第9話 色と素材

「またやっちゃった」

「何やっちゃったの?」


 午前中に図書館に顔を出さなかった瑠璃は、澤田のアトリエに行く前に忍に相談に乗って貰おうとチラッと図書館を訪れていた。

 今日は小さい子供連れのお母さんがたくさんいて、子供の声があちこちで聞こえている。


「あのね、先生のところに例の男子が来たんです。信じらんない。頭なんかニワトリみたいなんですよ、真っ赤でトサカみたいなの。それで怖い顔して、いきなり『お前、絵を描くのは初めてか』って。失礼な人って思ったから、あたしはお前って名前じゃないって言ったんです」

「へぇ。それで、そのトサカ君は瑠璃って呼んでくれたの?」

「うん。あたしが瑠璃だって言ったら、そう呼んでくれたんだけど。でも、絵を描くのは初めてかって、そんなことトサカに聞かれる筋合いはないし」


 湊人のぶっきらぼうな言い方をよく知っている忍は、苦笑するしかない。


「仲良くしたかっただけかもしれないわよ。だって今まで瑠璃ちゃんの周りの人は瑠璃ちゃんを無視してたんでしょう? トサカ君があなたに質問したって事は、あなたに興味を持ったんじゃないかしら」

「あ、そっか。どうしよう。あたし酷い事言っちゃったかも」


 ほんの一秒前までプンスカと怒っていたのに、たったの一言であっという間に考えがひっくり返る。こんなにコロコロと感情が変化するのはとても疲れるんじゃないだろうか、ましてこんなに素直ならこの性格を悪用されかねない――忍の心配をよそに瑠璃は話を続けている。


「そのトサカ君、湊人って言うんだけど、『あたしは先生に絵を習いに来たんであって、湊人に習いに来たんじゃない』って言っちゃった。もしあたしに興味を持ってくれてたなら、きっと傷ついたよね?」

「そうねぇ、傷ついたかもしれないわね」


 湊人がそんなことをいちいち気にするような子ではないことを忍はよく知っている、だがここはそう言っておいた方が良さそうだ。


「どうしよう、あたし」

「そんな悩むような事じゃないわよ。彼にもう一度会って、素直にごめんなさいって謝ればいいのよ。それで許してくれないような男なら、そいつが人間の器が小さいの。大丈夫よ、行ってらっしゃい」


 忍の言葉に自信を持ったのか、顔がみるみる明るくなっていく。落ち込むのも早いが、立ち直りも早い。他人の言葉に簡単に翻弄される。


「ありがとう忍さん、あたし謝って来る!」


 手を振りながらでて行く瑠璃を見ながら、忍はやれやれと肩をすくめていた。


***


「先生、今日は湊人は何時くらいに来るんですか?」

「ん? いつも通りなら五時前後だと思うけど」

「あたし、湊人に謝らなきゃならないから、今日はそれまでここにいます」

「もちろんかまわないよ。僕は自分の仕事をするから、君も好きなように描いていくといい」


 ポーカーフェイスを決め込みながら、澤田は内心おかしくて仕方がない。

 昨日、瑠璃が帰った後で、彼女の置いて行ったパステルの習作を湊人が眺めてこう言ったのだ。


「すげえ。色彩感覚が振り切ってる。デッサンがこれだけ悲惨なのに、この色使い。あ、そうか。だからあのセンスの欠片もない服装だったんだ」


 澤田が何故そう思うのかと問いかけると、「彼女は服装を選ぶとき、形や素材を完全に無視して色だけで選んでた」と言い切ったのだ。

 実際にそうだった。綿の平織りブラウスにパイル地のパーカー。ボトムはシフォンのスカート。素材感がメチャクチャだ。

 しかもブラウスは清楚な小花柄、羽織ったパーカーは幅広ボーダー、スカートは水玉模様だった。とにかくごちゃごちゃとやかましい。まるで合わない。

 だが、色は完全に青系で統一されていた。白、水色、青、紺、徹底した青系であり、緑や紫すら許さなかった。確か最初に来た日もその恰好だった。


 今日は違う。少々蒸し暑いからだろうか。ダブルガーゼのストンとしたオレンジ色のワンピースに、透かし編みの涼しげなアイボリーのカーディガンだ。


 服の色は系統を合わせてきている。だが、描くものは様々な色が複雑に絡み合っている。それが彼女のこだわりなのかもしれない。

 湊人はそれを「色は完全に計算しているが、デッサンは服の素材と同じで全く考えてない」と表現したのだ。言い得て妙とはこのことだろう。


 湊人は美的センスが抜きんでている。それを表現するだけの力がまだ備わっていないだけだ。彼がいろいろな技術を習得して行ったら、とんでもないアーティストになるだろう。澤田にとって湊人の上達は楽しみの一つでもあった。


 澤田がぼんやりと物思いにふけっている間にも、瑠璃は昨日に引き続き、木炭デッサンを次々に描いて行っている。彼が出した『左手』という課題で、手を握ったり開いたり指を立てたりと、いろいろなポーズを作りながら何枚でも飽きずに描いている。

 このあたりの集中力は驚くべきものがある。会話の中で十秒おきにコロコロと話題が変わるところからは想像もつかない集中の仕方だ。


 彼が三杯目のコーヒーを淹れたところで、アトリエのドアが開いた。湊人だった。


「こんちゃーっす」


 瑠璃は「あっ」と言ったまま、そこからどう続けていいかわからず、湊人をじっと見たまま立ち尽くしていた。


「やぁ、今日は随分早いね」

「短縮授業。あ、瑠璃いたんだ」


 昨日のことなど気にも留めていない様子で、湊人はカバンを入り口の近くの床に置いた。彼のカバンはとても重そうに瑠璃の目には映った。彼女も普通に高校に行っていたら、これくらいのカバンを毎日持ち歩いていたのだろう。瑠璃にはそれを見ることが後ろめたく感じられた。


「あの……湊人」


 持てる勇気を全て振り絞って呼びかけた声は、上ずってひっくり返っていた。


「あ? 何」

「あの、昨日ごめん……なさい」

「何が?」

「えっと、あたしの方が失礼な事言った」

「そうだっけ?」


 ケロッとしている湊人に肩透かしを食らった瑠璃は、強張った上半身から少し力が抜けた。――なんだ全然気にしてないじゃない。


「それよりさ。瑠璃のパステル見たけど、デッサンできてないな」


 みるみる瑠璃の顔色が変わる。


「はぁ? なにそれいきなり」


 ああ、またか――澤田は頭を抱える。なんでこんなに気が短いんだ。来たばかりじゃないか、最後まで話を聞けよ――。


「そんなこと湊人に言われなくても澤田先生から言われたもん、だから今だって木炭使って練習してたんだよ。勝手に人の絵見てケチつけんのやめてよ。湊人って最低、もうあたしに関わらないで!」


 再びポカンとする湊人と頭を抱える澤田を残して、瑠璃は今日も派手にドアを閉めて出て行った。

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