第10話 いつもの公園
澤田のアトリエを飛び出した瑠璃は公園へ向かっていた。家に帰る気分でもなく、かといって図書館にもう一度行く気にもなれなかった。
澤田の家は釜の淵公園のすぐそばにある。瑠璃にとってここは庭も同然、最初にアトリエを訪れた時もこの公園を目印にしたくらいなのだ。
ここは多摩川がヘアピン状にカーブした地形を利用した公園になっていて、遊歩道あり、吊り橋あり、
瑠璃は嫌なことがあるといつもこの公園に逃げていた。あの日もそうだった。中学二年の、彼女が『普通の学生』からドロップアウトした『あの日』。
積極的ないじめはなかった。よく話に聞くような、教科書を捨てられたとか、体操服を隠されたとか、トイレに閉じ込められたとか、靴の中に砂を入れられたとか、そんなことがあったわけではない。
瑠璃の場合、単に「関わり合いたくない人」として扱われていた。
それは彼女にとって理不尽極まりないものだったが、周囲にしてみれば直接成績に繋がるようなことを瑠璃に邪魔されたくないと思うのは当然のことであり、彼女自身の問題でもあった。
だが、瑠璃には仲間外れにされているという感覚しかなかった。当たり前と言えば当たり前だが、瑠璃の世界では彼女が人生の主人公であり、彼女の邪魔をする者は全て『悪役』だった。
体育の時間、二人でペアになって体操をする。プールでバディを組む。何をするにも瑠璃は一人ぼっちだった。彼女と組むと怪我をする、そう思われていたのだから仕方がない。実際にそうなのだ、誰も組みたがらないのは当然だ。
瑠璃に悪気はない。だが、何か別の情報が割り込むと、それまでやっていたことが頭から抜け落ちる。今入ってきたばかりの情報に気を取られる。
逆立ちでペアを組んだ子の脚を支えるはずの瑠璃が、割り込んできた情報によそ見をして、逆立ちをした子が怪我をしてしまったことがある。
この子は逆立ちが怖くなり、全くできなくなってしまった。当然体育の成績は悪くなる。トラウマになって人を信じられなくなるということが無かったことは、不幸中の幸いと言っていいだろう。
ドッジボールの最中に、他のコートで転んだ子に気を取られてボールをぶつけられ、泣きわめいてコート外に出されたこともある。
この時瑠璃は「よそ見している人にぶつけるのは卑怯だ」と抗議した。だが、「よそ見している方が悪い」とクラス中に言われ、「みんなが自分だけを悪者扱いする」と思い込んでしまった。
自分が主人公の世界で周りが自分と意見を異にすると、自分だけが嫌われていると思ってしまう。みんなに仲間外れにされている可哀想な悲劇のヒロインを演じてしまうのだ。
その思い込みの中で、「周囲は自分を嫌っている」「どこへ行っても馴染めない」「世界中が自分を憎んでいる」と自己暗示をかけてしまう。その為他人との間に壁を作り、自分で周りを拒否していながら「相手が受け入れてくれない」と他人のせいにする。
それを無意識にやってしまっていることにすら気付けなくなってしまうのだ。
注意欠陥・多動性障害を持つ人全てがそうなるわけではない。だが、瑠璃のような思考に陥る人が少なくない事も事実なのだ。
事件は中二で起こった。
それまでクラスメイト達は忍耐強く瑠璃に接し、いじめに発展することはなかった。とは言え、やはり関わり合いたくないくらいのスタンスで一定の距離を保っていた。
だが、二年生は修学旅行がある。班ごとに分かれて自由行動をする時間があるのだ。修学旅行の目玉と言っていい。みんなこの時間を楽しみにしていた。一つの懸案事項を除いては。
二年のクラス替えの時点で、瑠璃と一緒のクラスになった生徒たちの間では既に駆け引きが始まっていた。一刻も早くグループを決めてしまわないと残ったグループが瑠璃を引き取らなければならないのだ。
必ず問題を起こす。そしてそれを「みんなが私のせいにする」と勝手に思い込んで卑屈になる。自分の殻に閉じこもり、悲劇のヒロインになりきる。小学校から何度も繰り返されてきたルーティンを彼らは知り尽くしていた。
あからさまな仲間外れは出来ない。彼らもまた、『良い子』でいたかったのだ。
グループ決めのホームルームがあった。要領のいい子たちは二年になると同時に早々に決めていたグループで集合する。そして、特に何も考えていなかった子たちが集まり、その中に瑠璃がいた。
