第7話 司書
「それでお母さんに頼んで、その先生のところで絵を教えて貰う事にしたんです」
久しぶりに図書館で忍に会った瑠璃は、早速澤田のことを報告していた。午前中の図書館はお年寄りがほとんどで、たまに赤ちゃん連れのお母さんの姿も見える。
「先生のことが気に入ったの?」
「先生っていうか、先生の描く絵が気に入ったんです。五年生の時の社会の教科書、先生の絵が表紙になってて、その頃から大好きだったんです。まさかあたしに声を掛けてくれた人が、あの教科書の絵を描いた人だったなんで知らなかったから、凄いビックリしました。運命だと思いませんか、あたしと先生が出会ったのって」
忍は一瞬返答に困る。まさか自分が澤田に瑠璃のことを話したなんて、この子は思いもよらないだろう。運命の出会いだと信じているのに、それを知ったらがっかりするに違いない。
「そうね。運命かもしれないわね。瑠璃ちゃんが画家さんになるなら、わたし応援するわよ」
「ありがとうございます。あたし、すごい画家になれる自信があるんです。先生のところで勉強したら絶対あたしだってみんなに注目して貰えるようになる」
注目してほしくて画家になろうとしているのか。それとも無視されることが当たり前だった過去に決別したいだけなのか。
そして『すごい画家になれる』という根拠のない自信。しかも『きっと』ではなくて『絶対』と言い切っている。
こんなとき根拠を尋ねれば、いつも「なんとなく」という言葉が返って来る。なんとなくなのに、絶対的な自信を持って語る。そして思い通りに行かないと、この世に神は居ないとばかりに落ち込む。そのくせあっという間に立ち直る。
感情の起伏がコロコロと変化して行って、話を聞いている方はついて行けなくなる。これが、彼女が学校で孤立してしまった原因の一つになっていることは想像に難くない。
「それじゃあ瑠璃ちゃんは午前中ここで勉強して、午後から先生のところへ行くの?」
「うーん、それがね、夕方になると男の子が来るらしいんです。その男の子にはなんだか会いたくなくて。先生と二人の方がいい。だから男の子が来る前に帰らないといけないんです。午前中に行こうかなぁ」
「でもそうしたら、午前中は瑠璃ちゃん、夕方からは男の子、先生は自分のこと何もできないわね」
ここでフォローしておかないと、本当に澤田は二人の『問題児』に振り回されて、自分の時間など持てなくなる。それは忍と澤田が会う時間が無くなることをも意味する。
「そっか。先生もお布団干したりしたいですよね。やっぱり午後一にしよっと! あのね、この前先生のところに行って、いろんな画材見せて貰ったんです。面白かったー。パステルが気になって一つ絵を描かせて貰ったんですけど、難しかったなぁ。お母さんはパステル専門だったんですけどね」
「親子だからって同じものが得意とは限らないわよ」
「そうですね。あたし、やっぱり色鉛筆が好きかも。あのね、ハードパステルっていうの、使ってみたんです。だから今度はソフトパステルに挑戦しようと思ってるんです」
澤田のアトリエにあったソフトパステルは確か二百五十色ほどあったはずだ。彼女に使いこなせるのだろうか。
「お母さんのパステルがしまってあったから、それを出してきて練習してるんです。紙もお母さんが買って使わなかったのがあるからそれを使ってるんだけど、先生のところで借りたのはハードパステルで、お母さんのはソフトパステルだから、なんか使い勝手が違ってて慣れるまで大変でした」
この子はきっと、話している相手が画材のことを全く知らない人でもこうして一方的に話すのだろう。現に今こうして忍が画材のことを知っているか知らないかなど全く気に留める様子もなく、自分の知っていることを世界の共通認識として当たり前のように話している。
「あれからたくさん描いたから、今日は先生のところへ行って見て貰おうと思ってるんです」
「毎日行ってるわけじゃないの?」
「好きな時に来てくれればいいよって言ってくれたから、気が向いた時に行ってます。でも、そのうちにここみたいに通うと思います」
そうなったらいずれあのアトリエで会う事になるのだろう。忍と澤田が結婚を前提につき合っていることはその時に知られることになるだろうが、今はまだそれを知らせる時期ではない。この子に話したらきっと湊人にも知られるだろう。
「あ、もうこんな時間、早く帰ってお昼ご飯食べないと、午後一から先生に見て貰わなきゃならないのに! あたし帰りますね。忍さんお話聞いてくれてありがとう。お仕事頑張ってください。さよなら!」
思い立つ日が吉日。彼女の為にある言葉だ。嵐のように図書館を出て行く瑠璃を、忍は言葉も発せずに見送った。
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