第17話 毒
結論から言って、瑠璃はエアブラシに向いていなかった。エアブラシは几帳面で集中力のある人間でないと難しい。澤田には予想のついていたことではあるが、湊人は「まさかそんなことで?」と驚いたであろう。とにかく瑠璃は『気に障る』ことがあったり『合間に余計な作業が入る』だけで集中が切れるのだ。
エアブラシを使う時はマスクをつけるようにと、澤田が指導したのである。
アクリルやグワッシュの中には毒性のあるものが存在する。その毒性などたかが知れているとは言え、呼吸器が弱かったり金属アレルギーを持っていると何が起こるかわからないことから、念には念を入れてエアブラシによる噴霧を吸入してしまわないようにマスクの着用を義務付けたのだ。
これがなかなかに瑠璃には気に障ることだった。普段無いものがそこにある状態は、集中を途切れさせる原因となっていた。
もう一つ彼女にはどうしても気になってしまう事があった。
エアブラシはその特性上、色をチェンジする度にハンドピースからカップまで全部洗浄しなければならない。カップだけ洗ってもハンドピース内部に直前の色が残っていると、色が濁ってしまう。
この洗浄をエアブラシ画家たちは『うがい』と呼び、筆を洗うのと同じ感覚でサラリとこなすのだが、慣れない人には大袈裟に感じられる作業の一つではある。
湊人は途中で洗浄しても全く集中が途切れることはなく、寧ろコンプレッサーを休めるのにちょうどいいと考えていたようだが、瑠璃はそういうわけにはいかない。とにかく作業中は別の情報を割り込ませるわけにはいかないのだ。
マスク着用だけなら瑠璃もなんとか我慢しただろう。だが、色を替える度にハンドピースとカップを洗うのは我慢がならなかったようだ。「そんなことよく毎回できるね」と湊人の几帳面さに半ば呆れながら、彼女はエアブラシを辞退したのだ。
「先生、毒性ってほかの画材にもあるんですか?」
「他にも……って言うか、そもそも絵具の顔料は鉱物だったからね」
首を傾げる二人に澤田は絵具のチューブを一本持って来て見せた。瑠璃と湊人が頭を突き合わせるように覗き込む。
「ここに『AP』って言うマークがあるのわかるかい?」
二人がそれぞれ「ああ、あるな」「見えました」と確認するのを待って澤田は続ける。
「この『AP』の上に『ACMI』って書いてあるのはわかる? これはArt and Creative Material Instituteの頭文字をとったものなんだけどね、簡単に言うとアートやそれに準ずるものの材料を作ってるメーカーさんの国際協会なんだ。それで、APマークはApproved Product、健康問題を引き起こすのに十分な量の物質を含まないことが証明されている製品であるとACMIが認定したものにしか付かないマークなんだ。つまり、この『AP』がついていれば毒性的には安全と見ていい」
二人は黙ってうなずく。とりあえずここまでは理解できたようだ。
「こっちには『CL』って言うのがあるね? Cautionary Labelingの略なんだけど、まあ読んで字の如しだね。正しい使い方をしていれば問題はない、でも子供が使うには要注意と言ったところかな」
「それで、毒があるのは?」
待ちきれなくなったのか瑠璃が言葉を挟んだ。澤田は笑って大きなバツ印のついたものを見せた。
「こう言うの。アクリルやグワッシュにはちゃんとこうやって国際協会のマークとか一目でわかるピクトグラムがついているからいいんだけどね」
「ピクトグラムってなんですか?」
「これからデザインやるなら知っておいた方がいい。言語的な制約なしに、一目で何を表現しているかわかるマークのことだよ。非常口とか禁煙とか火気厳禁とか」
「撮影禁止とか飲食禁止もそうですか?」
「そうだね。湊人も何か知ってるかい?」
うーん、と首を捻っていた湊人もしばらくして「救護室とかAEDとか?」と聞いてマルを貰っている。
同じような内容でも、湊人の方が優等生の回答をして澤田に褒められるのが、瑠璃にはちょっと気に入らない。
「日本画などに使う絵具の顔料は、殆どが岩絵具だから危険なものはたくさんある。普通に洗面所に流しちゃいけない絵具もある」
「え、やべえじゃん。オレ、流しちゃったかも」
「大丈夫。僕のところではそういう危険なものは扱ってないよ。具体的には
大慌てで「あたし日本画やらなくていい」という瑠璃に、湊人も「オレも!」と同調している。口には出さないが澤田も「僕も」などと思っている。なにしろ普通に洗い流せないのは問題だ。
「さっきのバツがついてるのはどういう絵具なんですか?」
「硫化カドミウム辺りのカドミウム化合物、溶解性コバルト、溶解性銅辺りだね。そのままのものは危険なだからそれに似た色調のニセモノを使うんだ。よくヒューとかティントというのが色名に付いてることがある、これが付いたら偽物。湊人は見たことがあるね?」
「ああ、コバルトブルー・ヒューとかバーミリオン・ヒューとか」
「コバルトブルーは文字通りコバルトで、バーミリオンは硫化水銀だね」
二人が少しずつ真顔になっていく。絵を描くということは画材を知ることだ。その入り口に立ったばかりの子たちが、これからどんな絵を描いて行くのだろうか。
「粉末状のものは吸い込む可能性があるから危険なんだ、特に岩絵具。パステルは素手で持つことが前提だから、まぁまぁ安全だね。油絵具やアクリル絵具は筆で描く分には問題ないが、エアブラシなどで吸い込むと危険な場合がある。だからマスクをするように言ってるんだ」
「やっぱりあたしエアブラシできない」
「そうかもしれないね。湊人は几帳面で神経質なところがあるからいいけど、瑠璃ちゃんは割と大雑把で大胆だからね。それぞれの特性を生かして画材を選んだらいい」
「困ったなぁ。あたし、描いてみてやっぱりソフトパステル合わないって感じてたから、エアブラシやってみようと思ったのに」
困惑顔の瑠璃に、澤田は何気ない口調で「原点に立ち返ったらどうかな?」と声を掛けた。
「原点?」
「色鉛筆だよ。君はここに初めて来た時、三十六色の色鉛筆を使ってたよね? 三菱ユニカラーだったんじゃないかな?」
「それだ! あたし、色鉛筆で描く!」
やれやれ、今回も0.2秒で決定したようである。
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