第12話 クレヨン事件
「今日ね、この前言ってたトサカ頭といろいろ喋ったんだ。アイツ、あたしと同い年だった」
「へえ、じゃあ校区が違ったのかしらね。学校で会ったこと無いんでしょ?」
「あたしとちょうど入れ違いで引っ越してきたんだって。意地悪なヤツだと思ってたんだけど結構いい人かもしれない」
「そう、良かったわねぇ」
澤田のところへ通うようになってから、瑠璃は見違えるほど明るくなった。
明るくなったと言うと語弊があるかもしれない。彼女は分単位で明るくなったり落ち込んだりを繰り返す。とにかく感情の起伏が目まぐるしい。
だが、このところ感情の起伏は今まで通りとしても、表情が生き生きとしているのだ。生きる目的を見出したとでも言おうか、絵を描くことに喜びを感じているのは、母の目にも明らかだった。
「何よりね、澤田先生が凄く優しいの。やりたいっていうことなんでもやらせてくれるし、丁寧に教えてくれるし。見たこともないような画材も、どんどん使わせてくれるんだ。今は木炭デッサンっていうのやってるの。すっごく楽しい!」
どうせあたしなんか何やったって誰にも相手にして貰えない、どうせあたしは嫌われてる、どうせあたしは、どうせ、どうせ、どうせ……。
瑠璃はいつもそう言っていた。やることなすこと裏目に出る、どれだけ頑張っても報われない、今までどれだけの虚無感を味わってきたのだろう。
その彼女が生きがいを見つけ、心から楽しんでいることが、母には嬉しかった。
「あたしね、頑張って絵の勉強して、お母さんみたいに絵のお仕事することに決めたの。だからお母さんも応援してね」
「もちろん。瑠璃のやる事なら、お母さんなんでも応援するよ」
当然だが、雨宮家にもデッサン用の木炭くらいある。だが、澤田に会うまでの瑠璃は、そこまで『絵』というものに興味を示していなかったのだ。
彼女が興味を持っていたのは常に『色』だった。絵なんかどうでも良かった。色鉛筆を並べているだけで幸せそうだった。
幼稚園に入る前に面白い事件があった。幼稚園で揃える十二色のクレヨンに家で一本ずつ名前を書いていた時だ。
普通のクレヨンは十二色と言えば赤、黄色、黄緑、緑、水色、青、桃色、薄橙、茶色、黒の十色に灰色と白で十二色だ。だが、この幼稚園で採用していたクレヨンは灰色と白の代わりに橙と紫が入っていた。
この時点では、瑠璃にとって他の幼稚園よりも親切だったと言っていい。
だが、母が名前を書いている横で瑠璃がそのクレヨンを並べ始めたときに事件は起こった。
彼女は似ている色を隣同士になるように並べ替えるのが楽しくて、名前書きの邪魔をすることなく一人おとなしく遊んでいた。
赤、橙、黄、黄緑、緑、青、紫ここまで来て、赤と紫が隣同士になることを発見した瑠璃は、それを輪っかのように丸く並べ直した。所謂『色相環』を作った状態である。ここまでは良かった。
次に瑠璃は水色の場所に困る。緑と青の間は青緑であって水色ではない。かと言って青と紫の間は群青であってやはり水色ではない。色の名前は知らずとも、感覚で理解していたのだ。
仕方なく、彼女は青の『外側』に水色を置いた。同じように桃色と薄橙でも迷い、結局赤の外側に桃色を配置し、橙の外側に薄橙を配置した。
つまり瑠璃の中で、色相環の外側は明度が高い、専門用語でいうライトトーンという位置づけになったのだ。
瑠璃はこの時非常に満足していた。輪っかが二重になるという発見に、舞い上がっていた。
ところがそこで茶色と黒が残った。茶色は雰囲気的に橙に近かった。とは言え、橙よりも濃い。
そこで、先程の薄橙が外側になったのを思い出し、茶色を橙の内側に入れたのだ。これで橙のラインだけ三本のクレヨンが並ぶことになった。
瑠璃は誰に教わったわけでもなく、自分の感覚としてヴィヴィッドトーン、ライトトーン、ディープトーンを理解していたことになる。
これでもし、一般的なクレヨンにある白と灰色があれば、黒を含む無彩色トリオでいろいろ考えることができたのだろうが、残ったのは黒一色。この『黒』という色の位置づけに迷ってしまった。置く場所が無いのである。
明らかに茶色よりも色は濃い。だが茶色よりも内側に置くとして、どの色の内側に置くべきか。ここまでを僅か三歳の子供が並べただけでも驚嘆に値するが、これ以上のことをこの小さな子供に要求するのは酷である。
案の定、瑠璃は黒の置き場に悩み、狂ったように泣き喚いた。
この時のパニックは今までにないものだった。お昼に色相環を作ってから、風呂にも入らず夕食も取らず、夕方になるまで汗だくになって延々と泣き続け、しまいには疲れ果ててクレヨンを握ったまま眠ってしまった。
これだけでも彼女が色に対する尋常ではないこだわりを持っていたことがよくわかる。
「ねえ、お母さん。この前借りたお母さんのパステルってもう使ってないの?」
「そうねぇ。もう使わないかな。瑠璃が使いたければ、そのままそっくり上げるわよ。木炭もあったはず。お母さん、もうデジタルでしか描かないから、画材みんなあげてもいいよ」
「やった! あたし、パステルで頑張ろうと思うんだ。早速練習してくる、ごちそうさま!」
瑠璃はお椀の底に残っていたお味噌汁を一気に流し込むと、パタパタと自分の部屋へ駆け上がって行った。
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