第6話 特性と才能
「注意欠陥・多動性障害。所謂ADHDね。目や耳に飛び込んできた新しい情報に敏感に反応するから、それまでやっていたことをすぐに忘れちゃう。片付けないままどんどん次に手を出すから、本人の周りはいつも散らかってる。常にソワソワと落ち着きが無いように見えるかもしれない」
「確かに瑠璃ちゃんを見てるとそんな感じだな」
澤田は珍しく自宅リビングで恋人の
彼女はアトリエにはほとんど来ることはない。仕事の邪魔はしたくないのだ。必ずアポを取って、一階の方に来る。
今日は珍しく澤田の方から彼女に「来て欲しい」と連絡していた。こんなことは滅多にないので忍としては嬉々としてやっては来たのだが、どうして男という生き物は用事が無いと呼んではくれないのだろうかと、少々不満も感じている。
「瑠璃ちゃん、初めて図書館に来た時も午前中だったのよ。来たのはいいんだけど、何をしたらいいかわからないって顔で所在なげに座ってたから、私の方から声を掛けたの。それ以来、私にはよく話しかけてくれるんだけど」
「学校は行ってないの?」
空になったコーヒーカップを忍が弄んでいるのを見た澤田は、キッチンへ向かうと二杯目のコーヒーを淹れ始める。
「そうね、中二でドロップアウトしたんだって。いじめ……っていうか、積極的な嫌がらせじゃないけど、誰にも相手にして貰えなくなったらしいの。それで学校に行くのが辛くなった時に、お母さんが行かなくていいって言ったんですって。だけど勉強は続けなさいって言われたらしいのね。それで家に居たらいくらでもサボれちゃうから、図書館で勉強しようと思ったって言ってたわね」
「なるほどね」
澤田はインスタントコーヒーの蓋を開けると、鼻からゆっくり息を吐いた。
確かに思い当たる節はある。むしろ思い当たる節しかない。いきなり「ちゃん付けはやめてくれ」と言い出し、教科書の絵が見たい、カラーインクが見たい、他の絵も見たい、パステルが見たい、パステル画が見たい、油絵のキャンバスが見たい……そして紙飛行機を見つけて帰ると言い出し、紙とパステルを出してやったら一心不乱にそこからぶっ通し二時間半描き続けた。
ちょろちょろと落ち着きなく興味の対象が変わったかと思えば、描き始めると他のことが一切見えなくなる。
最初のうちは初めて触るハードパステルを扱いきれずに、唸ったり叫んだりと忙しかったようだが、三十分もすると慣れて来たのか静かになった。作品を描くという工程を使って、パステルという画材を理解する、といった感じだった。
だが、彼女は完璧主義者だった。「色がイメージと違う」と言っては澤田を呼び、「ここはぼかしたい」と言っては澤田を呼ぶ。その都度消しゴムを出してやったり、パフや綿棒を出してやったりするのだ。
出来上がった絵は決して上手と言えるような代物ではなかったが、彼女には納得のいく出来だったらしく、非常に満足していたようだった。
そこからフィクサチーフをかけ、トレペで保護して、大判のクリアフォルダーに挟んで持ち帰らせた。
帰り際に「あたし、ここで絵を習います。お母さんに交渉するので、月謝いくらになるのか教えてください」と言い出した。本当に何から何まで規格外の子だった。
「僕の手には負えないかもしれないな」
コーヒーを運んできたことで気が緩んでいたのだろうか、心の中で言ったつもりだった言葉は、音声化されて澤田の口から出てしまっていた。
その彼の言葉を忍が聞き漏らすはずはない。彼女はフッと笑うと「何言ってるのよ」とカップを受け取った。
「あなたのところへ行くようになってから、
確かにそうかもしれない。湊人もこのアトリエに来るようになった当初は、学校には行かずに好き放題やっていた。だが引きこもっていたわけではなく、自分のストレスを外に向かって発散していたためにいろいろと問題を起こしていたのだ。
そのうちにこのアトリエは『ちょっと問題のある子』たちの駆け込み寺になってしまうんじゃないかと、澤田は苦笑いが隠せない。
「湊人、最近凄まじい勢いで上達してるよ。この短期間であそこまで上達するとは思わなかった。あの子はセンスがある。テクニックを盗むのも早い。よく研究してるよ」
「湊人もそうだけど、瑠璃ちゃんも……なんか、みんなあなたに任せちゃってるわね」
「かまわないよ、才能のある子ならいくらでも大歓迎」
実は、澤田が瑠璃に声を掛けたのは偶然ではなかった。忍が司書として働いている図書館に来る瑠璃を、彼女が気にかけていたのだ。
勉強をしに来ているらしいが、ほとんど絵を描いている。たまに勉強をしているようなときもあるのだが、教科書にラインマーカーでひたすら線を引いているのだ。
それもラインマーカーの配色を楽しんでいるようなところがあって、実際にそれで勉強が捗っているかどうかはわからない。マーカーで教科書が埋まっていくことによって、目に見える成果が得られることを喜んでいるようにも見える。『頑張っている自分』に安心したいだけに見えた。
いずれにしろ、それが自分の実になるような勉強とは、忍にはとても思えなかったのだ。
それならいっそ、やりたいことをやって、その中で必要だと思った勉強をすればいい。義務教育の範囲さえきちんと押さえておけば、あとは絵を描くことの中から何かを見出していくのもアリかもしれない。そう思った忍は、澤田に連絡したのだった。
結果、瑠璃にとってそれは吉と出た。澤田が『面白い』ということは大抵良い方に転がっていく。湊人でそれは既に証明されている。
あとは湊人と瑠璃がお互いを拒絶しなければこのアトリエはうまく回っていくだろう。拒絶したとしても、湊人が夕方に来ることを考えれば、瑠璃に午前中に来て貰えば済むことだ。
その分、澤田は大変になるだろうということは予測できたが、忍も図書館で描く瑠璃の絵を何度も見ているだけに、その才能を埋もれさせておくのは勿体ないと感じていた。
「そろそろ帰るわ。湊人が来る頃でしょう? ここで会っちゃったらなんか気まずいしね」
「ああ、そうだね」
忍がパンプスに足を入れながら、ふと思い出したように言った。
「ドレス着るなら、四十になる前がいいわ」
「君は四十になっても綺麗だと思うけど」
「そんなこと言ってくれるのはあなただけよ。オバサンがドレスだなんて痛々しいだけじゃない、綺麗なうちに着ておきたいわ」
澤田はクスッと笑うと、彼女の腰に手を回した。
「今度の君のお休みの日に、式場でも見に行こうか」
「約束ね」
忍が出て行くのを見送りながら、澤田は瑠璃のことを考えていた。
「注意欠陥・多動性障害か……」
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