
今日は外が雨模様のせいか、図書館は人影もまばらだ。瑠璃はどうやらそれを狙って今日を選んだらしい。利用者が少なければ、忍を独占しやすくなるからだ。
「三十代半ばの人から見たら、十六歳なんて子供ですよね」
「そうねぇ……子供、かな?」
「恋愛対象になんかなりませんよね」
「ちょっと難しいかな」
「ですよね」
これは重症だ。澤田は三十五、瑠璃の倍以上生きている。下手をすると親子でも通用する年齢差だ。
早めに婚約していることを言った方がいいだろうか。だが、学校で居場所を失った彼女がやっと見つけたたった二つの居場所、その図書館とアトリエを一度に失う事になりかねない。もしそうなったら、彼女はどこに自分の居場所を見つけるのだろうか。それを考えると、忍にはとても本当のことが言い出せない。
「ね、瑠璃ちゃん。若い時ってずっと年上の人に憧れる時があるの。ほんの一時期なんだけどね。割と誰にでもあるのよ。わたしもそうだったなぁ、高校の時、部活の顧問の先生に憧れちゃったんだ。大人の余裕っていうのかな、そういうのがあってカッコよく見えたのよね。でも、所詮は大人と子供、全然釣り合いが取れないっていうか、考え方に隔たりがありすぎて、すぐに冷めちゃった」
「あたしもすぐに冷めちゃいますか?」
「それはわかんない。でも、わたしの時は、その先生、もう彼女がいたのよね。だから諦めがついたの」
瑠璃が「彼女!」と言ったきり固まった。やはりこの子は澤田を完全なフリーだと信じていたのだろう。フリーと信じていたというよりは、そこに発想が至っていなかっただけのような感じがする。
少し気の毒な気もした。瑠璃は澤田に会うまでは、本当に女子高生と呼ばれる年齢なのだろうかというくらい、ファッションセンスが皆無だった。それが最近では少しずつお洒落になってきている。表情だって随分と可愛らしくなってきた。恋はこんなにも人間を変えるのだ。
だが瑠璃に澤田を譲るわけにはいかないし、澤田も瑠璃を子供としか見ていないだろう。湊人が相手なら、澤田も忍も諸手を上げて賛成しただろうに。
「そうですよね。あんな素敵な人だもん。彼女いるに決まってる。なんでそこに思いが至らなかったんだろう。先生だって、こんな子供より大人の女の人の方がいいに決まってる」
このままだと、また凹んで浮上してこなくなるのは目に見えている。忍は必死で頭を回転させた。
「ね、わたし思うんだけど。瑠璃ちゃんと先生では歳の差があるのよね? でも対等な位置に立てることだってあると思うの」
「なんですか?」
「絵があるじゃない。絵が上手になって先生と並ぶほどになれば、先生も瑠璃ちゃんのことを子供だなんて思わないわよ」
「そんなことってあるかなあ? あ、でも、エアブラシは湊人の方が先生より上手いって言ってた! あたしでもがんばれば先生と対等な位置に立てるかも!」
「そうそう、頑張って」
パッと立ち上がった瑠璃は、来た時とは全くの別人のような表情になっていた。
「あたし、アトリエ行って来る! 忍さん、ありがと!」
忍が返事をする前に瑠璃はもう図書館を飛び出していた。
***
「澤田先生!」
瑠璃はアトリエのドアを開けると同時に、寝ても覚めても自分の脳を覆いつくしている男の名を呼んだ。
「やあ、来たね」
その声を聴くだけで体温が上昇するのを瑠璃は感じた。
「あのね、あのね、あたし考えたんですけど。その、この前ペインティングオイルで色鉛筆を伸ばす方法聞いたばっかりでまたこんなこと言ったら、呆れられちゃうかもしれないんだけど」
「なんだよ、また画材変えるのかよ」
奥から出てきた湊人に「あれ? 湊人、学校は?」と瑠璃が問いかける。
「わーるかったな、サボりじゃねえぞ、冬休みだ」
