第16話 エアブラシ
結局、瑠璃はイラストレーションコンペティションと湊人の絵に気を取られて、自分が湊人に謝りに来たことなんか綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
とは言え、湊人の方もそんなことはいちいち覚えていない、いまさら謝られても何のことかわからなかっただろう。
散々湊人のエアブラシを褒めちぎった後、自分もコンペに作品を出すと宣言して湊人に挑戦状を叩きつけたのだ。
そこから更に半月。その間、湊人はひたすらにエアブラシ、瑠璃はソフトパステルで、仲良く並んで絵を描いていた。
「今回は初めてだし、雰囲気だけ掴めればいいから」という澤田に対し、湊人は「オレのレベルで出しても恥ずかしくないか?」と消極的で、片や瑠璃の方は「出すからには大賞取る気で行く」と攻めの姿勢を見せていた。
描き上がった二人の絵は、見事に対照的だった。
湊人のエアブラシイラストは精緻を極め、とても十五歳の子供が描いたものには見えない出来栄えだった。
一方瑠璃の絵は完全にファンタジーの世界であり、森の中で花々が舞い躍る様を描いたものだった。
結果の発表は七月末、まだ一カ月もある。
さて次は何に手を出そうかとなったその時、瑠璃が「エアブラシをやりたい」と言い出した。思い出したと言った方が正しいのかもしれない。
確かにコンペの話をする直前、彼女はエアブラシがやりたいと言っていた。そしてこのコンペ用の作品を制作している間、ずっと隣で湊人がエアブラシを使っているのを間近で見ているのだ。以前と違って全く知らないわけではない。
描くときも、絵具を溶くときも、用具の片付けも、ずっとそばで見て来たのだ。
何より湊人の素晴らしい作品とその出来上がっていく過程を目の当たりにしている。それは瑠璃にとってこの上ない体験だった。彼女が「今度は自分の番」と思うのは必然的であると言えるだろう。
「エアブラシはオレが教えるって言ったよな」
「ああ、その方がいいね。僕よりも絶対に湊人の方がいい」
一瞬の躊躇いの後、瑠璃は頷いた。
「わかった。湊人に教えて貰う。お願いします」
***
「オレが使ってるのはダブルアクションハンドピース、塗料カップ容量7㎖、ノズル口径0.3㎜と0.2㎜、エアコンプレッサー0.1MPa、連続使用30分、塗料はリキテックス。どうした、緊張してんのか」
「緊張なんかしてないもん」
「はいはい」
澤田の目にも瑠璃が体中が強張っているのがわかる。湊人は恐らく気付いていないだろうが、あれは新しいことを教わる緊張ではなくて『同年代の子』という天敵が横にいる緊張感だ。
「エアブラシは三つ揃ってやっと描ける。ハンドピース、コンプレッサー、絵具。これがハンドピース、筆代わりな」
「うん」
二人の前にはエアブラシの用具が並んでいる。すぐそばでは澤田がディレクターズチェアに座って、コーヒーを飲みながら湊人の説明を聞いている。湊人の説明が間違っていた時にすぐに訂正できるように待機しているのだろう。
「まずはハンドピース。シングルアクション、ダブルアクション、トリガーアクションがある。シングルアクションはハンドピース上部のこのボタンを押す事で絵具を噴射したり止めたりする」
湊人がボタンの部分を見せてやると、瑠璃は「うん」と答える。
「ダブルアクションはこのボタンを押している間、空気を出すことができる。で、手前に倒すと絵具が出る。だからダブルアクション。絵具や空気の量を調整しながら描きたいときは、シングルよりはダブルがいい」
「うん」
湊人は瑠璃が理解しているのか確認すべく、一回ずつ彼女の顔を覗き見る。
「トリガーアクションは引き金みたいな形をしてるからそう呼ぶ。最初に軽く引くと空気だけ出てくる。更に引くと絵具が出てくる。空気の強さは調整できない代わりに、握ってるだけだから指が疲れない。オレのみたいな精密な絵はトリガーアクションじゃ難しい。瑠璃は初めてだから、疲れないトリガーアクションにしたらいいと思う」
「うん」
瑠璃は「うん」しか言わない。澤田に至っては何も言わない。自分の説明で大丈夫なのか、湊人は心配になって来る。
「で、このハンドピースの先っちょ、ここをノズルって言うんだけど。中にニードルが仕込んであって、そのニードルが――」
「ニードルって何?」
「針のこと。それがボタンやトリガーと連動して前後することで、ノズルの穴を塞いだり開いたりする。それで絵具の噴出量を調節してるわけ」
「おぉー!」
何かわかったのか、今までの「うん」とは違う反応だ。
「普通はノズル口径は0.3㎜の物を使うんだけど、オレは0.2㎜も使った。広い面積を塗る時は0.4㎜なんてのも使うんだろうけど、そうなると普通のコンプレッサーじゃ無理だから、まあ0.3㎜でいいと思う」
「うん」
「理解してんの?」
「大丈夫。あたしが使うのは疲れにくいトリガーアクション。0.3㎜のノズルだけ使えば問題ない」
自分に必須な事だけ押さえて、後は覚える気はない。却ってその方が良さそうだ。他のことはそれが必要になった時にまわし、今は「そういうのがある」ということだけ聞いていればいい。
ある意味要領が良いというべきだろう。いつも横で見ていた安心感が要領良くさせているのかもしれない。
「で、これが塗料カップ。ここに絵の具を入れる。こいつは容量7㎖のスタンダードなやつだけど、2㎖、10㎖、15㎖、30㎖なんてのもあるな。容量の大きいやつで、下にぶら下げるタイプもある。絵具を入れる時はちゃんと水で溶いてから。詰まるとえらい事になる」
「うん」
「で、このホースに繋がってるのがエアコンプレッサー。空気を送る機械」
「凄い音してたよね」
「そうだな。こいつは熱を持つと使えなくなるから、三十分が限界。しばらく休ませないといけない。空気圧は0.1MPa」
ここまでの湊人の説明は完璧だ。瑠璃にもちゃんと伝わっている。普段ぶっきらぼうな湊人も、やるときはやるらしい。
「で、あと絵具な。水彩絵具、アクリル絵具、カラーインク、墨汁辺りが使える。油性は耐久性があるから、屋外塗装用だと思えばいい。あんなもん部屋の中で使ったらラリっちまう」
「さっき湊人、なんか変な名前の塗料使ってるって言ったじゃん」
サラリと言った湊人の言葉を覚えている。ハンドピースのことは自分に用事のあること以外全く覚える気が無さそうだったが、絵具のこととなるとしっかり聞いている。なんとわかりやすい偏りだろうか。
「ああ、リキテックスな。アクリル絵具。アクリルは水彩みたいに水に溶かせるけど、乾くと耐水性になるから便利なんだ。特にエラブラシはね。一回ずつトリパブ吹いてらんねえから」
「トリパブって何?」
「ああ、水彩用の定着液だと思えばいいよ。マットとかグロスとかいろいろある」
「定着液って必要?」
「定着しないまま上からスプレーしたら、色が混じっちゃうじゃねえか」
「あ、そっか」
だんだん瑠璃も突っ込んだ質問をぶつけてくるようになった。この調子で画材の特性を理解して行けば、自分に合った画材を見つけることができるだろう。
「じゃ、実際描いてみるか」
「うん!」
ここからが本番だぞ、湊人――澤田はこれから起こるであろうことを予想して、一人苦笑いを噛み殺した。
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