第15話 湊人の絵

 瑠璃が再びアトリエを訪れたのは、梅雨入り前の六月初旬だった。前回ここを飛び出したのが五月の下旬だったから、二週間も顔を出さなかったことになる。

 それでも彼女が意を決してやってきたのは、別れ際にとった自分の態度への反省からだった。湊人に対して手を上げてしまったことが、ずっと喉に刺さった小骨のように引っかかっていて、何をやっても手につかなくなってしまったのだ。


 それに……澤田に会いたかった。彼の声が聴きたくて、我慢の限界を超えたのだ。

 恐る恐るドアを開けると、入り口に背を向けて何かを描いていた澤田が振り返った。


「やあ、久しぶりだね」


 二週間ぶりの澤田の声。瑠璃は一瞬で満たされた。


「あの……ごめんなさい、ずっとサボってて」


 俯いたまま瑠璃が言うと、澤田はケロッとした様子で「いいんじゃない、別に?」と言った。


「ここ、毎日通わなきゃいけないなんて一言も言ってないし、好きな時に来て好きな時に描けばいいって最初に言ったよね。月謝は定額だから毎日来てもまるまる一ヵ月来なくても、それは君の自由。描きたいときに描きに来ればいいさ」


 澤田の言葉を聞いて安心した瑠璃は、ホッとした様子でアトリエに入ってきた。


「コーヒー、飲むかい?」

「あ、ええと」

「ミルクと砂糖でしょ? ミルクは二つ」

「はい」


 瑠璃は湊人のことを思い出していた。

 思いっきりひっぱたいて、右手がジンジンと痺れた。暫くすると赤くなっていた。こんな力で叩かれて、湊人はきっと痛かったに違いない。

 湊人は瑠璃が何も言わなくても、砂糖とミルクが欲しいのを察してくれた。それなのに自分はムカついたからと言って、湊人に手を挙げたのだ。


 他人に手を挙げた事なんか今まで一度もなかった。それなのに頭に血がのぼって、気づいたら湊人を叩いていた。しかも頬を、だ。

 それだけ図星を指されたことがこたえたのだ。それも、まだそんなに親しくない湊人に言われたのが。それは彼女が湊人の言う『コンプレックス魔人』であることを、自ら証明したのも同然だった。


 ふと瑠璃が顔を上げると、イーゼルに絵がかかっていた。キャンバスでもなく、ただの紙でもない。3㎜ほどの厚紙に画用紙のようなものを貼り合わせたような感じのものだ。

 そして彼女の目を画面に縛り付けたのは、そこに描かれていたものだった。


 レモン、リンゴ、オレンジ、キウイ、イチゴ……様々なフルーツが水の中に落ちた瞬間が、写真のように正確に描かれている。

 飛び散る水しぶき、その奥に透けるオレンジ、レモンの粒々した表皮の質感、リンゴのツヤにイチゴの種。光を反射してキラキラと光る水滴。

 何より驚いたのは、そのフルーツたちが『気持ち良さそう』に描かれていることだ。もちろん顔がついているわけではない、それなのに、この一つ一つが水の中で弾けるような躍動感を以て描かれているのだ。

 これを才能と呼ばずに何と呼ぶのか。


「これ……先生が描いたんですか」


 やっとのことでそれだけ絞り出すと、両手にコーヒーを持った澤田が戻って来て笑った。


「湊人だよ」

「すご……い」


 瑠璃は澤田に渡されたコーヒーを飲むことすら忘れ、その絵にしばし見入った。


「湊人は凄いものを持ってる。今この段階でこれだけのリアルイラストレーションが描けるんだ、そこにイマジネーションが加わったら大化けするよ」

「イマジネーションですか」

「そう、彼にはそれが足りない。瑠璃ちゃんと彼は正反対なんだ」

「え? あたしですか?」


 驚いて聞き返す彼女に、澤田は落ち着いてコーヒーを一口すすってから続けた。


「そう。君はイマジネーションの塊だけど、逆にそれしかない。デッサンができてないから写実的に描く事ができないんだ」


 ふと、湊人にもそう言われたことを瑠璃は思い出した。公園まで迎えに来てくれた時だ。湊人はあの時何かを伝えようとしてたんだろうか。


「これ、イラストレーションコンペティションに出品するんだよ」

「え? なんですかそれ」

「青梅美術館でイラストの展覧会がある。賞に入れば美術館で展示されるんだ。湊人の作品は何らかの賞には入る。運が悪くても佳作には入るだろう。湊人には少し経験を積ませたくてね」

「あたしも出します!」


 そう言うと思ったよ――澤田は心の中で舌を出した。彼女の性格だ、やると言うに決まっている。とにかく目新しい情報にはすぐに食い付く。こうやっていろいろ経験していくのも悪くない。


「いいよ。何で描く?」

「ソフトパステルで描きます。この湊人が使ってる分厚い紙、なんですか」

「イラストレーションボード。湊人はケントで描いてるけど、イラストボードにはいろいろ種類があるからね。パステル用もあるよ」

「ミューズコットン。気に入ったんです。ありますか」


 早い。即断即決か。


「あるよ。だけどイーゼルに立てて描くわけじゃないだろう? イラストボードじゃない方が描きやすいんじゃないかな?」

「あ、そっか。じゃイラストボードじゃなくて普通の紙で描きます。でもミューズコットン」


 澤田は「わかったわかった、ミューズコットンね」と笑っている。


「じゃあ、何を書くのか、まず題材を決めないとね。いきなり描くんじゃなくて、構図を決めるために軽く下絵を描くといいよ。湊人も下絵を描いてる」

「えーっ、下絵描かないとダメですか? 下絵描いてるうちに気持ちが萎えちゃうんですけど」


 確かにそれは一理ある。彼女は本当にやりたいこと以外は、一切集中が持たないのだ。下絵を描くのが面倒だと思えば、下絵の段階でやる気を無くすだろう。


「いいよ。そのまま描いても大丈夫。何を描きたい?」

「えーっと……」


 と、その時ドアが開いた。


「こんちゃーっす」


 半月ぶりに見る湊人だった。

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