「ほらほら、わかったから傘畳んで、コート脱いで。まずは落ち着いて。コーヒー淹れよう」
「オレが淹れるよ。瑠璃は何か先生に相談がありそうだし」
言うが早いか、湊人はもう立っている。なんだか湊人はもうここに住んでいるのではないかというくらい、しっくり馴染んでいる。
瑠璃はコートを脱いで入り口のポールに掛けると、イーゼルの前から椅子を一脚持ってきた。
「あのね、先生。あれからふわふわの練習、いっぱいしたんです。だけど、なんかあたしの描きたいものじゃないって感じで。それでね、この前帰る間際に見た湊人の絵が気になって。それでもっとこう、パステルとか色鉛筆みたいなぼんやりした色じゃなくて、ガッツリ塗り込んだようなのが描きたいって言うか、こう、圧力のある絵が描きたいって言うか」
「うん、それで?」
澤田は瑠璃とは正反対に、相変わらず落ち着いて聞いている。澤田にはこのディレクターズチェアが良く似合う。
「それで、何がいいか考えたんですけど、この前ペインティングオイル使ってせっかく少し慣れたから、今こそ油絵をやってみようかなって。でも、あんまりちょこちょこ変えるのは良くないかなって思って、それで先生に相談したくて来たんです」
「いいんじゃない?」
澤田の返事は拍子抜けするほど簡単だった。彼にしてみれば「ごちゃごちゃ悩む暇があったら、実際に描いてみたらいいんだよ」というだけのことなのだが、瑠璃にしてみれば、こんなことで呆れられるのは避けたいのだ。
そして、新しい画材に手を出すということは、澤田のマンツーマンのレッスンが受けられることをも意味する。瑠璃にとってはお祭り騒ぎである。
「エプロン持って来てる? スモックならもっといいけど。油絵具は洗濯しても落ちないよ」
「持って来てないです。それにエプロン持ってないです。買った方がいいですか?」
「じゃ、ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
コーヒーを入れて戻って来た湊人と入れ違いに澤田がアトリエを出て行く。
「センセー、全然気づいてくれねーのな」
「何が?」
「瑠璃の色付きリップ」
澤田にこそ見て欲しかったことを湊人に見破られて、瑠璃は顔から火が出そうになった。
「なんで湊人が気付くかなぁ」
「言っただろ。センセーはそういうとこ鈍いって」
口を尖らせる瑠璃を見て湊人がくすくす笑う。瑠璃にとっていちいち腹の立つ男だが、それだけ彼女をよく見てくれているということだろう。
「油絵、手ぇ出すんだな」
「うん。湊人には負けたくない」
「なんだ、オレかよ。そんなチンケな目標立てんな、もっと上狙え」
湊人はハンモックに座ると、「オレさ」と言葉を継いだ。
「半年も先のことなんだけどさ。五月締めの絵画コンクール、出そうと思ってるんだ」
「五月なんて何かあったっけ?」
「武蔵野ビエンナーレ。本格的なアートの祭典だからさ。ここら辺で一度、実力を試してみたいんだ」
「あの車の絵?」
「あれは習作」
湊人のマグカップの中でコーヒーが揺れて波を立てる。瑠璃のそれと違って真っ黒な液体が、小さな空間の中でうねりを形作る。湊人なら、これすらもエアブラシで表現してしまうのだろう。
「瑠璃も出せよ。油絵で」
「そう……しよっかな」
その時、アトリエのドアが開いて澤田が現れた。
「これ、使う? 僕の着古しのシャツだけど、ちょうど瑠璃ちゃんにはスモック代わりになるんじゃないかな」
――澤田先生のシャツ!
「着ますっ! あたし、これ着たら頑張れる! 武蔵野ビエンナーレ、出します!」
「え? 武蔵野ビエンナーレ? 何の話?」
後ろでは湊人がいつものように苦笑いしていた。
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