第21話 カラーチャート

 結局瑠璃は誕生日プレゼント前倒しで、八月に入ってすぐにポリクロモス120色を買って貰う事に成功した。この先、大人になるまでの誕生日プレゼントを一括で前倒し、即ちもうこれを『最後の誕生日プレゼント』としていいから買ってくれと母に迫ったのである。


 勿論、母は最初難色を示した。なにしろ澤田のところに通うようになってから、既に画材をいくつ変えただろうかというほど変えている。色鉛筆、ハードパステル、ソフトパステル、エアブラシ、鉛筆、木炭。


 だが、瑠璃は画材を変更する前に必ず少しだけ色鉛筆に戻る。すぐに次の画材に行かずに間に色鉛筆でワンクッション置いていた。この先何度でも画材が変わることがあるだろうが、必ず色鉛筆には戻って来る、それが予想できたことで、母は瑠璃に色鉛筆を買ってやることを了承したのだ。


 意気揚々と120色の色鉛筆を持って澤田のアトリエにやって来た瑠璃は、まず手始めにカラーチャートづくりという洗礼を受けた。

 流石にこれだけ色数が多くなると、実際の芯の色の微妙な色合いの違いが、鉛筆の軸の色では表現できなくなる。つまり、軸の色で芯の色を正確に把握することは出来ないのだ。

 そこで、実際に色を塗った一覧表を作る必要が出てくる。番号と色名で、どんな色が展開されるのか一目でわかるようにしておくのである。


 これは全色分、ひたすら丸や四角の枠の中を色鉛筆で塗るだけの作業だ。しかもしっかり塗り込んだところから薄く塗るところまでのグラデーションで、カラーチャートを作る必要がある。重ね塗りや淡色塗りの発色の参考にするためだ。

 更に、色を塗ったらそこにカラーナンバーと色名を書き込まなければならない。それが無いと作った意味が無いのだから、仕方がないと言えば仕方が無いのだが。


 澤田の心配は、このカラーチャートづくりだった。なんと言っても瑠璃は決められた単調な作業が大嫌いだ。自分のやりたいようにしか動かない。果たしてこの子にカラーチャートが作れるのだろうか。

 澤田と全く同じ心配をしている人間がもう一人いた。瑠璃の母である。

 彼女もイラストレーターという仕事柄、色数の多いものは全てカラーチャートを作っていた。だが、その存在を瑠璃には教えていなかった。


 ところが二人の心配をよそに、瑠璃はこれに嬉々として取り組んだ。

 そうなのだ、色たちの住所を決めること、これは瑠璃の大好きな作業だったのだ。それはそれは楽しそうにカラーチャートを作る瑠璃を見て、澤田は心底ホッと胸を撫で下ろしたものだった。


 そして、このカラーチャートづくりは思わぬ効果を生んだ。瑠璃が色の名前を覚え始めたのである。


 今まで「黄土色っぽい黄色」「ベージュがかった白」などと呼んでいた瑠璃が「イエローオーカー」「アイボリホワイト」などと呼ぶようになったのだ。

 これで一気に湊人との話が通じるようになった。今までは二人が並んで絵を描いている時、湊人が瑠璃にアドバイスすることがあったのだが、瑠璃が色の名前を知らな過ぎて会話が成り立たなかったのだ。


 瑠璃に言わせると、濃い赤、薄い赤という程度なのだ。ところがこれが湊人に言わせると、カーマイン、クリムゾン、スカーレット、チェリー、フーシャ、サングリア、ローズ、ポピー、ストロベリー、マゼンタ、カラント、ルビー、ボルドー、ガーネット、マホガニー、ブラッド、ブリックと細かくどの色味に偏ったものなのかを指定してくる。

 同じ鉱物系でもガーネットとルビーではまるで色味が異なるし、植物でもマホガニーとフーシャでは大違いだ。だが、全部『赤系』という意味では同じ仲間である。

 この辺りの微妙な色の違いを正確に見分ける目は二人とも持ち合わせてはいたが、瑠璃はその名前を今まで全く知らなかったのだ。


 これを覚えたおかげで、瑠璃は湊人と澤田の話にも付いて行けるようになった。話が分かると、それがそのまま作品に生かされて行く。瑠璃のカラーセンスはこれによって飛躍的に向上した。


 そして、あっという間に二カ月が過ぎ、二人はそれぞれの自信作をとある広告イラスト大賞に応募した。テーマとして示されたいくつかの商品の中から任意のものを選び、その商品の広告の為のイラストを描くコンテストである。


 湊人はエアブラシによるリアルイラストレーションで、大型バイクを描いていた。漆黒の車体や磨き上げられたマフラーに映り込む光、タイヤのしなやかさ、テールランプの質感などが見事に表現され、まるで写真のようだった。

 一方、瑠璃の方はぬいぐるみの広告を題材に選んだ。ふわふわの毛並みや真っ黒な目、合皮でできた鼻など、ぬいぐるみ感たっぷりに描かれていた。


 今回の瑠璃はかなり自信があった。デッサンも念入りにやったし、構図も何度となく描き直して決めた。先に新しい色鉛筆に慣れるために、何枚か習作さえ描いていた。

 そうやって臨んだ応募作品だった。抜かりはない。自分の持てる力を全部出しきって描いた自信作だった。


 だが、結果は無情だった。瑠璃は『入選』には入ったものの、それだけだった。この公募は、二割の作品は『入選』となる。十分の二。言い換えれば、五人に一人は『入選』するのだ。落とされたも同然だった。

 一方、湊人の方は優秀賞に選ばれていた。トップスリーだ。

 湊人は黙って頑張っていた。瑠璃のように一挙一動大騒ぎせず、淡々と、黙々と、ひたすら静かに作品と向き合っていた。その結果がこうして現れていた。


 瑠璃は湊人に「おめでとう」とだけ言って、しばらくアトリエに姿を現さなくなった。

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