第22話 ヴィンテージカー

 母は瑠璃の入選を喜んでくれた。それは今までと同じ、自然な反応だった。母もまた、瑠璃が今までと同じように、飛び跳ねて喜ぶと信じていた。彼女が『認めて貰うこと』を何よりの喜びとしているのを、母は知っていたからだ。


 だが今回は違っていた。母が変わったのではない、瑠璃が変わったのだ。彼女は五人に一人が入選するようなものを『認められた』と判断しなかった。

 しかも同じところに立っていると信じて疑わなかった湊人と、まるでそこに到達していなかった自分との実力の差を、二度も連続で見せつけられたのだ。実力の差もさることながら、その差に気付けない自分の目を情けなく感じていた。


 ――もしかして自分は湊人と勝負どころか、対等の位置にすらそもそもいないのではないだろうか。子猫が虎に挑むように、まるでレベルが違うのに、先生が適当に話を合わせてくれているのではないだろうか。湊人も心の中では「バカなやつ」と笑っていたのではないだろうか。


 考えれば考えるほど自分が情けなくなり、湊人と澤田に対する不信感が増幅していく。


 ――あたしはあのアトリエに相応しくない。あそこには要らない子。あそこはあたしの居場所じゃない。


 知らず知らず、いつものパターンに嵌っていく。留まるところを知らない負の感情の連鎖。『あたし』が真ん中にある限り、どうやっても抜けられない魔の永久ループ。


 ――もうあのアトリエに行くのはやめよう。澤田先生から絵を習うのは終わりにしよう。自分一人で、自己満足の中で、好き勝手に絵を描こう。上手くなんてなれるわけがない。

 ――やっと見つけた居場所だと思った。だけど、そこは選ばれた者だけのアートサロンだった。澤田も湊人も、アートの為に生まれてきたような才能だ。自分はそこにいる資格はない。


 傍から見れば、瑠璃の様子は滑稽に映るだろう、勝手に思い込んで、勝手に落ち込んで、勝手に自棄になる。悲劇のヒロインを気取って、世界中の不幸を一身に背負ったような顔をしている、とんだお笑い種だ。

 だが、その只中にいる瑠璃にとって、悲劇の主人公はいつだって瑠璃なのだ。『可愛そうなワタシ』に酔っているだけだということに、本人は気づくことができない。苦しんでいるあたしのことなんか、先生も湊人も絶対に気付いてくれない。ワタシ、トテモ、カワイソウ……。


 このまま澤田に会えなくなるのは嫌だった。最後にほんのちょっとだけでいい、彼に会いたかった。ほんの一言でいい、自分だけにかけられる彼の声が聴きたかった。


 彼女は覚悟を決めてアトリエに向かった。アトリエへ向かう道で、季節が移ろっていることに気付いた。

 一心不乱に色鉛筆を動かしている間に夏は過ぎ、秋もそろそろ終わろうとしている。あんなに元気に咲いていたヒマワリが、知らぬ間に刈り取られていた。道端に咲いていたアサガオはコスモスにその場を譲り、そのコスモスもそろそろ終わりを迎えようとしていた。

 木綿のブラウスはタートルネックのセーターになっており、帽子に代わってコートが必要になっていた。


 十一月。そういえば澤田は十一月生まれだと言っていた。

 初めて覚えた三つの誕生石。七月のルビー、九月のサファイア、十一月のシトリン。自分たちは三人で三原色トリオだったのだ。自分が抜けたら赤と黄色。今の季節の色、これも運命なのか。


 この季節は陽が落ちるのが早い。夕方五時ともなると、薄暗くなってくる。

 枯葉の舞う道を一人トボトボと歩き、瑠璃は澤田のアトリエに到着した。彼はいるだろうか。今日は湊人には会いたくない。先生だけに会って、先生だけにサヨナラを言いたい。そう思いながら、アトリエの階段を上った。


