第20話 誕生日
無邪気に笑う瑠璃を見ながら、澤田は一抹の気まずさを覚えていた。
これはきっと忍の方も色々大変だっただろう。結婚を考えていることは言わないにしても、知り合いだと言っておいた方がいいだろうか、と澤田が思ったその時だ。湊人が「センセー」と声を掛けたのだ。
その目は「黙っとけ」と言っていた。瑠璃の気持ちに気付いていた湊人なりの、精一杯のフォローだった。
「なあ、どこ行ってたんだよ。ちょっとそこまでとか言って、三十分も帰ってこなかったじゃん」
忍の話から話題を反らした湊人にここは乗っておくしかない、澤田は湊人に内心感謝しながら「ああ、そうだった」と思い出したかのように言った。
「ケーキを買ってきたんだ。三人で湊人の奨励賞を祝おうと思ってね」
「え、マジか」
「ほらこれ」
澤田はケーキの小箱を軽く持ち上げて見せた。
「湊人、折り畳みテーブルを持って来てくれないか。場所はわかるね?」
「おう。椅子もオレが準備する。瑠璃、流しの横の棚からグラスと皿出してきて。引き出しにフォークが入ってる」
「うん、わかった」
瑠璃が棚の方に行くのを見て、湊人は澤田にコッソリと耳打ちした。
「今は言わない方がいいと思う」
「了解」
ハンモックの前に置いたテーブルにグラスを並べ、澤田がシュガーフリーのアイスティーを注ぎ分ける。湊人がイーゼルの丸椅子に、瑠璃が机の椅子に、澤田はいつものようにディレクターズチェアを引っ張って来る。
「湊人はモンブランが好きだったよね。瑠璃ちゃんはイチゴのショートとチーズケーキ、どっちがいいかな?」
「イチゴのショート!」
「良かった、僕はチーズケーキ派なんだ」
ケーキを皿に取り分けて、フォークを配ると、澤田は「はいグラス持って」と言い出した。
「まずは湊人の奨励賞おめでとう!」
澤田がグラスを前に出すと、つられて二人も「かんぱーい」と歓声を上げる。
「十月のイラストコンペも頑張ろう!」
「おー!」
また三人はグラスを合わせた。こういう些細なことがいちいち楽しい年頃だ。
ここで澤田は小さなロウソクを一本出してくると、湊人のケーキに問答無用で刺した。瑠璃が驚く中、彼はそれに火を灯した。
「湊人、誕生日おめでとう」
「え? 湊人、誕生日なの?」
「ああ、うん」
「えーっ、そうなの? うわー、おめでとう! ほら、火、消して!」
瑠璃に促されて、湊人は一本だけのロウソクを吹き消した。澤田と瑠璃が一緒に拍手をすると、彼は照れ臭そうに笑った。
「湊人、七月生まれだったんだね」
「ああ。だからなんか赤が好きなんだよな」
「え? 関係あるの?」
「七月の誕生石ってルビーじゃん」
誕生石。そんなものを気にしたことなど今まで一度もなかっただけに、瑠璃は俄然興味が湧いた。
「ねえ、あたし九月なの。誕生石って何かわかる?」
「サファイアだよ。群青色の石」
「群青!」
大袈裟にパチンと手を打った瑠璃の顔が、みるみる輝きだした。
「やっぱりあたしの運命の色なんだ。あのね、あたし群青色にいつも救われてたの。ほら、あそこの公園の吊り橋で見た空の色、湊人が最初にあたしを見つけた日ね。あの時の空の色も群青色だった。澤田先生と図書館で出会った時も、先生が拾ってくれた鉛筆、群青色だったの。こんな偶然ってある? これは偶然じゃなくて運命だと思うんだ!」
一気に喋って、ふと我に返った瑠璃は、澤田と湊人が目を点にしていることに気付いた。この感じどこかで……。
そうだ、学校だ。自分が夢中になってわーっと喋った後、ふと気づくとみんながポカンとしていることがあった。喋っている間、他のことが全く見えなくなる。全てに於いて、一つずつしか処理できないのだ。
今日は湊人のお祝いだったのに。もしかして、湊人に呆れられただろうか。先生に嫌われてしまっただろうか。瑠璃の盛り上がりは、一瞬にして氷点下まで冷めてしまった。
お願い、何か言って――そう思った時、湊人がフムフムと頷いた。
「へえ、瑠璃は群青が好きなのか。良かったな、サファイアで」
「非因果的連関の原理だね」
――呆れていない? 受け入れてくれている?
