第13話 なにやってんだ
「ねえ先生、湊人って何で絵を描いてるんですか?」
木炭デッサンをしていた瑠璃が、不意に手を止めて澤田に声を掛けた。
「エアブラシだよ」
「エアブラシってどんな絵が描けるんですか?」
「湊人の描いたのがあるよ、見る?」
「見たい!」
澤田はポートフォリオから何枚かの絵を出してきた。もちろんその間に瑠璃はマスクと手袋を装着している。
「これが湊人の絵だな、こっちも」
瑠璃は度肝を抜かれた。彼女には写真のように見えたのだ。
葉っぱから今にも落ちそうな雫。湯気の立つお味噌汁。摘まみ上げたくなるような五百円玉。
本物そっくりのリアルイラストレーション。湊人はこんなすごい絵が描けるのか。
「すごい……湊人ってもしかして天才?」
「ああ、そうかもしれないね」
「あたしも描きたい!」
そう言うだろうなと予想していた澤田は、苦笑いと共に「ポートフォリオ片付けて」と促す。
恐らく瑠璃にエアブラシは向いていない。そうわかっていても、どう化けるかわからないのだ、なんでも一通りやらせてみるのもいいだろう。
瑠璃が片付けて戻ってくると、澤田の方はエアブラシの準備をしていた。なかなかにめんどくさそうな装備である。
「マスクはつけたままでいいよ。毒性のある絵具も中にはあるから、吸い込まないようにマスクをしてやるんだ。まずは練習ね」
澤田は金属製のシンプルな水鉄砲のようなものに赤い絵の具を入れて瑠璃に持たせると、背後に回って左手を彼女の肩に置き、右手で瑠璃の手を更に外側から包み込んで握った。
いきなりの澤田の行動に瑠璃は硬直した。体中の血液が顔に集まってきたような気がした。
「肩と腕の力抜いて」
耳元で囁かれる澤田の柔らかいテノールに脳が痺れた。こんな感覚は初めてだった。
瑠璃は暴れ狂う自分の心臓をどうやったら落ち着けられるのかわからず、パニックになっていた。
「こうやって、このトリガーを引くと絵具が出る。紙に近付けると細く濃くなるし、遠ざけると広い面積に薄く――」
その時、ガラッとドアが開いて「こんちゃーっす」という声が響いた。
「おう、湊人か」
澤田が入り口の方に声を掛けたことでこの状況を脱出できた瑠璃は、ホッとすると同時に何故か物寂しさを覚えた。パニックになっていたはずなのに、もう少しそうしていたかったという気持ちがむくむくと湧き上がって来たのだ。
湊人に邪魔されたことを悔しく感じるとともに、今の様子を彼に見られたことが急に恥ずかしくなった。
「何やってんだ?」
「瑠璃ちゃんがエアブラシやってみたいんだそうだ」
「へー」
笑いながら言う湊人に、何故かバカにされているような気がした。単にエアブラシをやっていたことをバカにされているだけでなく、自分が澤田に対して感じたことを読まれたような気まずさすら覚えた。
「何よ、別に試してみたっていいじゃない」
「悪いとは言ってねえよ」
「でも今バカにして笑ったじゃん」
「はぁ?」
「何やってんだとか言って」
「いや、そのまんまじゃん」
「何やってんだって言い方ないでしょ、初めてなんだから上手くいかないのなんか仕方ないじゃん、なんでそんな意地の悪い言い方ばっかりするの。湊人なんか大嫌い」
頭をポリポリかきながら「やれやれ」と溜息をつく澤田と、「またかよ」と言う湊人を残し、瑠璃はまたもやアトリエを飛び出した。恥ずかしかったのだ。顔を見られたくなかったのだ。
だが湊人もそう何度も同じ手は食わない。「オレちょっと行って来る」とすぐに後を追い、あっという間にアトリエの階段を降りたところで捕まってしまった。
「何やってんだよお前は」
「お前じゃない! 瑠璃!」
「じゃあ、何やってんだよ瑠璃は」
「あんたにムカついたから出て来た!」
「あんたじゃねえよ、湊人だって。なんかこればっかだな」
二人のやり取りを恋人同士の痴話喧嘩と見たのか、通りすがりのおばさんたちがくすくす笑いながら過ぎて行く。まあ、瑠璃の手首をガッチリ掴んでいる湊人を見れば、そう勘違いするのも仕方ないだろう。
声が聞こえたのか、澤田が二階の窓から覗いているが、湊人がそれに気づいても瑠璃が気付くことは無さそうだ。
「戻ろうぜ、オレが教えてやるよ」
「何よ、あたしのことバカにしてるんでしょ。自分が上手だからって」
「オレの絵、見たの?」
湊人に引っ張られながらも、あの美味しそうな味噌汁が瑠璃の目の前に再現された。
「味噌汁、すっごい美味しそうだった」
「褒めてくれるんだ」
「うん。天才かと思った」
「決めた、エアブラシだけはオレが教える。澤田先生からは習うな」
ブチっと再び瑠璃の頭の中で、何かが音を立てて切れた。彼女は思いっきり彼の手を振り払うと、怒鳴りつけた。
「なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのよ!」
「だからあんたじゃねえ、湊人」
「もう!」
怒っているのが瑠璃だけで、湊人が落ち着き払っているのがますます彼女には腹立たしい。
「エアブラシは澤田先生よりオレの方が絶対上手い。百倍上手い。だからエアブラシだけはオレが教えるって言ってんだ」
「ああ、その方がいいよ。僕より湊人の方が百倍上手い」
ハッと瑠璃が顔を上げると、窓から澤田が手を振っている。会話は筒抜けだったようだ。
「いいから二人とも上がっておいで。中で話そう」
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