第8話 トサカ

 瑠璃がソフトパステルで描いた習作をスケッチブックに挟んで持って行くと、澤田は「やあ、来たね」と笑顔で出迎えてくれた。


「お母さんのパステル出してきたんですけど、ソフトパステルだったんです。それであたし、ソフトパステルで練習してみたんです。先生に見て欲しくて」

「どれ、見せて貰おうか」


 先日ハードパステルで絵を描かせて貰った大きな机にスケッチブックを広げると、澤田は「ありゃ」と呟いて画材棚からスプレー缶を出してきた。


「パステルは定着液を使わないと粉が落ちてしまうよ。お母さんに教えて貰わなかった?」

「お母さんの見てないところで描いてたから」

「ほら、裏に粉が移っちゃってる」


 白い綿手袋を装着した澤田が床に新聞紙を敷いて絵を乗せる。先日、紙飛行機の絵を描いた時にもこのスプレーをかけていた。


「これは定着液ね。鉛筆やパステルみたいな粉状の画材は、触れることで掠れてしまったり、粉が移動してしまったりする。そうすると完成品でもどんどん雰囲気が変わって行ってしまう。それを防ぐために、こうして定着液を吹き付けて画面を保護するんだ」

「パステルフィキサチーフって書いてある」

「ああ、僕はフィクサチーフって呼ぶけど、フィキサチーフと呼ぶ人の方が多いかな。鉛筆や木炭用のフィクサチーフもあるからね。定着の強度がそれぞれに違う」


 話しながらも澤田は次々とフィクサチーフを吹き付けている。

 瑠璃にはこれができない。二つのことを同時にやるということができないのだ。だから新しい情報が割り込むとそれを優先してしまい、それまでのことは記憶の彼方に追いやられてしまう。


「これが最初に描いたものかな。こっちはだいぶ慣れて来てるね。ソフトパステルは線描が難しいということに途中で気づいたらしいね」

「はい、ソフトパステルよりはこの前のハードパステルの方が描きやすかったです」

「君はまだ線で絵を描いているからね。そのうちに面で絵を描くようになればソフトパステルの良さがわかるようになるよ」


 母親の影響だろうか、ファンタジックなものが多いが、一つ一つを見るとデッサンが十分でないことが窺い知れる。だが、色合いは悪くない。


「君はデッサンがあまりできていない。まずはデッサンをやった方がいいんじゃないかな」

「デッサンってなんですか」

「フランス語で素描のこと。三次元上の物体や空間を二次元の紙の上で克明に表現する練習だよ。見たものを見たままに単色で描く練習」


 瑠璃があからさまに嫌そうな顔をする。単調な練習は嫌いということか。


「単色ですか? 色使っちゃダメなの?」


 そっちか。要は多色で描きたいということらしい。


「まずは鉛筆一本で本物そっくりに描けるようにならないとね。君は配色のセンスはとてもいいんだが、デッサンが狂ってるから勿体ない」

「鉛筆じゃつまんない」

「木炭やコンテでもいいよ」


 瑠璃の顔がパッと輝いた。ストライクゾーンにヒットしたらしい。


「木炭ってなんですか、それ使ってみたい!」


 澤田が引き出しから木炭を出してくると、それはそれは嬉しそうに、宝物を発見したトレジャーハンターのような顔になった。本当にこの子は目新しい物が好きというか、幼児がそのまま大きくなってしまったようなところがある。


「これが木炭紙。木炭デッサンに適してる紙ね」

「木炭専用の紙があるんだ!」

「じゃ、まずは自分の左手を描いてごらん」


 澤田が木炭を一本手渡すと、物珍し気にいろいろな角度からそれを眺めていたが、やがて満足したのか紙に向かった。


「あ、ストップ。木炭は鉛筆みたいな持ち方はしない。親指と人差し指で持って。後の三本の指は軽く曲げて支える感じで。ぎゅうぎゅう持っちゃダメだよ」

「はい」


 それからの瑠璃は、先日のパステルのときのように一心不乱に紙に向かった。澤田も彼女には声を掛けずにいた。せっかくの集中を途切れさせるわけにはいかない。


 暫く無心に書いていた瑠璃が「なんか違う」と言い出した。


「見たとおりに描いてるのになんか違うんです。何が違うのかなぁ。細かいところまですごいよく見て描いたのに」

「ああ、それはね――」


 澤田が言いかけたときに、アトリエのドアが開いた。


「こんちゃーっす」

「お、湊人、今日は早いね」


 第二ボタンまで開けた半袖のカッターシャツ。その襟元から覗く黒いTシャツ。夏用に薄い布地で作られた黒の制服ズボン。履き古して穴の開いたバスケットシューズ。手首にはアーガイル柄の赤いミサンガ。

 涼し気な切れ長の目に、きりっと十時十分を指した眉毛。そして、その上で自己主張している、鶏のトサカを彷彿とさせる真っ赤に立ち上がった髪。


 驚いて固まったままの瑠璃に、トサカ男が「何?」と一瞥をくれると、「この子、この前言ってた瑠璃ちゃんだよ」と澤田が紹介する。


「瑠璃ちゃん、彼がいつも夕方に来る小笠原おがさわら湊人みなと君」


 瑠璃は訝し気に見上げると、一応恰好だけでも「どうも」と頭を下げた。彼は瑠璃の木炭画を見ると、挨拶代わりに「お前、絵描くの初めて?」と訊いた。


「あたし、『お前』って名前じゃない。瑠璃。雨宮瑠璃」

「あそ。瑠璃は初めてなのか?」

「なんでそんなこと聞くの、あんたに関係ないじゃない」

「オレは湊人。『あんた』って名前じゃねえよ」

「あたし帰る」


 瑠璃はスケッチブックを抱えて出て行こうとした。が、背後から湊人の声がした。


「おい待てよ、オレはお前を『瑠璃』って呼び直したんだけど。瑠璃はオレのことを『あんた』って言いっぱなしで、知らん顔で帰んのかよ」


 くるりと振り返った瑠璃はムッとした顔で「じゃあ、湊人!」と言った。


「湊人に関係ないでしょ、あたしのこと詮索しないでよ。あたしは先生に絵を習いに来たんであって、湊人に絵を習いに来たんじゃない!」

「は?」


 ポカンとする澤田と湊人を残して、瑠璃はわざとらしいほどに派手な音をさせて出て行った。

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