「日本画の絵具も、群青色を作るのに瑠璃を使うんだよ。瑠璃っていうのはラピス・ラズリのこと。昔はなかなか手に入らない高価な絵具だったんだ」
「えっ? 瑠璃が群青! 凄い!」
「そうか、湊人はルビーで赤いアタマに赤いミサンガ。瑠璃ちゃんはウルトラマリン。じゃあ、僕は何かなぁ?」
「センセー何月よ?」
「十一月だよ」
「シトリンだな。黄色」
この二人は自分を受け入れてくれている。それが瑠璃には奇跡のように感じられた。こんなことは今までに一度だってなかったのだ。
「見事に三原色だね。あ、そうだ、湊人。今度石の絵を描くのはどうかな? あの透明感をエアブラシで描くのは楽しいぞ」
「おっ、それもらった! 三部作にしてルビーとサファイアとシトリンを描くってのはどうよ?」
「いいね!」
盛り上がる二人を見ながら、瑠璃はやっと居場所を見つけたことに安堵していた。これまでで最も安心して自分を出せる場所をようやく見つけたのだ。
――あたしは変われる。今までのような、誰にも相手にされずに全てを諦めきっていたような人生とはサヨナラだ。あたしは今、やっと人生のスタート地点に立ったんだ。
「お母さんに何かプレゼント貰ったの?」
澤田が湊人に聞くのを見て、瑠璃はハッと我に返った。湊人にお母さん……なんだか不思議な感じがした。当たり前のことなのに、何故か湊人は一人でいる印象が強かった。湊人と『お母さん』という言葉が、あまりにも似合わなかった。卵から孵化したと言われても信じそうだった。
「それがさ。要らねえって言ったんだけど、親にプレゼントくらいさせなさいってうるさくてさ。そんで『イラストコンペで奨励賞貰ったことだし、奮発して貰おうかな』ってわざと言ったんだよ。それなのに『いいよ~』だって。マジかよって感じだろ」
と言いつつも、湊人もまんざらでもなさそうだ。少し照れ臭そうにモンブランをつついているのが可愛らしい。なんのかんの言ってもまだ十六歳だ。
「いいじゃないか。で、何買って貰ったんだ?」
「ハンドピース。ダブルアクションの口径0.3と0.2。先生から借りてたのと同じヤツ。それと小型のコンプレッサー」
「凄い奮発して貰ったな。コンプレッサーのパワーは大丈夫?」
「うん、小型だけど0.1MPaあるよ。ホースも1.8m」
「これは次のコンペで優秀賞を取れって言われてるようなもんだな」
「頑張らないとなぁ。親は期待してないみたいだけど、餞別貰ったら土産が必要だよなぁ、やっぱ」
――湊人、エライ。あたしなんかプレゼント貰ったら「ありがとう」で終わりなのに。期待されていなくても、ちゃんと結果を出そうとしてる。あたしも――
「あたしも色鉛筆買って貰おう! それで本気出してコンペで大賞をとる!」
一瞬の間の後に、澤田が「いいねぇ」と笑った。
「先生、あたしが使う鉛筆、どれがいいと思いますか? 色鉛筆、たくさんありすぎてどれがいいかわかんないんです」
「どういうのがいいのかな? 柔らかいの? 発色が良いヤツ? シャープなラインが描けるヤツ?」
「発色が良くて、重ね塗りが綺麗に決まるのが良いんです」
「それなら一択。ファーバーカステルのポリクロモス色鉛筆。初心者にも扱いやすくて、とにかく言う事聞いてくれる」
のんびりとチーズケーキを口に運ぶ澤田に、瑠璃は力強く頷いた。
「よし、じゃそれにする。湊人、今度こそ勝負だよ!」
「えー? またやんの?」
「当然! あたし、誕生日プレゼント前倒しで買って貰う。十月の締め切りに間に合わせて、十一月の先生の誕生日にはあたしの大賞を先生にプレゼントするよ!」
澤田はニヤニヤしながら湊人の方をチラリと見た。
「それは楽しみだね。湊人も瑠璃ちゃんに負けるなよ?」
「おいおい、なんでオレが瑠璃に負けるんだよ、冗談じゃねえ。瑠璃が十人で束になったって負ける気しねえよ」
「言ったなー? その言葉、覚えとけー!」
「上等だ、瑠璃も忘れんなよ?」
この日は瑠璃にとって忘れられない日となった。
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