第19話 クロッキー
「なんだか恥ずかしいわね」
照れつつも、書棚の整理をしながら忍は素直に瑠璃に絵を描かれていた。
今日は瑠璃が図書館に来るなり「忍さんを描かせてください」と言ってきたのだ。
そうは言っても、自分も勤務時間中なのでポーズをとるわけにはいかないし、じっとしているわけにはいかない。それでも「クロッキーの練習がしたいから普通に仕事しててください」と言われて断る理由が見つからなかった忍は、しぶしぶモデルを引き受けたのだ。
クロッキーと言って、素早く全体の形を描きとる練習方法があるらしい。それを澤田から教えて貰って、早速、動き回って仕事をする人を描こうと思ったらしいのだ。そしてそのモデルに忍が選ばれてしまったわけだ。
忍としても、瑠璃には内緒とは言え、澤田に彼女を紹介した手前、協力せざるを得ない立場にある。
きっとこの瑠璃のクロッキーを見て、自分に何が起こったかを想像して笑うに違いない、と忍は恋人に想いを馳せた。
それにしても、最近の瑠璃は絵に対するのめり込み方が以前と全く違う。澤田に引き合わせる前は、所在なげにそこに座って本を読んだり、飽きてくると絵を描いたりという繰り返しだった。単に時間を潰している印象が強かった。
だが今はどうだろう。一分一秒も惜しいというように、鉛筆を動かしている。
「先生に会えて良かった。今ね、目標があるんです」
「そう。良かったわね。どんな目標か聞いてもいい?」
「また近いうちにイラストレーションコンペティションがあるんです。この前のコンペは湊人が……あ、湊人っていうのは例のトサカ君です、あの子が奨励賞を貰ってて、あたしは落選だったんです」
忍は当然その情報は持っていた。澤田から聞かされていたのだ。
「すっごく悔しくて。湊人に負けたのが死ぬほど悔しかったんです。でもね、湊人、本当に上手だったの。だから悔しかったけど納得できました」
忍は何も言わずに笑顔で続きを待った。
「次回は絶対に負けたくないの。湊人が嫌いなわけじゃないんですよ。結構いいヤツなんです。ただ、悔しいんです。いつも一緒にいるのに、湊人ばっかり先生に褒められるのが、もうメチャクチャ悔しくて。あたしだって先生に褒めて欲しい。先生に……もっと、いっぱい声かけて欲しい」
消え入るようなその言葉に、忍はある感情を見出した。
「ねえ、瑠璃ちゃん。もしかして先生のこと、好きになっちゃった?」
「えっ!」
瑠璃の反応はあまりにも正直だった。全身でそれを肯定していた。真っ赤になって俯いた彼女は、忍が今までに見た中で一番可愛らしい瑠璃だった。
さて、どうしたものか。自分と澤田の関係を瑠璃に知られるわけにはいかない。だが、いずれ知られることにはなる。
とは言っても、このくらいの女の子の恋など、流行り病のようなもの。あっという間に罹患するものの、熱が下がるのも早い。これは黙って様子を見ていた方が良さそうだ。
「あたし、アトリエ行きます。モデル、ありがとうございました。あの、あの、もしも先生が図書館に来ても、このことは内緒ですよ!」
「うん、わかった。女同士の秘密ね」
「ありがとう、忍さん!」
図書館を出て行く瑠璃の後ろ姿を見ながら、「困ったことになったわね」と忍は一人苦笑いしていた。
***
澤田のアトリエに行くと、既に湊人が来ていた。夏休みに入ってからは、湊人はいつも朝からここに来ている。澤田がいようといまいと関係なく、そこでエアブラシと格闘しているのだ。
「湊人、最近早いね」
「あ? ああ、次のイラストコンペも賞が欲しいからな」
かなり大きなイラストボードをイーゼルに立てかけ、淡い色の鉛筆で当たりを付けた下絵に淡色から色を乗せて行く。最初は一体何を書く気なのかさっぱりわからないが、少しずつその実態が掴めてくるのが湊人の絵の特徴だ。
「先生は?」
「ちょっと出かけるって」
「そう……」
しょんぼりとわかりやすく肩を落とす瑠璃に、湊人はニヤニヤしながらもう一言追加した。
「そんな残念そうな顔すんなよ。すぐ戻って来るって言ってたよ」
「残念そうになんかしてないもん!」
大急ぎで否定するものの、湊人は握った拳を鼻の頭に当てて笑いをこらえている。
「あ、湊人! そんな口元に手なんか当てたら絵具が口に入っちゃうよ! カドミウムとかコバルトとか、なんかヤバいよ!」
「いや、だって……瑠璃が……ふははは」
「何よぉ!」
瑠璃が湊人の腕を掴んだところに、ちょうど澤田が帰って来た。
「ただいまー」
「センセーお帰りー。瑠璃来たよー」
瑠璃はハッとして、慌てて湊人の腕を放した。こんなところ、絶対に澤田にだけは見られたくない。
「おやぁ? もしかして僕はお邪魔だったかな?」
「ああ、お邪魔だったかもなぁ。今オレたちいいとこだったんだよ」
「違っ……! 違いますっ! 湊人のバカ、何言うのよ!」
「ほんっと瑠璃ってわかりやすいな。チョー面白れえ」
「何がよっ、うるさいなーもう!」
澤田は二人のじゃれ合いを見ながら、「瑠璃ちゃんは次の題材は決まったかい?」と聞いた。
「まだです。決まるまでぼーっとしてるわけにもいかないので、今日はクロッキーしてました。これ!」
瑠璃がクロッキー帳を広げると、澤田だけでなく湊人も覗き込んだ。
「これ、図書館じゃねえの?」
「そうだよ。司書の忍さんって人と仲良しなの。忍さんの絵を描かせて貰ったんだ。クロッキーだからイマイチわかんないけど、実物はすごいきれいな人なんだよ」
湊人も澤田も一瞬何か言いたげにお互いをチラリと見たが、何も言わずに「ふーん」と興味無さそうに返した。その様子が瑠璃には何かよそよそしく映った。だが二人とも何を言うでもない。
「あれ? 忍さんと知り合いですか?」
「ああ、まあね。図書館にはよく行くからね」
「なーんだ、忍さん何も言ってなかったから。あ、そっか! あたし先生の名前、忍さんに言ってなかった! 絵の先生としか言ってなかったからわかんなかったんだ。今度はクロッキーじゃなくて、デッサンのモデルやってくれないかなぁ」
無邪気に笑う瑠璃を見ながら、澤田は一抹の気まずさを覚えていた。
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