 入り口のドアに手をかけて、そこで彼女は躊躇った。なんと言って入って行ったらいいのかわからなかった。そして、なんと言って出てきたらいいのかもわからなかった。

 暫く悩んだものの、何も思いつかなかった瑠璃は「なるようになれ」とそのドアを開けた。


 誰もいなかった。先生も、湊人も。

 会いに来たはずなのに、誰もいなかったことに少し安心していた。


 ふと見ると、イーゼルに絵がかかっていた。B3判くらいのケントに描きかけのエアブラシ。ヴィンテージカーとでもいうのだろうか、とても古そうな外国の車がセピア色で表現されている。描きかけだというのにこの完成度。これは明らかに湊人のものだ。


 どうやっても敵わない。自分はこんな人を相手に戦いを挑んでいたのか。

 今までわからなかった湊人の凄さが、自分の目が肥えて来たことによって突然突き付けられた。それは本来喜ばしい事だったが、現在の瑠璃にとっては、自らを更なる絶望へと追いやる道具に過ぎなかった。


 湊人の絵を見ていることに息苦しさを感じ、我慢できなくなった瑠璃はアトリエを出た。かと言ってこのまま家に帰る気にもなれない、仕方なくいつものように鎌の淵公園へと向かった。

 ここへ来ると、不思議と気持ちが落ち着く。川が、木が、石が、そこにある自然が全力で癒してくれるような気がするのだ。

 だが、さすがに十一月の河原は寒かった。マフラーと手袋をしてこなかったのを瑠璃は今更後悔した。


 ふと、正面から誰かが歩いてくるのが見えた。夕陽が落ちて薄暗くなってきた景色の中で、その人影は少年のシルエットを形作った。


 湊人だった。

 彼はすぐに瑠璃に気付いた。「よぉ」と手を挙げる彼に、瑠璃は一抹の気まずさを覚えた。あの時、心から「おめでとう」と言ってあげられなかった自分の心の狭さを恥じていた。


「何やってんだ、こんなとこで」

「散歩」

「今から帰んの? 来たばっかし?」

「今来たとこ」

「じゃ、ちょうどいいや。ちょっと付き合え」


 返事もしないうちにさっさと先に立って歩きだす湊人に、仕方なく瑠璃はついて行った。


「どこ行くの?」

「どこも行かねえよ。そこの四阿あずまや。あそこ、あんまり風当たんねえから」


 ポケットに両手を突っ込んだままサクサクと歩いて行った彼は、四阿に入るなりベンチに腰掛けて、自分のすぐ隣を掌でポンポンと叩いてみせた。


「ここ座れよ」


 瑠璃が素直に隣に座るのを待って、湊人は口を開いた。


「で、どうしたよ?」

「何が?」

「お前がここを一人で散歩すんのって、大抵なんかあったときじゃん。何があった?」


 そういうところは変に勘がいいのに、その原因が自分にある事に気付かないのが湊人の湊人たる所以である。尤も、直前に瑠璃がアトリエに立ち寄ったことなど知らないのだから、仕方が無いと言えば仕方が無いのだが。


「なんでもないよ」

「なんでもねえわけねえじゃん。お前が明らかに凹んでんのに、知らん顔できねえよ。一応『兄弟子あにでし』だしな」


 その言い方がおかしくて、瑠璃はつい、噴き出してしまった。喋り方は相変わらずめんどくさそうなのに、言ってる内容が世話好きのおばちゃんみたいだ。


「なんだよ、何笑ってんだよ」

「だって、兄弟子なんて言うんだもん」

「兄弟子じゃん」

「確かに」

「ほれ、笑ったついでに兄弟子に言ってみろ。何があった?」


 湊人にはわからないだろう。天才的なセンスを持つ湊人には、凡人の苦悩なんかわかるわけがない。


「今、アトリエ行ってきた」

「先生いなかっただろ」

「うん。だけど、湊人の絵、見たよ。古い車の絵」

「あれ、オレの絵じゃねえよ、澤田先生が描いたんだ。オレはカラーで描いたんだけどさ、これならセピアの方がいいんじゃないかって、サクッとお手本描いてくれたんだ」

「あれ、先生の絵なの?」

「そ」


 瑠璃は澤田と湊人の絵の見分けがつかなかったことに、更にショックを受けた。もうこれで確定したも同然だった。


「あたしね、あそこ、やめようかと思うんだ」

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