第5話 パステル画
澤田がパステルを片付けていると、「これですか?」と背後から声がかかった。
「そうそう、これ。さっきの机の上で出してごらん」
そんなに慌てなくてもいいだろうに、彼女は一刻も早く見たいのか、大急ぎで机の上にポートフォリオを広げ、マスクと手袋を装着した。
澤田の背後から「うわぁ」という感嘆符付きの声が飛んできた。
「先生、これ、お母さんの絵ですよ」
「お母さんの絵? そんなもの描いたかなぁ?」
「違うんです、あたしのお母さん、こういうのを描くんです」
何やら興奮している様子の瑠璃のところへ戻ると、海の中で魚たちが泳ぐ絵を描いたものを見ているようだった。
「瑠璃ちゃんのお母さん、パステル画を描くの?」
「はい、パソコンで描いてるんですけど、こういうのが多くて。昔パステル使ってたのかもしれないですけど」
「お母さん、絵描きさん?」
「イラストっぽいの描いてます。絵本の絵とか、児童書の挿絵とか、そんなのを書く仕事してます」
「名前は?」
「雨宮
澤田はその名前に聞き覚えがあった。ということは、それなりに売れているイラストレーターなのだろう。だが、絵面が全く浮かばないところを見ると、彼との接点は全くないような画風なのかもしれない。
しかし、母親がイラストレーターなら、何故ここへ来たのだろうか。
「お母さんには絵を教えて貰ってないの?」
「はい、絵を教わるっていう事を考えたことが無かったので。あたしがパティシエになりたいって言ってたからかもしれないけど」
「パティシエ?」
思いがけない職業が飛び出してきた。まるで畑違いではないか。
「でも、パティシエになりたいって思ったのは先週なんです。テレビでパティシエのことやってたから。その前は雑誌の編集長になりたかったんです」
「どんな雑誌?」
「ファッション雑誌です」
この服装で、ファッション雑誌? 言葉には出さないが、澤田の表情がそれを雄弁に語っている。だが、彼女はそれに気づく気配すら見せない。
「編集者じゃなくて編集長なの?」
「はい。ドラマでやってるの見て、絶対編集長でないとダメだって。絵描きになろうなんて思ったことありません」
「じゃあ、どうしてここへ来たの?」
「先生に会ったら、あたしの天職を見つけた気分になったからです」
十五歳。確かにまだ子供だ。だがこの子のあどけなさというか精神的な未熟さは、十五歳のそれではない。世間知らずという言葉で表現するには、少々方向性も違うと澤田は感じていた。
絵を描きたいというのも実はその場の思い付きで、すぐに飽きてしまうのかもしれない。これはとんだ見当違いだったか。
「先生、こっちのはなんですか」
もう気持ちは次へと移っている。彼女の興味は秒単位で変化していくようだ。
「油絵だよ」
「この部屋に入った時、これの匂いがしました」
澤田は黙ってうなずいた。彼は瑠璃がどれに興味を持つのか見届けようとしていた。今のところ、ひとつ残らず興味を持っている。さっきのパステル画はほっぽり出したままだ。もうその存在すら忘れているのではないだろうか。
「これ、木の枠に布が張ってあるんですね。油絵って布に描くんだ……」
「それをキャンバスって言うんだよ。昔、船に帆をかけていたころ、帆にするための丈夫な布が作られていたんだ。それを帆の布と書いて
「へえ……帆布。キャンパスって言うんだと思ってました。そのハンモックの上にあるのがこれですか?」
「うん、そう。あれは全部未使用」
「見ていいですか?」
言いながら既に手はハンモックの上段にあるキャンバスに伸びている。手が届かないと判断したのか、ハシゴに登り始めた。百八十センチ近くある澤田にはほとんど必要とされないハシゴだが、百六十センチ無さそうな彼女には必需品のようである。
「先生、こんなところに紙飛行機がありますよ?」
「え?」
彼女はキャンバスの隙間から紙飛行機を持って降りて来た。
「おかしいな、僕はこんなもの……ああ、あいつか」
いきなり笑い出した澤田に、瑠璃は訝し気な視線を投げる。
「実はうちに来てる子が一人いるんだ。瑠璃ちゃんと同い年かな、彼は高校に行ってるから、帰りにここに立ち寄るんだ」
「彼? 男子ですか?」
「そう。会いたければ四時半過ぎに来れば会えるよ」
「会いたくないから聞いたんです。あたし、帰ります。また来ていいですか? 今度来るとき、絵を習うかどうか決めます」
驚くほど明確な拒絶。同年代の男子が嫌いなのか?
何かいじめにでも遭っていたか、それとも学校へ行っていない事への負い目か。
そそくさと帰り支度をする彼女に、澤田は情け容赦ない一言をぶつけた。
「片付けてね。パステル画のポートフォリオ、それとキャンバスも」
「あ、そうでした。すいません」
急いでバタバタとハシゴを上る瑠璃に、澤田の声が飛んで来る。
「そんなに慌てなくても、まだまだ当分来ないよ。ゆっくり見て行ったらいい」
「だけど早く描かないと忘れちゃうから」
「何を?」
「紙飛行機の絵が浮かんだから、早く描きたいんです」
もうイメージができたのか。
「じゃあ、今描くんだ」
「え?」
「片付けは僕がやろう。忘れないうちに描くんだ。スケッチブックは持って来てる?」
「無いです」
「紙は僕が提供しよう。何で描きたい?」
「色鉛筆しか使ったこと無いです」
「そんなことは聞いていない」
つい、澤田の口調が強くなる。瑠璃がびくっと肩を上げるのを見て、澤田はゆっくりと噛んで含めるように言った。
「君が、今、何を使って描きたいかだ」
「えっと……パステル。ハードパステル」
「わかった、そこに座って」
瑠璃を机の前の椅子に座らせると、棚から何枚かの紙を出してくる。色のついているそれらは、どれをとっても表面がざらざらし、それぞれにその凹凸の特徴が異なっている。
「紙、選んで。これがミューズコットン、これはワトソン、こっちはマーメイド、こいつはサンド、これはミ・タント――」
「ミ・タントにします」
速い。即断即決、まるで躊躇が無い。
澤田は引き出しからカラーサンプルを出した。
「色は? ここに在庫があるとは限らない」
「空色」
「ある」
彼は紙とカレーパステルを出してきて、彼女の前に置いた。
「さあ、好きなように描いてごらん」
言い終わる前に彼女は描き始めていた。
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