グループのメンバーは困った顔を見せながらも、協力して班の中の係を決めて行く。グループリーダー、連絡係、食事当番、どれもこれも瑠璃には任せられない。
頭を捻った結果、瑠璃をリーダーに据えたのだ。名前だけのリーダーなら特に何も仕事が与えられない、自分たちに厄災が降りかかることもない。苦肉の策だった。
だが瑠璃は勘違いする。目新しい事や新鮮な情報に左右されやすい特性からか、今まで一度も体験したことの無い『リーダー』という役職に有頂天になった。
自分はリーダーだから、とあちこちの仕事に首を突っ込んでは掻きまわした。そのくせ、学年のリーダー集会などの出席をすっぽかした。もちろん悪意はない、別の新しい情報の割り込みによって、それまで覚えていたリーダー集会の存在を忘れてしまっただけなのだ。
真面目でひたむき、一生懸命。それが彼女の良さでもあり、ウィークポイントだった。頑張りすぎて空回りし、周りの迷惑になっていく。
彼女自身にはそれが「こんなに頑張っているのに、みんなそれを認めてくれない」と映り、「嫌われているんだ、仲間外れにされているんだ」と思い込む原因となる。
とにかく全てに於いて自分が中心なのだ。
相手の気持ちを推し量ることができない、それが発達障害の最大の弱点と言っていい。
だが、それは小さい頃からの関わり方でいくらでも順応できるレベルまで持って行ける。幼いうちに発達障害であることに気付いて貰えれば、適切な関わりによって順応の仕方を覚えることができる。逆に気づいて貰えないまま大きくなると、生き辛さを感じることになってしまうのだ。
彼女の場合、授業中の立ち歩きや大きな声の独り言などの目に見えた行動が無かったため、注意欠陥・多動性障害であることに気付かれるのが遅くなってしまった。この手の障害は対応が遅くなれば遅くなるほど順応が難しくなる。彼女が診断を受けたのは六年生になってからだった。
それから母はいろいろ調べ、できる限りのことはしてくれた。瑠璃が生まれて十五年、いや、生まれる前からいつだって母は瑠璃のことを一番に考えてくれた。
だが所詮素人が一人でできることなどたかが知れていた。
修学旅行を目前にしたある日、決定的な事件が起こった。
係の仕事に「リーダーだから」と首を突っ込んで滅茶苦茶にしてしまい、「頼むから少し黙っててくれない?」と言われてしまった。彼女は頭に血が上り、捨て台詞を残して学校を飛び出したのだ。
「あたしがいなければ、みんな楽しく修学旅行に行けるんでしょ!」と。
どうやってここまで来たのか覚えていないが、気づいた時にはここにいた。吊り橋から川をぼんやり見ていた。
空と川の青さが脳に焼き付いていた。
美しい青だった。作り物ではなく、自然にそこに存在した青。空の青さは時間とともに深みを増して行き、空色から青へ、青から群青へ、群青から濃紺へと色合いは変化していった。
気づくと濃紺の空にはいくつかの星たちが瞬くようになっていた。
何時間そこにいたのだろう。瑠璃は母の呼ぶ声で我に返ったのだ。学校を飛び出したと連絡が入ってからずっと家で待っていたが、いつまで経っても帰ってこない。母が思いつくところはここしかなかった。
母は何も聞かなかった。
中学に入る時、既に彼女の特性については学校側に話してあり、注意して見てもらうように話がついていたため、担任からの連絡で全てを把握していたのだ。
家に帰り、入浴を済ませた瑠璃に母はこう言ったのだ。
「無理して学校なんか行かなくてもいいんだよ」
衝撃的だった。瑠璃にはない選択肢だった。
「エジソンだって学校に行かなかったの。お母さんが勉強を教えたんだって。勉強って学校でなければできないものじゃないのよ。家や図書館で勉強したっていいんだから」
この母の言葉で彼女は決めたのだ。学校をやめて自分で勉強する、と。
クラスメイトたちが受験戦争の只中で友人たちと戦う中、瑠璃だけは自分自身と戦う事に決めたのだ。
この日以来、彼女は群青色が好きになった。あの時、吊り橋で見た空の色。澤田と初めて出会った日も、彼は群青色の鉛筆を拾ってくれていた。群青色は自分にとって運命の色だ、瑠璃はそう信じるようになった。
「瑠璃、こんなとこにいたのかよ、探したじゃねえか」
突然彼女の回想に男子の声が割り込んできた。
驚いて振り返った先に立っていたのは湊人だった。
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