第18話 恋

 世間の学生がみんな一斉に夏休みに入った頃、イラストレーションコンペティションの結果が発表になった。

 結果は澤田の予想した通りだった。湊人は奨励賞になり、瑠璃は見事なまでに落選だった。全く相手にされなかった。


 瑠璃の母は「もうやめた! 絵なんかつまんない!」と言い出すだろうと高をくくっていた。

 どこへ行っても仲間に入れて貰えず常に自分の居場所を探していた瑠璃は、自分が認めて貰えないところは早々に切り捨てて、自分を認めてくれそうなところを捜し歩く、そのパターンを繰り返していたからだ。

 それがまた仲間に入れて貰えない原因になっているのは母も重々承知していた。だが、それまでの彼女を見ていると「仲間に入れて貰えないこと」が彼女にとって最も屈辱的であることもある程度理解できたため、そのことをあまり強くは言えなかった。

 負の連鎖を作っているのは実は瑠璃自身でもある、ということに本人が気づくのを待つしかなかったのだ。


 だが、今回の瑠璃は母の予想を完全に裏切った。

 澤田先生に「当然の結果。デッサンがまるでできていないし、遠近法も適当で辻褄が合ってない、これで入選するわけがない」と言われたことを死ぬほど悔しがり、更には湊人が奨励賞を貰ったことが更に瑠璃を燃え上がらせたのだ。

 自分の部屋をアトリエに改造して本気で絵の勉強をすると言い出した瑠璃に、母は協力せざるを得なくなってしまった。


 現在は一階に母の仕事場となる書斎がある。二階には八畳の母の寝室と二十畳の広い部屋が一部屋ある。この部屋の半分を瑠璃の部屋にして、もう半分を母の画材置き場として使っていたのだ。そこには母が昔使っていたイーゼルやパステルなどの画材一式が収納されていた。

 この画材置き場を瑠璃のアトリエとして使いたいというのである。つまり半分は今まで通り瑠璃の部屋、そのままもう半分が瑠璃のアトリエになるという寸法だ。確かに一続きの大きな部屋なので瑠璃としても動きやすくなるだろう。


 結局、北側にベッドとタンス、ローテーブルを置き、アトリエとの仕切り代わりに背の低い本棚を置いた。本棚よりも南側はアトリエである。

 それまでそこにあった母の画材などは一階の母の仕事場だった部屋に移動し、母は今度から自分の寝室で仕事をすることになった。とは言え、母はパソコン一台で描くので、八畳の寝室で十分お釣りの来る広さではある。

 今度から母も瑠璃も、二階の廊下を挟んだそれぞれの部屋で絵を描く事になる。それはそれでお互い楽しみな事でもあった。


 母は瑠璃に確実に変化が表れていることに気付いていた。それは澤田永遠のアトリエに通うようになってからだというのは確認するまでもなかった。

 澤田先生が瑠璃を変えたのか。それともそこに来るというトサカ頭の男の子が変えたのだろうか。絵を描くという行為そのものの効果なのだろうか。

 いずれにしろそれが瑠璃にとって好ましい変化であることは間違いなかった。


 瑠璃は部屋を改造したことを澤田に報告した。自分が本気であることを澤田に知っておいて欲しかったのだ。むしろ自分のことを全て彼に知っていて欲しかったという方が正しいかもしれない。

 澤田は驚きながらもその話を喜んで聞いていた。彼もまた、今回の落選で瑠璃が「絵をやめる」と言い出すと思っていたのだ。


「それでね、デッサン毎日頑張ってるんです。とにかくたくさん描いてコツを掴もうと思って、じっくり観察してひたすら描いて、えっと、一日に5枚くらいデッサンしてるんです」

「少ないね。最低10枚描こうか」

「えーっ、そんなに描くんですか?」

「僕は毎日15枚デッサンしてたよ」


 軽く言ってのける澤田に眩暈がしそうになるが、そこは瑠璃も負けてはいられない。


「わかりました。あたしも15枚描きます」

「いや、君は10枚でいいよ。同じモチーフを2枚ずつ。別の角度から。それを5つのモチーフでやる。できるかな?」

「やります」


 この子は本気だ――澤田は顔がほころぶのを抑えられなかった。イラストコンペ、落選して正解だった――。


「そろそろ遠近法やろうか」

「なんですかそれ」

「遠くのものと近くのものを描き分けるの」

「遠くのものを小さく描いたらいいんですよね」

「まあそうなんだけど、それにも理屈があってね。ちゃんと理解していないと、いろいろと辻褄の合わない絵になってしまうんだ」


 澤田は書棚から画集を一冊引っ張り出してくると、瑠璃の前に広げた。そこに描かれている絵は、切り立った岩山の間を流れる川と、両岸の岩間から生える木々の様子だった。


「こういうのを山水画っていうんだ。山があって川があるから山水。中国で発祥して日本に渡ってきたものなんだけどね。これ、手前の山ははっきりとした色でシャープな線によって描かれているのはわかる?」

「はい。遠くに行くにつれてぼやけてます」

「そうだね、アウトラインもぼかしているし、色も淡くなってる。これは遠景になるにつれ、途中の大気の中に混じる水蒸気……簡単に言えば霧の部分が厚くなる。だから遠景は薄ぼんやりとした色調になる。これを大気遠近法と呼ぶんだ」


 瑠璃のすぐ隣で絵を指しながら説明してくれる声は穏やかで優しく、瑠璃の心をくるんと包み込んでしまうようだった。

 父親がいないせいか、澤田は瑠璃にとって唯一信頼できる大人の男性であり、それと同時に彼女の全てを拒否せずに受け入れてくれる数少ない人間の一人でもあった。

 彼女とは身長にして二十センチ違う澤田の柔らかなテノールが上から降り注ぐのを心地良く聞きながら、瑠璃はあることに気づいた。少し前から感じ始めていた彼へ気持ちの正体が『恋心』だということに。


「かといって何にでも同じ方法が使えるわけじゃなくてね。例えば部屋の中の絵を描くのに、奥の方が霞んでいたりするのはおかしい。同じ室内で大気の影響が出るなんてことはないからね」


 この澤田の言葉は、他の誰でもない瑠璃だけに向けられている。彼女にとってそれはとても贅沢な事に感じられた。

 『大勢の中の瑠璃』ではなく、『瑠璃の為だけ』に『澤田の口から』吐き出される言葉たち。母や湊人も同じように彼女の為にたくさんの言葉をかけていたはずなのに、全ての恋する女の子がそうであるように、澤田がそうしてくれることだけが彼女にとっての喜びに昇華して行く。


「建物や道を描くときには一点透視遠近法や二点透視遠近法を使う。こっちの絵なんかはそのいい例なんだけど」


 一度このループに嵌ってしまうとどんどん加速していくのが『恋』という病の厄介なところであり、澤田が瑠璃にかける言葉が増えれば増えるほど、それは二次曲線を描くかの如く加速して燃え上がってしまう。

 澤田本人に対して恋をするのと同じく、『恋をしている可愛い女の子』たる自分にも恋をしてしまっているのだ。


「どうも上の空みたいだから、今度にしようか」

「え、そんなことないです」

「今、何のこと考えてたの?」


 あなたのこと、とは流石に言えない。


「一度にたくさん説明しすぎてしまったね。少しずつ理解して行けばいいよ」


 全身を包み込むような優しいテノールが離れて行く。もう少しそばにいて欲しかった。

 後ろ髪を引かれる想いは、唐突に割り込んだドアを開ける音と「こんちゃーっす」の声にあっさり断ち切られた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る