第24話 ペインティングオイル
それからしばらくして瑠璃はアトリエに現れた。
「やぁ、久しぶりだね」といつもと変わらない笑顔を向ける澤田を見て、あの時早まらなくて良かったと心底思うと同時に、湊人に心から感謝した。もしも公園で湊人に会わなかったら、この澤田の笑顔はもう二度と見ることは叶わなかったかもしれない。その兄弟子は今日は来ていないようだ。
「先生、質問があるんです」
「ん? なんだい?」
瑠璃は椅子に落ち着く暇もないといったふうに、カバンから一冊の絵本を取り出した。見慣れたバーコードが、図書館から借りて来た絵本であることを物語っている。
その本の表紙には、柔らかいタッチの色鉛筆で、キツネの絵が描かれていた。
「こういう、ふわっふわの毛並みが描きたいんです。この絵、どう見ても色鉛筆だから、絶対同じように描けるはずなんです。だけどどう頑張っても同じように描けないんです。凄く粒子が細かい感じがして。でもあたしの色鉛筆のせいじゃないと思うんです」
澤田はそのキツネの絵をチラリと見ると、フッと笑った。
「そうだね。それはポリクロモスのせいじゃない」
「やっぱりあたしの描き方が悪いんだ」
澤田は描きかけの油絵の方へ歩いて行きながら、「いや、描き方のせいでもないよ」と言った。
「どういうことですか?」
「テクニックを知らないだけ。それをこれから教えよう。スケッチブックがあれば出して」
瑠璃がスケッチブックを出している間に、彼はイーゼルの足元に置いてあったボトルを持って戻って来た。
「これ、ペインティングオイルっていうんだ。油絵で使う溶き油のこと」
次に澤田は色鉛筆を出してきた。彼の色鉛筆はカランダッシュ。スケッチブックにいくつか混色しながらさっと塗り込んだ彼は、ガーゼを人差し指に巻いた。
「このガーゼにペインティングオイルを浸み込ませる」
「はい」
「そのまま色鉛筆で塗ったところをこする」
「えっ、油ついちゃいますよ」
「つけてるの。こうやってね、色鉛筆のワックスをオイルで溶かしてやるんだ。そうすると、ほら」
言っているそばから色鉛筆が美しいグラデーションを伴って見事に混色されて行く。まさに絵本のキツネと同じような効果が、瑠璃の目の前に展開された。
「すごい! 魔法みたい!」
「どちらかと言えば化学だね」
澤田はガーゼを指から外し、スケッチブックを何枚かめくってみた。瑠璃がなんとかしてふわふわの毛並みを書こうとしていた努力の痕跡が見える。
「この練習下絵を使って、今やってごらん。ガーゼならここにある。まぁ、まずはコートを脱ごうか」
瑠璃は元気よく返事をすると、思い出したようにコートを脱いだ。とにかく一刻も早く聞きたくて、コートも脱がずに質問してしまっていた。
澤田の言葉に従って、瑠璃も見様見真似でペインティングオイルをガーゼに少し取る。あの独特の匂いがする。美術室の匂いだ。
「あー適当にこするんじゃなくてね。これは動物なんだから、毛並みに沿って撫でてあげるように優しくね。自分の作品には愛情をもって描いてあげて」
澤田の作品は彼の愛情を一身に受けているのだと思うと、瑠璃は少し悔しさを感じた。絵にさえもヤキモチ妬くなんて、と瑠璃は自分の嫉妬深さに呆れた。
自分も良い作品を描けば、澤田に愛情を掛けて貰える、それだけで彼女は俄然やる気が湧いて来た。
一心不乱に描き続け、気づいた時には夕方になっていた。その頃にはもう、絵本のようなふわふわの毛並みが、ある程度再現できるようになっていた。
「先生、どうですか?」
澤田は描いていた油絵を一旦中断して、瑠璃の絵を見てくれた。彼が外したホルベインのロゴの入った生成り色のエプロンは色とりどりになっていて、汚れたというよりは一枚のアートのようになっていた。
「いいね、上手くなった。こうやってふわふわを再現出来たら、今度はその上から『遊び毛』をシャープなラインで入れてやるとリアリティが出るよ。それと、瞳が死んでるね。ハイライトを入れた方がいい。動物の写真をよく見てごらん。どんな風にハイライトが入るかわかるから」
「はーい」
「一に観察、二に観察だよ。でも今日はもう遅いからまた今度おいで。暗くなってきたからね。湊人と一緒に帰った方がいい」
といっても、今日は湊人は来ていない。
「湊人、呼ぶんですか? 一人で帰れますよ」
「おい、湊人、起きろ」
「んあー?」
なんと。湊人はイーゼル置き場の下のハンモックで寝ていたのだ。瑠璃が来る前からずっとそこにいて、彼女が数時間ぶっ通しで描いている間、ずっとずっと存在感無く、そこで眠っていたらしい。
「湊人! いたの?」
「昨日徹夜で描いたらしくてね、瑠璃ちゃんが来るちょっと前にハンモックにゴロンとひっくり返ってそのまんま。湊人、もう暗くなったぞ。瑠璃ちゃん送ってやれ」
「瑠璃? なんだ来てたのか」
「来てたのかじゃないよ、徹夜で何描いてたの?」
「茶棚の上に干してあるよ」
瑠璃が早速見に行くと、そこにはB2ケントボードが立てかけてあった。この前見た、澤田が軽くお手本として書いたB3のヴィンテージカーを描き直したもので、今回はセピア色ではなく青みを帯びたグレーのグラデーションのみで描かれていた。澤田の穏やかで優しい雰囲気のものと違って、湊人の絵はクールで重量感があった。
見る度に上手くなっていく。描けば描いただけ手の届かない存在になって行く。湊人の実力を目の当たりにし、どんどん引き離されて行くことに再び焦りを覚えた。
それは、湊人が早々に自分の画材やスタイルを決めていたからかもしれない。いつまでも自分のスタイルを探している瑠璃は、その分、突き詰めていく時間が湊人よりは少ないのだから当然と言えば当然だ。
それを察知したのか、湊人の声が後ろから飛んできた。
「帰ろうぜ」
有無を言わせないその目に、彼女は「うん」と従った。
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